五、赤い糸
(川口なの?)
真悠は、川口の傘と柴田さんの手紙、釣鐘草を手に、ゆっくり石碑に近づいた。
改めて石碑を見つめる。公園が建てられたことへの記念碑。表にはそう記されている。裏には洪水の歴史が書かれているはずだ。あまりに隅にあるので、存在を知らない人もいる。その証拠のように、周囲を背の高い雑草に覆われていた。
「おい」
突然声がして肩を強張らせる。
石碑の影から現れたのは川口ではなかった。
それは真悠に「笑」とメッセージを送った男。
「尾崎?」
その時、踏切の音がなり始める。
石碑の後ろには、真悠がいつも乗っているのとは別の路線が走っていて、線路に侵入しないように緑のフェンスが連なっている。
「斎藤真悠」
名前を呼ばれ、真悠は思わず顔をしかめる。石碑とフェンスを背にした男は、確かに尾崎だった。うつろな目でこちらを見ている。中学のときより随分背が伸びている。痩身といえど肩幅はがっしりして、顔立ちも大人びてみえた。
やがて、電車がけたたましい音を立てて通り過ぎていった。
尾崎も川口と同じで、修学旅行で同じ班だった。卒業式のあと変なメッセージを送りつけてきた。それだけの男だ。
「何でここに?」
ようやく言葉が口からこぼれた。
しばらく何も話せなかったのは、突然現れたことへの驚きと、尾崎が手を突っ込んでいるズボンのポケットからダラリと赤い糸がたれていて、その鮮やかさに目を奪われたからだった。
そんな真悠を気にも止めず、尾崎は口元を歪めながら真悠に近づくといきなり話しかけてきた。
「雨なのに何してんだよ」
答える義理はない。しかし、尾崎は黙っている真悠を足元から観察し、鋭く視線を投げかけた。
「柴田を探しているならやめろ」
真悠はギクリと顔を上げる。
「なんでそんなことを言うの?」
「なんで?」
理解しないことを見下すかのような、厭味ったらしい長いため息をつく。
「突然川口が現れて、柴田の母親に会えだなんて、普通スルーするだろう? ごめんなさい、行けません、だろ?」
「どうして知っているの?」
「俺は賭けに負けた」
尾崎はニヤニヤと笑う。そうだ。こいつと川口は友だちだった。
川口は尾崎と賭けをしたのか。
(サイテー)
真悠は心のなかで舌打ちをする。
「俺は止めたんだ。それに、斎藤はいくはずないと思っていた」
「尾崎には関係ない」
「確かにね」
笑いながらも尾崎の目が冷たく光っていた。
「俺は関係ない。でも、斎藤には関係があるってことか。柴田の家に行ったってことは、思い当たる節があるのか」
「思い当たる節?」
「お前、柴田を呪っただろう?」
真悠はしばらく動けなかった。尾崎の手から伸びる赤い糸が、ゆらりと揺れた。
あの日、確かに願った。他人の不幸を強く、強く願った。
「何なら、俺も、川口のことも、呪っただろう?」
「何言ってるの?」
真悠は嘲るように笑った。
それは自分に向けての嘲笑だ。
「呪った」という言葉には現実味がない。まさに荒唐無稽だ。例え、あの日、石碑に祈ったとしても。
そう言い聞かせている自分は愚かだと気づいていた。
(それでも、大真面目に「呪い」として信じることはできない)
真悠は胸によぎる予感を打ち消したくて、両手を強く握りしめた。
「俺たちを恨んでいるだろう? お前の呪いが、今になって効いてきたのか? 柴田の次は川口が消えるのか?」
「それ、正気で言ってるの?」
真悠は尾崎を睨みつける。
「正気だよ」
「信じられない。馬鹿馬鹿しい」
尾崎は小さく笑い、揺れていた糸を指に絡めませて見せた。
「この糸、見えているんだろう?」
やっと聞きとれるような小さな声で呟いてから、再び真悠を見つめる。
「信じないなら、もう関わるな」
冷たく突き放すような言い方だった。
真悠は何も言えずに、しばらく尾崎を見つめることしかできなかった。
(糸が何だというのだ。呪いなんて信じられない)
尾崎に背を向け、逃げるように駆け出す。これ以上話したくなかった。振り返ることなく公園を出ていく。
呪い? 本気で言っているなら、どうかしている。
関わるな? 川口のほうから絡んできただけなのに。
それなのに、嫌な予感はとまらない。
石碑のそばに立つ尾崎のせいで、毎朝電車から見ていたあの女と柴田さんが重なる。
(違う。きっとあれは、柴田さんじゃない)
そう自分に言い聞かせる真悠の眼裏に、尾崎の手から垂れた赤い糸が残像になって居座り続けていた。