三、思い出したくない思い出について 後
足元から寒気が襲ってきた。指先まで冷たくなっていく。今、何もかも悟ったのではないか。尾崎のメッセージが何を意図しているのか察してしまったのではないか。
ーー気にしてくれてありがとう。
と、送ってスマホを伏せた。
笑。その意味はなんだ。
(笑。って……)
怒りが喉までこみ上げる。
(からかわれた)
真悠は吐き気がして、目の前のスマホを投げつけて壊してしまいたくなった。奥歯がカタカタと鳴る。
どうしてこんなことができる。どうして。
「真悠、早く風呂に入っちゃって」
ドアの向こうから聞こえた母の声に我に返る。
「今入る!」
そう答えて、着替えをかき集め部屋を出た。
「長湯しないでね。あとがつまっているから」
部屋の外で待っていた母に、釘を差される。
「はぁい」
生返事をしながら風呂へ向かったその時、隣の部屋にいた姉の声が聞こえた。
「真悠ってば卒業式終わった後、誰とも遊ばなかったの?」
「全くね」
母のため息混じりの返事が続く。
「真悠は友だちいないから仕方ないでしょ」
姉と母の会話を聞きながら、パジャマを持つ手に力をこもる。ここでは泣いてはいけない。早く風呂に入ろう。そこで泣くしかない。声を殺して、一人で泣くしかないんだ。
次の日、春休みに開設される高校入学準備授業のために真悠は朝から塾へ向かった。隣駅のすぐ近くにあり、通うのは苦ではない。何より、地元から離れていくのを車窓から見るのは好きだった。
「あんたは友だちいないんだから、勉強くらいしとけば?」
と、姉が勧めた事前学習コースだったで最初は気乗りはしなかったけれど、申し込んでよかった。何もしないで家にいるよりずっと気が紛れた。
その帰りだった。
昼時の電車へ乗り込み、ドアのそばに立つと、聞いたことのある声が聞こえてきた。
「昨日のはエグいわ」
「だって。山下が気にしてたから」
ちらりと隣の車両を覗く。全身の血の気が抜けていく。川口と尾崎の姿が見えたからだ。
「えっ? 俺?」
山下もいる。隣の車両といっても離れた場所にいるはずなのに、山下も川口も尾崎も、何を話しているのかはっきり聞こえるほどに大きな声でしゃべっている。
「山下が斎藤さんに呪われないか心配すぎるって言うから」
「恨まれて刃物で刺されたりしたら嫌だもん」
「嫌だもんって」
男同士の軽い笑いが続く。真悠の手すりを持つ手が汗ばんだ。
「でも本当にやるとは思わないよね」
続く声は柴田さんだった。
男三人と思いきや、柴田さんもそばにいたのだ。学校で聞くより気だるそうな声だけれど、確かに柴田さんだ。
「斎藤さんとやりとりなんて」
「あら。柴田ったら辛辣。山下を取られないか心配だった?」
「川口うるさい」
ゲラゲラと大きな声で笑い、騒がしさに周りの客が渋い顔している。
(最悪だ)
山下、尾崎、川口、それから柴田さんの四人で、どういうわけだか同じ電車に乗っているなんて。最寄り駅も同じだから、一緒に降りなくてはいけない。
(絶対に見つかりたくない)
真悠は手すりを持つ手を握りしめた。
幸運にも、彼らのほうが改札に近い車両に乗っている。気づかれないように後から駅を出れば顔を合わさないで済む。もっと離れようと、足を踏み出そうとした、その時だった。
「見る? 斎藤さんとのやり取り」
尾崎の声がして身体が固まった。
「柴田さんは見てないよね。山下と川口は一緒にいたからリアルアイムでずっと見てたけど」
「わたしも見たい!」
「あら柴田さん、お下品」
笑い声が更に大きくなって嫌でも耳に届いた。
血の気が引いていく。身体がガタガタ震えた。温かい車内にいるのに、とても寒い。彼らは昨夜、一緒に真悠からのメッセージを見ていたのだ。寒気が止まらない。
「うわ。気持ち悪っ」
柴田さんは声をあげた。
「どっちが?」
「斎藤さん」
柴田さんの即答に、男たちが突っかかる。
「いやいや、尾崎のほうが狂ってるよ。笑だよ?」
「でも、斎藤さんに連絡する? 斎藤さんだよ?」
「小学校まで威張り腐っていたくせに、中学に入ってドブス枠へと沈んでいった斎藤真悠」
「中学になって自分が嫌われ者と気付いた斎藤真悠」
「気付くのおっせー」
「しかも山下のストーカー」
「やだーこわいー」
「駅についたら斎藤さんいたりして」
「木の陰に隠れて?」
「気持ち悪っ」
山下が吐き捨てて、どっと笑いが起きた。
それと重なるように、車内に駅到着のアナウンスが流れ、車窓には見慣れた景色が戻ってくる。
真悠は、慌ててその場を離れる。できるだけ遠くから降りなくてはならない。彼らに会いたくない。
(逆に、出ていってやろうか)
一瞬思い立ったが、すぐにやめた。また話のネタにされ、バカにされ、見下されるだけだ。
ホームに降りると、すぐに階段の影に身を隠す。改札は反対ホームにしかないので、階段を登って線路の上を渡らなくてはならない。出口は一つ。近くの自販機でジュースを買って時間稼ぎをするしかない。
小銭を入れる音も、ペットボトルが落ちてくる音も、バカ騒ぎしている彼らには届かない。飲みたくもないスポーツドリンクが、立ち尽くす真悠の掌を冷やしていく。
騒がしい集団が階段を登っていく声を聞きながら、そいつ等がとっとと去っていくのをじっと待った。
待ちながら、線路のすぐそばにある公園に目を奪われる。
(幼なじみか)
あの公園で、幼稚園時代、真悠は柴田さんと遊んだはずだった。
なんの隔たりも屈託もなく。
声が遠くなった。もういないだろうと階段の登り口へと向かった。
(あっ……)
一瞬、反対ホームに視線を向けた時、改札を出る柴田さんと目が合った気がしたけれど、次の電車が来たからすぐに見えなくなった。
真悠には、そんなこと、どうでもいいことだ。
涙なんて流れなかった。身体から溢れる感情の激流は、怒りという名前では足りなかった。
(泣くなんて)
こんなにも下らないことで、怒り、震えているのに、更に泣くてなんて。あんな奴らのために涙を流すなんて。それは許せなかった。真悠はギリギリと奥歯を噛みしめた。
改札を出た後、足は公園へと向かっていた。
石碑の事を思い出したのだ。
小学校のころ肝試しをした人たちが噂していたこと。
石碑の裏には、呪いの伝承が書かれているはずだ。
水害が起きた年、一人だけ亡くなった人がいた。その人は助けてもらえなかった恨みから人を呪った。そのため次々と凶事が起き、鎮魂のためにこの石碑が建てられた。
そして、その呪いは今でも続いていて、この石碑の後ろには今もその人の怨念が残っている、と。
★
中学生の頃のことを思い出しながら歩いていたら、気づくともう家の前まで来ていた。
もう二度と思い出したくもなかった。それなのに、頭にこびりついて離れない。
(私はあの日、石碑に何かを祈った?)
それは陰鬱なくせに鮮明な憎しみではないか?
あんなくだらない奴らのことなんか、忘れてしまえばいい。
そんな声が頭の片隅で響いた気もした。
(でも、私はそんなに前向きでも、器用でも、美しい心の持ち主でもない)
だから、あの日はっきりと祈った。
あの四人を不幸にしてほしい。
そう、石碑に向かって。