二、思い出したくない思い出について 前
川口との再会のせいで、胸くそ悪い記憶を無理矢理引っ張り出されてしまった。
小雨に濡れながら帰り道を歩くと、どうしようもない苛立ちが胸にこみ上げる。
忘れようとしても、頭から離れていってくれない。
(あの日のせいだ)
速歩きで進む真悠の脳裏には、あの石碑のそばに佇む人影が思い浮かんでいた。柴田さんによく似た人影。
★
あれは中学三年生のいつ頃だったか。柴田さんに話しかけられたのは、修学旅行の班決めだった。
班決め。
それはなんて残酷なんだろう。
当日の斎藤真悠は、どんな表情をしたらいいかわからないでいた。
その頃、真悠は同じクラスの女子3人と一緒に行動していた。クラス内ではどうしても暗黙のグループ分けが生まれてしまう。それは一見、真悠を入れて4人の女子グループ。
それは、あくまで、一見。
班決めが始まるなり、真悠以外の三人の気まずそうな目配せも始まった。
修学旅行の班は男女三人ずつと決められていて、まずは同性同士で班員を決めなければならない。
なんとなくわかっていたけれど、真悠という選択肢は他の3人にとって一番下。できれば選びたくないなのはわかっていた。オマケなのだ。
仲良し3人組プラス真悠という構造に異論はない。
小学生の頃お山の大将タイプでわがままだった真悠は、中学生になる頃には同級生にすっかり嫌われていた。それでも手を差し伸べてくれたのが、今目の前にいる三人だった。
「二対ニに別れようよ。わたし、斎藤さんと二人でもいいよ」
堪らず、一人が申し出る。優しさの中に本音がこぼれてしまっている。
しかも解決策にはなっていない。誰かもう一人、女子を連れてこないといけないのだ。見回すと大体なんとなく班が組めている。そこに割りいっていく勇気は誰にもなかった。
「ねえねえ」
それを察して話しかけてきたのが、幼なじみ柴田さんだった。
しかし、幼なじみというのは気が引ける。仲が良かったのは小さい頃だけで、美人で性格がいい彼女は、真悠が入り込む隙間のないほど友だちがいた。柴田さんは格上の女子であり、真悠は格下の中の格下で、嫌われ者というポジションなのだから、同じクラスということ以外の接点なんてほぼない。
それでも朝会うと、昔と変わらない笑顔でちゃんと挨拶してくれる。
それが柴田さんだった。
同級生ながら憧れの人でもあった。
「もしかして決まってない?」
柴田さんが笑顔で訊ねられ、全員でうなずく。
「わたしたちも決まってないんだ。こっちは二人」
柴田さんが普段から一緒にいる吉田さんを見やる。
「わたしたちは四人で……」
「一人残っちゃうから困っていて……」
三人はソワソワしていた。言いたいことを飲み込んでいる。優しいのだ。本当は真悠以外の三人で組みたいなんて言えない。
「じゃあさ」
柴田さんは真悠に目配せをして、
「斎藤さんもらっていい?」
人懐こい笑顔でそう言った。
みんな待っていた言葉だった。
「斎藤さん、いい?」
三人は申し訳無さそうに真悠を見つめる。
「いいよ」
真悠にそれ以外の答えはなかった。
その後、三人はしきりにありがとうとごめんねを真悠に伝えてきたけれど、言われるたびに胸がチリチリと痛む。言葉の裏に「よかった」が含まれている。どうしても。三人は胸をなでおろしている。中学最後のイベントで、小学校から仲のよかった親友と同じ班になれたのだから。特別な感慨だろう。
(私は、ボランティアしてもらっていたんだ)
善意で仲良くしてもらっていたに過ぎないのだから。
胸は痛むけれど、しばらくしたら真悠も彼女たちの邪魔にならずに済んで少しホッとしてきた。
真悠は柴田さんに連行され、吉田さんに挨拶をする。同じ歳、同じ制服なのに、彼女たちは近寄りがたいほどキラキラしていた。真悠は憐れみをかけられたみたいで嫌だったけど、ニ対ニに別れてしまうなんていう迷惑をかけたくなかったのは本当だ。だいたい、あの三人といる時だって、彼女たちの優しさに申し訳ない気持ちになるのだから。
女子の班は決まり、どの男子と組むかは先生が決めた。
必然か偶然か。班は、華やかな人の集まりとなった。
背の高くて明るくてクラスの中心人物的生徒だった山下。その山下と仲のいい川口と尾崎。
(班活動は孤独だろうな)
考えなくてもわかったから、ちゃんと覚悟はしておいたし、その通り蚊帳の外だった。もちろん一人浮いていた。
みんな真悠に対して冷たい態度で、頼みの綱の柴田さんは他の班員と話すので忙しそうだった。
でもその中で、山下だけはよく声をかけてくれた。
「保健係は斎藤さんが適任だと思うよ」
そう言って笑った顔が、真悠は忘れられなかった。優しさと無邪気さが弾けるような笑顔を。
今思うと、山下が真悠に話しかけたのは、その向こうにいる柴田さんを見ていたのかもしれない。教室でも登下校でも二人はよく一緒にいたし、親しげに話していたから。
それなのに、その時の真悠は、そういう思いに至らなかった。
クラスで、いや学年でも一、二を争うようなかっこいい男子に笑顔を向けられ、名前を呼ばれ、すっかり舞い上がっていた。
事前学習の時も、意見を聞いてくれたし、みんなで連絡先を交換する時も、呼んでくれたのは山下だった。
修学旅行当日も、どうしてもあぶれる真悠に何度も話しかけてくれた。
山下は確かに優しい。男子に免疫のない真悠が好きになるのに時間はかからなかった。
とはいっても、柴田さんと吉田さんを目の前にしてしまえば、この片思いが虫けらのようなものだと否応なく悟ってしまう。
それを証明するかのように、修学旅行が終わってしまえば、もう話すことはなかった。挨拶すらしない日が続き、遠くから見つめるだけの毎日だった。でも、真悠はそれで充分だった。
それなのに、卒業式の日、変な勇気を出してしまった。
違う高校へ行く彼に、話しかけたくなったのだ。告白なんてするつもりは、本当はなかった。
(ただ、最後に一言でいいから話したい)
それだけだった。
山下はいつもの仲間である川口と尾崎とつるんで、教室の隅で騒いでいた。3月なのに、窓際は陽射しが強くて、暖かかった。
帰る前に一言だけ。真悠はおずおずと、でも、思い切って声をかけた。
「あの、山下くん」
今までありがとう。そう一言伝えたかった。それだけだった。
こちらに気付いて、目が合った。その時、後悔が押し寄せる。
「ごめん」
彼は今まで見たことのない、冷たい表情をしていた。声には軽蔑の色が混じっていた。
「斎藤さんみたいな感じ、苦手なんだよね。遠くから見られたりするの、ちょっと……気持ち悪い」
川口と尾崎が、気まずそうにこちらを見つつ、ヒソヒソと笑っていた。
忍び笑いに居たたまれない。
「ごめんなさい」
そう言って、その場を逃げ出すしかできなかった。
卒業式に手酷い失恋しても、真悠を慰めてくれる友だちはいなかった。一直線に家に帰って一人で泣いた。ただ、泣いた。卒業するのがそんなに寂しいのか?と、姉が嘲笑していたのを思い出す。
でも、これは最悪な思い出のほんの始まりでしかない。
その日の夜。自分の部屋にこもり、ベッドでゴロゴロとスマホをいじっている時、思わぬ人から連絡が来た。
(尾崎くん?)
起き上がって、スマホの画面を何度も見直しても、尾崎の名前だった。
ーー大丈夫?
ーー山下、けっこうひどいこといったよね
修学旅行で同じ班だったのに、ほぼ話さなかった男からの連絡だった。
明るく賑やかな山下や川口に対して、尾崎は落ち着いているというか、少し冷たい印象すらある。必要性も興味もない真悠に、連絡してくるようなタイプではないと思っていた。今日、山下に気持ち悪いと言われたのをそばで聞いて、薄ら笑いを浮かべていたはずだ。
しかし、今の真悠は失恋で、傷心の最中で、警戒心が薄れていた。
ーー気にしてくれて、ありがとう
そう返事をしてしまった。
ーー好きだったの?
ーーだったらなおさら山下のこと許せない
ーー斎藤さんは悪くないからね
尾崎からの優しい言葉に、悲しい気持ちを止めることができなかった。吐き出さずにはいられなかった。
ーー告白する気なんてなかった
ーーでも悲しい
ーー気持ち悪いなんて言わないでほしかった
勢いでメッセージを送ってしまった。放った言葉は押し込めていた感情を洗い流してくれた。それは確かなのだ。誰にも言えない苦しみだったから。
真悠は傷ついていた。とても悲しくて、惨めで、誰かに助けてほしいと思っていた。それに何の罪があるのだろう。
しばらく間が空いて、またメッセージが送られてきた。
ーー笑
この一文字に全てがこめられていた。