十六、殺しにおいで
カタンカタンと、電車が走り出す。その音は、踏切の音と重なって真悠の耳に危険を知らせている。
突き飛ばされた衝撃で、後ろに外れた緑のフェンスを横目で見た。
それが壊れていて、簡単に外れることを知っていた。
その先にあるのは線路。踏切が「来る」と報せている、今ここを通過する電車のための線路だ。
「お前なんか」
山下の足音が目の前で聞こえた。
立ち上がろうとした時、冷たく見下ろす山下と目が合う。山下は真悠の腕を無理やり掴み上げた。手が腕に食い込むほど強く。
思わず痛みに顔をしかめる。そして、山下が何をしようとしているのかわかった。
外れたフェンスの向こう側の、線路に押しやる気なんだ。電車が通り抜ける直前に。
「お前なんか!」
山下の足が容赦なく真悠を蹴り飛ばした。
電車は近づいてきている。遠かった音は轟音へと変わっていく。先頭で線路を照らすライトが迫ってくる。
(轢かれる!)
目を閉じることもなく、外れたフェンスの向こうへと投げ出されたはずだった。
「斎藤!」
声が耳を貫いた。その声の主は尾崎だった。いつの間に現れて、フェンスの直前で真悠を抱きとめていた。
山下の肩には光る白い糸が絡まっている。糸は山下を真悠から引き離すように、肩から後ろへと向かって伸びていた。淡く白く発光する糸が幾重にも絡まり、まるで翼が生えたように見えた。糸は、石碑へと続いていた。
(柴田さん?)
静かに山下を制するような柔らかな光。真悠を守ったように感じた。この光の糸は、柴田さんが放ったものなのだろうか。
驚いている間に、尾崎の背後に電車が走り抜ける。通り過ぎていく。
警笛も鳴らさずに走り去っていく。
行儀よく並ぶ四角い窓から見える車内は、ガラガラに空いていた。
川口は、いつの間に石碑のそばに逃れいて、こちらを見ている。
電車を見送ると、音もなく白い糸は消えてしまった。公園は戻ってきた暗闇に再び沈む。
「尾崎」
振り向きざまに見る尾崎が、小さく溜息をつく。
「だから山下と会うなって言ったのに」
その言葉の端々に悲しみの色が滲む。
「山下は間違っている」
尾崎が立ち上がりながら、山下に問いかけた。
「殺すなら俺じゃないのか?」
赤い糸が石碑から一筋伸びている。尾崎と柴田さんを結ぶ線路のように。
「俺のせいで、柴田は」
「違う!」
山下は言葉を遮った。
「お前のせいじゃない! 柴田はお前のことなんか……」
尾崎は目を伏せる。
「お前が一番呪われてしまったのか」
山下は尾崎と真悠を睨んでいる。今まで隠し続けてきた感情を剥き出しにしている。
「尾崎は裏切り者だ。俺たちに協力しないで、斎藤を助けるなんて」
山下の声は、低く、冷静に聞こえた。しかし、まだ目には底暗い殺意を光らせている。
真悠は立ち上がり、山下の前へと進んだ。
「斎藤、いくな」
尾崎の声がしたが、真悠は構わなかった。山下はたった今、真悠を線路に突き飛ばした。彼の近くに行くのは危険なのかもしれない。川口のほうはすっかり怯えてしまい、その場に座り込んでいた。
(柴田さんの幽霊より、生きている山下のほうが恐ろしい)
真悠が近くに来ても、山下は動じない。白い光に縛られながら、憎しみを持って真悠を見つめるだけだった。
視線を石碑の裏に移す。ねっとりと黒い闇が貼り付いている。トンネルのままだ。暗闇の向こうに気配だけがある。多分、柴田さんが立っている。
「どうして私を殺したいの?」
真悠の問いがおかしいのか、山下は背中を丸めて笑った。
「お前が、馬鹿だから」
そう言って深呼吸をする。
「柴田は謝りたいだけだったのに、斎藤はそれを踏みにじった」
真悠は首を傾げる。
「それだけ?」
「それだけだって?」
「川口と組んで、アパートにまで行かせて、姉にまで絡んで。そんなこのまでした理由はそれなの?」
山下はこみ上げる怒りを抑え込めるように、声を低めた。
「去年、柴田の死を知らせようと川口のアパートに行ったら、大家のおじさんに死んだって言われた。絶望したよ。川口まで死んだなんて。でも、それは間違いで、川口はちゃんと生きていた。間違いだって知った時、どんなに嬉しかったか」
そこまで喋って、目に悲しみの色を映した。悲しみを抱えた人間だけが持つ瞳の色だ。底深く、昏い色。
「でも柴田は戻らなかった」
川口が実は生きていた。それは喜びではあったが、柴田が戻らない事実を、更に強く刻みつけ、柴田の死を縁取ることになった。
「柴田のために、何かをしたかった。何でもいいから。だから、手紙を。斎藤さんの母親に渡せなかったって、柴田のお母さんからきいて、どうしても渡したくて。川口に頼んだんだ」
川口がうなずく。
「手紙を受け取らなかったお前の母親にも、その死すら知らずに大学に通うお前にも、腹が立って」
山下は両手を強く握りしめる。
「川口と脅かしてやろうって。あのおじさんを利用して、ビビらせてやったんだよ。成功して川口と笑ったよ」
怒りをむき出しにした山下に睨まれながら、真悠は川口のアパートのおじいさんを思い出した。訪ねてきた友人がいたと言っていたけれど、山下のことだったのか。
「どんだけビビっているか確かめるために話しかけたら、そしたら、お前の口から柴田を軽蔑する言葉がでるなんて……死を悼むどころか、あの手紙を、下らないなんて、どうして言えるんだ!」
堪えきれず、山下は真悠の胸ぐらをつかんだ。
「電車の中で悪口を聞いたから今でも恨んでいる? 何だよそれ。柴田の苦しみに比べたらクソみたいなもんだろ?」
山下は知っていた。知っていて、微塵も感じさせずに平然と真悠と話していたことが胸くそ悪い。いや、卒業式のことを謝ると言いながら裏でまた真悠のことをからかっていたことに反吐が出た。
「あの時のことを悪いとは思っていないの?」
「悪かったとは思ったよ。でもそのせいで柴田が死ぬのは許せない。何も知らないでヘラヘラ生きているのも、手紙を受け入れなかったことも」
「それでわたしを、線路に突き飛ばしたのか」
可哀想な人間だ。真悠はため息をついた。
山下に対して、もう怒りも嘲りも浮かばなかった。失望も落胆も消えてしまったのに、哀れみだけが生じた。それは自分でも不思議だった。
真悠は何の抵抗もせず山下を見つめ返した。主観的で感情的な時の人間に、おんなじように感情で返したとしても、響きはしないと思ったからだった。
「俺は許さない」
山下は淀んだ目をしている。
「お前より強く、お前を呪う」
そして、視線を石碑に向けた。
「柴田も同じ気持ちだよな」
歩み寄った山下が、そっと石碑を撫で、ぽっかりと空いた暗闇へ投げかける。
返事はなかった。尾崎へと続く赤い糸は地面を這ったまま動かない。
(ああ、山下はもう柴田さんの彼氏じゃない)
心が離れている。
これは、山下の独りよがりなのだ。
引き出しから、布団の中から、柴田さんが真悠に触れた時。強い心を確かに感じたのに。山下に対してはーー
不意に、ぬらりと白い腕が伸びた。石碑に置かれた山下の手をつかむ。
……ごめんね
そして、離れていく。
柴田さんの声は、啜り泣きへと変わった。
「柴田、俺もそこへ連れて行ってくれ」
返事はなかった。声は暗闇を虚ろに漂い、消えていく。
「やめなよ」
今度は真悠が腕を掴む。
同時に山下の肩がビクリと跳ねた。柴田さんの手ではない、生きた人間の温もりに驚いたように見えた。
「山下。私たちはもう……仲直りを済ませている。柴田さんは終わらせたいんだよ」
「お前、何を言っているんだ」
「柴田さんは私を助けてくれた。山下くんの方に行くなって、あの時そう言ってくれた。それに。あの光る白い糸も」
山下は真悠の手を払いのける。
「勝手なことを言うな」
「柴田さん、山下に人殺しにならないでほしかったんだと思うんだ」
「お前の話に興味はない」
「それでも、聞いて」
真悠は再び、山下の手首を掴む。
「帰りたいって」
それから、黙って聞いていた尾崎に振り返る。
「柴田さんは帰りたいって言っていた」
尾崎はきゅっと糸を握りしめている。
柴田さんの死に囚われ、縛り付けているのは生きている人間だ。
不意に、優しく転がすような、ベルの音がした。
(釣鐘草が呼んでいる)
釣鐘草の花束は、今もフェンスのそばに置いてある。
再び踏切が鳴った。
フェンスの向こうに電車が走り抜け、大きな音を立てて駅へと吸い込まれていく。
山下は、真悠をあの車輪の下敷きにするつもりだったのか。重く、激しく走り去るあの鉄の塊に。
(柴田さん!)
真悠は目を閉じた。そして祈った。柴田さんが安らかに眠ることを。柴田さんの幸せを。
いってしまった電車を見送ってから、真悠はもう一度山下と尾崎を見やった。
「柴田さんが帰るところは、尾崎のところでも、山下のところでもない」
山下は石碑にだらりと生える白い腕を見つめていた。無言の視線は、柴田本人の意思を求めていた。答えるように黒い影が伸び、山下を包み込む。はたはたと涙が落ちた。それが山下の涙か、柴田さんのか、わからない。
黒い影は山下を離れ、石碑へと戻っていく。
山下はそれをただ見つめていた。
「それでも、俺は許さない」
山下は冷たく低い声でつぶやく。
「お前が柴田を許さなかったように」
「私はもう、柴田さんを恨んでいない」
「黙れ」
山下は両手で顔を覆い隠す。
この男が失ったのは何だろう。柴田さんや友だちか。順風満帆な大学生活か。
好きだった人は真悠のことで別れたのに、真悠にヒドいメッセージを送った張本人の尾崎と付き合っていた。そして、死んでしまった。
「斎藤」
顔をあげると、むき出しの敵意をぶつける。
「いつか殺す」
真悠は微笑むしかなかった。
「いいよ」
多分、山下はもう殺すことはできない気がした。それは山下を生かすのか、それとも暗闇に突き落とすのか。わからない。
「殺しにおいで」
そう言った。自分に向けられた、偽物の殺意が生きる糧になるなら。
山下はそんな真悠から顔をそむけた。そして、一人で出口へと歩いていった。
夜闇に消えていく背中は酷く寂しかった。
その時、川口が石碑のそばから飛び出す。黙ったままの尾崎と真悠の方を見て、少し笑った。それから山下のほうへとかけていく。
「山下、待ってよ!」
公園をあとにする山下と追いかける川口が、やがて並んで歩いていく。真悠は何も言えずに二人を見送った。