十五、罠にかかる
雨が降っていた。それでも、肌寒くはなかった。真悠は公園の石碑の前に立って、山下を待っていた。右手に自分のビニール傘を。左手にはブランドの、川口の傘を持っていた。
夜10時をすぎている。田舎とはいえ、駅前だから多少は明るい。電車が到着するたび人が押し出され、人間が活動して生じるざわめきが耳に届く。でも、その隙間に生じる冷たい静寂が真悠を焦らせた。こんな時間に待ちあわせをするなんて。それでも真悠は従った。そうしないと会ってくれない。そう思ったのだ。
(何かを企んでいるとしたら、思う通りに動かないと怪しむだろう)
柔和な笑顔の下で、山下は何を考えていたのか。川口のアパートの大家さんまで巻き込んだのだろうか。
(どうして)
目的がわからなかった。
雨はいつのまに弱くなった。傘も要らないほど。温い風が吹いて、湿った公園を通り過ぎていく。
山下はまだ来ない。
その時、後ろから誰かの気配がした。
振り返って、真悠は息を飲んだ。
「川口」
何日か前。駅前で話しかけてきた、男がそこにいた。大きめの黒いTシャツが闇に溶けて、真悠を睨みつけるその表情を浮き上がらせているように見えた。修学旅行で班が一緒だっただけの男だ。
「やっぱり生きていた」
川口はピクリともしなかった。真悠は気にせず続ける。
「何で騙したの? あの大家さんも仲間なの?」
「大家さんは、関係ない」
川口が一言だけ口にすると、静かに真悠の隣にやってきた。
「お前が柴田さんを殺したんだ」
川口は低く囁いた。声色に敵意が含まれていた。
「どうしてそんなことをいう? 何か根拠があるの?」
真悠の問いかけに、川口はふいっと顔をそらす。
(ああ、そうか……)
根拠なんてない。山下に言われるがまま信じたのか、それとも、真悠が呪い殺したということにしがみついていたい何かがあるのだろうか。
「次に俺を殺すんだろ?」
「私はそんなことしない」
「俺は見たんだよ。その石碑から……手が出てくるの」
それは思いもよらない告白だった。
石碑は雨に濡れて、いつもより暗く、沈んで見える。同じく石碑を見つめる川口は、膝も指先も歯の根もカタカタと震えていた。
「柴田さんが、お前に呪い殺されたことを伝えたいんだって、山下が……」
「違うよ」
柴田さんはきっと、助けを求めたのだと思う。真悠にそうしたように。帰りたくて、助けてほしくて、手を伸ばしたんだ。それなのに、川口には伝わらなかった。
残念ながら真悠の言葉も信じてもらえそうにない。
「私が呪い殺したって、山下が言ったの?」
「そうだよ。だから、きっと、その通りだよ」
川口は吐き捨てる。
「そう。川口にとって山下の言葉は全て正解なんだね」
真悠の皮肉に、川口のこめかみが僅かに引きつった気がした。
「こっちにこい」
強く腕を掴まれ、されるがまま、真悠は石碑の裏へと引っ張られていく。釣鐘草の花束は今日もそこにあった。ちょうど真裏に来たとき、川口はくるりと振り返った。
「山下の言葉を何でもかんでも信じているわけじゃない」
「じゃあ、自分の意志で私をからかって楽しんだわけね」
「……楽しんだわけじゃない」
川口がぽつりとつぶやいた。
「しゃべっちゃったんだ」
じっと見つめる真悠から目をそらした。
「柴田さんが山下と別れたあと、尾崎と付き合ったこと。山下が知らなかったなんて」
その事が山下を激昂させたのか。
「斎藤さんのことがきっかけで別れたようなもんだから、山下は恨んでると思う。斎藤さんのことも、尾崎のことも。結局、斎藤さんのことがなければ別れなかったし、柴田は死ななかっただろうって。それなのに」
飲み込んだ言葉は、真悠をなじるものだったのかもしれない。
「山下とは、同じ思いなんだよ」
そういって、すばやく真悠の肩を掴んだ。
「手紙を読んだのに、何で柴田さんを許さないんだよ」
川口は爪を立て、ぎりぎりと力をこめた。痛みに顔が歪む。
「呪い殺したくせに!」
「私は呪い殺してなんていない」
「同じことだろ!」
川口の腕を振り払おうとするが、腕力では敵わない。抵抗するほど、更に勢いを増していく。
「じゃあ、何で柴田さんは死ななくちゃいけなかったんだよ!」
「そんなことわかるはずない」
川口の言葉に、真悠は我に返った。柴田さんが死んだ理由を探すなんて、どうしてそんな差し出がましい事ができるのか。真悠は冷たく川口を見つめた。
「私のせいにして、自分の心を保っているだけでしょ?」
「違う!」
「じゃあ、柴田さんのお母さんに、同じことを言えるの? 私が呪い殺したって言える?」
川口が押し黙る。肩を掴んでいた手を緩めると、唇をきっと結び、下を向いた。
「傘、返すよ」
真悠は傘を川口に突き出した。
「私も手を見たよ」
無理やり返される形で受け取った川口は、驚きに目を丸くしていた。
「柴田さん、川口に話を聞いてほしかったんじゃない?」
その時、すぐ近くで声がした。
「斎藤さん」
緑のフェンスの前に、山下が立っていた。石碑からみると、少し低くなっているため、顔を上げてこちらを見ている。山下が目配せをすると、川口が黙って真悠から離れる。まるで手下のようだった。死んだはずの友人に顎で指示をするなんて。
「僕を呼んだでしょ? 話って何?」
そう言っていた笑う顔の涼やかさは、死んだはずの川口が生きていたという驚きとは無縁のようだった。
(やっぱり仕組まれたことなんだ)
真悠は激しく山下を見つめた。山下は眉一つ動かさない。ひどく冷めた視線を投げかけるだけだ。
山下は、川口が生きていたことを知っていた。知らないふりをしたのはどうしてだ? 姉を使ってまで私がその事に気づくようにした目的は?
こちらが激しく見つめても、山下は感情の波を一つも見せない。わかって罠に掛かったつもりだった。でも、抜け出せるだろうか。苦々しさがこみ上げる。
「山下は、何がしたいの?」
真悠の問いに、山下が表情を緩めた。
「こっちに来て話そう」
落ち着いた声で答える。
その優しげな態度に騙されてはいけない。中三の時もそうだった。
真悠は足を踏み出せず、返事もできずにいた。
「いけよ」
川口がポツリと言った。
踏切の音が響き始めた。
「山下のところへいけよ」
そう言いながら、真悠の背中を押した。勢いで二、三歩前に飛び出した、その時だった。
いかないで
か細い声が、石碑から聞こえた。きっと山下と川口には聞こえない。
声につられて石碑に視線が移る。
石碑の裏は、底深い暗闇に染められていた。奥行きも感じないほどの漆黒に、息を飲むほどだった。
(トンネル)
瞬間思い描いたのは出口の見えない、灯りのないトンネルだっだ。入れば二度と帰れない。闇を秘めながら、こちらをあちらへ連れて行くべく、手招きしている。
「ひぃっ!」
川口が乾いた悲鳴を上げた。
石碑の裏の暗闇から、白い腕が伸びたのだ。身体を強張らせ、動けずにいた真悠の手首を素早くつかんだ。
腰を抜かした川口は尻餅をつくと、這うように逃げていく。
いかないで
石碑の向こうから、柴田さんの声がした。引き出しから聞こえた声とおんなじだ。
「こっちにこい!」
山下が叫んでいる。
どちらにいけばいいのか。
真悠の中で迷いが駆け巡る。何が柴田さんをここに縛り付けているのだろうか。山下の真意はなんだろうか。
「早くこっちに来るんだ!」
意を決した山下がかけてきた。
真悠を強引に引き寄せた。抱きとめられた山下の胸から汗と雨の入り混じった匂いがした。
顔をあげると、山下の目と目が合う。瞳の奥深くまで凍りついた山下が抱いているのは、単なる悪意ではない。中学の卒業式の日に浴びせられたそれとは違う。これは冷徹な殺意だ。
「お前が死ねばよかった」
耳元で囁くと、真悠を力いっぱいに突き飛ばした。