十二、引き出し4 柴田さんの願い
その日の夕方は、青みを帯びた灰色の雲が広がっていた。
大学が終わって、最寄り駅に帰ってきた。それから公園へ向かう。山下と待ち合わせているからだ。こんなことがない限り話すことのない男と待ち合わせている。中学三年の頃の自分に見せてあげたい。そう思うと、真悠はついついほくそ笑んでしまう。
ベンチにはすでに山下がいた。ただベンチに座っているだけなのに、妙に様になっている。真悠の通う大学にいる、どの男子学生よりも垢抜けている。自分に不釣り合いな出で立ちに、一瞬話しかけるのを躊躇った。
「ああ、斎藤さん」
そんな真悠の気も知らず、気づいた山下は百点満点の笑顔を向けてきた。
(調子を狂わされてはいけない)
そういえば、尾崎は山下を警戒するような発言をしていた。山下には中学の時、残酷なふられ方をしている。心を許す事はないだろう思っているが、何故だろう。
ぼんやりと疑問が浮かんで、消える。今は腕のことを話さなくては。
「引き出しから腕?」
昨日の出来事を話すと、山下が怪訝な表情を浮かべる。
「手を掴まれた。だから、夜が怖い」
話し終えた真悠は両手を組んだ。山下は膝に置いた手を動かしもせず、黙ったままだった。かける言葉を慎重に選んでいるように見える。
信じてもらえる前提だった。よくよく考えたら、作り話に聞こえるのかもしれない。山下なら信じてくれるだろうという根拠のない考えに、真悠は恥ずかしくなっていた。
「ごめん。信じてられないよね」
「いや、そんなことはない」
即打ち消す山下に、真悠は苦笑いを浮かべた。その声の軽さは、信じていない。
「でも本当で。今でも感触を覚えている。冷たい手だった。女の人っぽかったから、あれは柴田さんかもしれない」
そっと手首を擦りながら話していると、山下が微かに息を吐き出した。真悠はハッとして、慌てて口をつぐむ。呆れなのか、それとも、下らない事を喋る女への怒りなのか。尾崎の言葉のせいで、多少は警戒していたことがよかったのかもしれない。
山下が顔を引きつらせていることに、気づくことができた。山下は隣りにいる真悠に悟られないよう、気持ちを抑えている。
「ごめん。現実離れしていて、ホラー映画の怪奇現象みたいな話だった」
自分に起きたことなのに、話せば話すほど空回りしていたのだ。確かに起きたことなのに。本当だと訴えるほど、自分の中ですら、どんどん嘘のように変化していく。
「川口のことで混乱していたのかな」
「そうかもね」
そう微笑みかける山下に、真悠しばらく見入った。きれいな顔立ちを活かしきった、見事に自然な笑顔だった。何もなければ好きになってしまうのだろう。僅かに不信感を抱いている相手なのに、そんな自分がおかしくて、その事で少し落ち着くことができた。
しかし、お互いの緊張は解けたものの、ぎこちなさが残っていた。
「今朝、尾崎に会ったよ」
空気を変えたくて、何となく口から出た言葉だった。いや、ずっと聞きたかったことでもあった。尾崎のことに触れずにここまで来たのがおかしいくらいなのだから。
「山下くんは、尾崎と今も会っているの?」
山下くんのほうを見やると、真悠はぎくりとして、息を飲んだ。
山下の顔が冷たく地面を見下ろしていた。愛想のいい、柔らかな表情は一変していたのだ。
山下が低く、小さく、呟いた。
「あいつは裏切り者だ」
真悠は何も言い返すことができなかった。尾崎がどうして裏切り者なのか、尋ねることができなかった。もう一度尾崎の名前を口にすることすら躊躇われた。
「ごめん」
そう言って、真悠はベンチから立ち上がる。
「話を聞いてくれてありがとう」
そして、深くお辞儀をした。
「いや、ごめん」
山下も何故か謝る。思わず出してしまった素の表情に、自身も戸惑っているのかもしれない。取り繕う手段を思い巡らせいるのかもしれない。
真悠は山下の手のひらに100円玉2枚を乗せた。
「昨日のココア代。ありがとう。それじゃ、帰るね」
真悠は逃げるように公園を後にした。山下の方を一度も振り返ることはできなかった。救いを求めて待ち合わせをしたはずの山下が、今、怖かった。
そして、夜がやってくる。
真悠は家に帰ると、すぐにシャワーを済ませた。山下には信じてもらえなかったけれど、真悠はそうはいかない。やはり夜に一人で風呂に入るのが怖い。今日は課題がなかったので、夕食後はリビングでダラダラ過ごし、早い時間に布団に潜り込んだ。
さっさと寝てしまおうという作戦だった。
窓の外から雨音がし始める。
電気を消したあと、左手でスマホを握りしめたまま目を閉じる。
屋根に当たる雨の音が少しずつ大きくなっていく。本格的に降り出したのかもしれない。
嫌な予感がした。予感は、嫌な方が当たるものだ。
(来た)
左手首にひやりとした感触がある。
ゆっくりと皮膚を這い、それは手首をしっかりと掴んだ。誰もいない部屋の、夏用の薄布団の中に、自分以外の気配はない。ただ、左の手首を強く掴まれている。
全身から汗が吹き出る。身体は強張り、恐怖に押しつぶされ、喉の奥が乾いていく。恐怖に飲み込まれていく。
ごめんね
ふと、声がした。
自分の息遣いが荒い。震える身体。見挙げる天井には何もない。視線を左下へと移していく。
そこには誰もいない。
肌の感触と痛みと、喉元にこみ上げる恐怖が、確かにいる「何か」の存在を肯定する。気を失いそうなほど恐ろしいはずだった。
それなのに。
ーー事故か自殺か。わからない。
尾崎の言葉がよみがえった。
「柴田さん」
柴田さんなんでしょ?
自分の目から涙が一筋落ちていく感触に驚いていた。なんの涙なのだろう。恐怖か、ただ目が乾いただけなのか。
「もういいよ」
真悠はもう謝らないでほしかった。手紙を読んで、言い訳ばかりと罵ったくせに。
「私も、ごめん」
胸が痛い。
「せっかく謝ってくれたのに、跳ね除けるようなこと言ってごめん」
瞬間、手首を握る手が熱を帯びた気がした。そして、ゆっくり離れていくのがわかった。
ーー……たい
声は囁いた。
ーー帰りたい
真悠は急いで起きあがって、布団をめくりあげた。
「柴田さん!」
そこに、誰かがいるはずもなかった。ベッドの上には真悠の身体しかない。
(帰りたいって……)
めくれた掛け布団の裏側に、何かを見つけて、真悠は目を凝らす。それは赤い糸くずたった。真悠は指でつまみ上げ、どこかで見たことがある赤色を見つめ続ける。
(どこに?)
机の上で、チリンと音がした。まるで、答えるみたいに。