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十一、引き出し3 腕

 腕が、10センチほど開いた引き出しの暗がりからぬらりと伸び、真悠の手首を離さない。見知らぬ白い手はたおやかで美しい細指だったが、凄まじい力で真悠の手首を握りしめていた。ここに存在するはずのない、してはいけないはずの腕がある恐怖と、振りほどけない力への絶望。

 真悠は、自分の心臓の鼓動が凍えていくのをただ感じることしかできない。

 叫ぼうとしても、喉からは恐怖でか細く掠れた声しか漏れ出ない。背筋に冷たい汗が湧き出ていた。


 ……ね


 引き出しの中からふいにくぐもった声が響いた。真悠は耳を澄ませる。

 暗転が恐ろしいから、瞼を閉じることができず、眼球は乾ききり、耳は正常な音を拾えているか、わからなくなっていた。

 真悠は震えている自分の右手を見つめていたが、ふと視界の端にある釣鐘草から淡い光を放っているように見えた。その光は「この手は誰のものなのか」と、真悠にそう問いかけ、一時意識を正常に戻した。

 だから、真悠は引き出しから聞こえる声を必死に聞こうとした。


 ……ごめんね


 次は鮮明に聞こえた。


 柴田さんなの?


 そう声を出したつもりだったが、乾いたうめき声しか発することができなかった。

 しかし、手首から手が離れ、腕はするすると引き出しの中へと消えた。

 雨風が強くなった。カーテンが激しく揺れ、屋根に落ちる雨音が部屋を包んだ。

 この時はまだ、手首には赤く跡が残っていた。


(あの声は柴田さんだろうか)


 恐怖で目を閉じることもできない。まだ閉じた瞬間が怖い。


(私が何をしたというの?)


 恐怖の中に怒りが混じりかけたとき、スマホが光った。

 山下からのメッセージだった。


 ーー何かあったら何でも話して

 ーーどんな話も信じるから

 ーー夕方ならほとんど空いているから

 ーーいつでも連絡してね


(ああ、山下はやっぱり優しいんだ)


 真悠の頬に涙がとめどなく溢れた。

 恐怖故の涙は、山下からのメッセージに安堵したせいで堰を切ったように流れていく。

 山下の優しさが本物かなんて、真悠にもわからない。それでも今は優しい言葉に涙を流す以外にできなかった。すがりたかった。




 いつの間に寝ていた。

 それとも気を失ったのか。


 目覚めて視界に入ったのは、白い天井。カーテンの隙間からは明るい日差しがこぼれている。気づいたら朝になっていたのだ。

 真悠はベッドに横になっていた。移動した記憶は無い。


(全てが夢だったのかな)


 上半身を起こして、右腕を擦る。腕には掴まれた跡などついていない。冷たい指先の感触は生生しく残っているのに。


(大学に行かないと)


 ベッドから跳ね降りる。

 風呂に入らないで寝てしまったらしい。昨日の服のままだ。


(シャワーをしよう)


 母に、どんなに不機嫌な顔をされようと、体を洗うことにした。明るい、人のいるうちに風呂場を使いたいのだ。どうしても。


 着替えの準備をする前に山下のメッセージを読み返し、山下の優しさに心がじんわりと温んだ。真悠は返信をすることに決めた。


 ーーありがとう

 ーー昨日。色々あった

 ーー今日の夕方、公園で会ってほしい  

 ーー話したいことがある


 そう打ち込んで送信した。

 とにかく、話を聞いてほしかった。あまりに恐ろしくて、自分だけに留めておけない。


 やはり不機嫌になった母を何とかかわしながら風呂を済ませ、急いで支度をして家を出た。

 駅へ向かう途中、公園が見える。真悠が思わず足を止めたとき、


「随分ご機嫌だね」


 声をかけられた。振り返ると、尾崎だった。白いシャツを着ていた。


「寝不足?」


 嫌なことを言う。昨日あった恐ろしい出来事など知らずに。


「山下とは会ってるのか?」


「尾崎には関係ない」


「柴田が死んだからって抜け目ないな」


「そんなんじゃない」


「死んだ理由も聞かないくせに」


「尾崎は知っているの?」


 尾崎はため息をついた。じっと睨めつける仕草に、真悠は息を飲む。昨日も見た赤い糸のようなものが手首でチラついている。その赤い色が尾崎の苛立ちを現しているようだった。


「知りたいのかよ」


 けしかけておいて、そんなこと聞くのか。真悠も尾崎に釣られるように苛立った。


「知っているのなら」


 尾崎は舌打ちをする。


「同窓会で斎藤さんが呼ばれなかったことを知った誰かが、話を広げたんだ。それから柴田さんは、高校で性悪と言われるようになった」


 不意に口元が歪んだ。


「修学旅行で同じ班に誘っておきながら、陰では俺や川口と斎藤さんをからかっていたわけだからね。ご存知の通り」


 尾崎が真悠から目をそらし、浮かべた皮肉な笑み。それは真悠を嘲るものではなかった。尾崎自身に向けられているように見えた。


「斎藤さんのことを知っている人はほぼいない高校で、あっという間に広がったらしい。噂を聞いただけの奴らが噂を信じたわけ。もともとしばたの事をよく思っていない奴や、男にモテて鼻につくと思っていた奴からしたら、いい餌だったんだろうな。そして、柴田は高校に行けなくなった」


 そこまで一気に話して、尾崎は大きく息をついた。

 乗るはずの電車がそろそろ来る時間だった。沈黙の間、踏切が鳴り始める。

 しかし、真悠は構わず尾崎の話を聞こうと思った。

 最後まで聞かなくてはならない。

 そうさせたのは、尾崎の底深い闇を帯びた声に、嘘はないのだと確信したからだった。闇を感じながら、熱を持ち、悲しみも憎しみもごちゃまぜになっている。柴田さんへ向けた一途な感情。今まで気づかなかったのだろう。


「柴田は、その日、何故か線路内にいた。あの石碑の直ぐ側の、フェンスの向こう側だった」


 真悠と尾崎は視線を石碑のある方へと向けた。朝の公園を、駅で急ぐ人たちが近道として横切っていく。


「事故か自殺か。わからない」


 尾崎はそう呟くと突然空を仰いだ。そして、我に返ったように真悠を見た。


「そろそろ時間だろ? 行けよ」


「尾崎、ありがとう」


 脳裏に昨日の白い腕が浮かぶ。あれが柴田さんなら、真悠は恐れている場合ではない。

 尾崎に、真っ直ぐに伝えたかった。


「話してくれてありがとう」


 尾崎は舌打ちをした。


「山下は柴田のこと忘れたわけじゃない」


 そう吐き捨てて、駅と逆方向へと去っていった。真悠は走り出す。まだ電車に間に合いそうだった。

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