十、引き出し2 花束
二階の廊下で課題をしていると、一階から賑やかな声が聞こえてくる。
姉と母が酒を飲んでいた。父は仕事からまだ帰らない。
おかしな格好で課題を進めていた。集中が解ける。流石に疲れた。
鞄を持つと、階段を降りてリビングに入る。笑い声と、ビールとツマミの匂いが鼻についた。
「出かけてくる」
真悠の声は耳に届かなかったが、母が気づいた。
「真悠、降りてきてたの? 鞄なんか持って、出かけるの?」
「ちょっと、コンビニ」
「気をつけてね」
ご機嫌な姉もひらひらと手を振った。
「ついでにからあげ買ってきて」
(調子がいいんだから、糞姉)
胸の中で毒づき、真悠は夜道の涼やかな風の中を歩いた。あの家の中より気楽だ。ずっと心地良い。
一番近いコンビニは駅前の店だった。
そこで、からあげと消しゴムを買う。それから、昼飯抜きだった上に、夕飯が足りなかったからおにぎりを二つ。
(家で食べたくないな)
視線の先には、昼間、山下との話した公園のベンチがある。
(さすがに嫌だな)
夜の公園は闇に包まれていた。
街灯が一つだけポツンと光っている。オレンジ色の光一つで公園の全てなど照らせるはずもなく、その光が届かない空間をむしろ闇深く染めているように見える。
しかし、真悠は吸い込まれるように公園に入り、ベンチは素通りして石碑に近づいた。近づき過ぎるのは怖かったから、遠まきに見つめる。
「あっ」
思わず声が出てしまった。暗がりの中に、花束が置かれていることに気づいたのだ。
(釣鐘草)
暗くてはっきりとした色まではわからない。でも、間違いなく釣鐘草だった。
(もしかして、ここで……)
柴田さんは亡くなったのかもしれない。
柴田さんの母親が手向けたのかもしれない。
真悠は着ていたTシャツの裾を握りしめていた。胸の痛みで思わず目を閉じた。
(あの日。私は何を祈ったのだろう)
自分を蔑み、笑いものにしたあの四人を憎んだ。
優しいふりをして見下していた柴田さん。川口。尾崎。山下。
同じ目に合えばいい。そう願った?
(違う)
腹の底の底から憎悪は生まれた。自分の中にこんな闇があるとは知らなかった。
でも、忘れようとした。これから通うことになる高校では、きっといいことがあると信じて。
そして、期待しているいいことは起きなかった。中学より少しマシではあったけれど。
自分が変わっていないのだから、当然の結果だった。
そして、去年。同窓会のことを話し合った時。
ーー斎藤さんを呼んだら盛り下がるから、やめよう。
幹事の柴田さんはそう言ったらしい。
呼ばれなかったことに憤ったわけではない。中学の同窓会なんて行きたくもなかった。
ただ、忘れていた感情が目を覚まし、育っていく。
「こんな時間に何してんだよ」
突然投げかけられたその声に、真悠はくるりと向き直った。
尾崎だった。
猫みたいに足音もなく、いつのまに真悠の背後に立っていた。白いシャツをオレンジ色の街灯に染められている。真悠は驚きはしなかった。現れる予感がしていたのだ。
「川口、死んでいた。柴田さんも」
尾崎が目を見開いた。
「尾崎は知っていたんでしょ?」
自分の、ひどく静かな声に、真悠は皮肉を感じた。
「知っていること、教えてよ」
山下も尾崎も、過去に自分をからかった男だ。そんな奴らに助けを求めている。
「俺も死んでいるかもしれないのに?」
尾崎はニヤニヤと笑う。
「斎藤さんに呪い殺されたのかも」
露骨な嫌味に思わず目を逸らした。そんな真悠の隙きを尾崎は見逃さない。
「墓参りくらいしろよ。死んだと知ったなら。知らないジジイと山下から聞いただけの情報を鵜呑みにして、動揺しているわりに何もしない。実はざまあみろとか思っている?」
その言葉は鋭く胸に刺さった。
思わず尾崎の顔を見る。もうニヤニヤなどしていない。射るような、真剣な眼差しだった。
「可哀想な自分のままでいたいのかもしれないけど」
そこまで言って、尾崎は言い淀む。しばらく石碑に視線を向けてから、もう一度真悠に顔を向けた。
「それとも斎藤は、自分が呪い殺したから、その罪悪感で墓参りにいけないのか?」
「呪い殺してなんていない」
「そういいきれるのか? 大体、どうして柴田が死んだのか聞きもしない。あそこにある花束の意味、わからないのか?」
困惑と怒りが真悠の脳裏を駆け巡った。何故尾崎に責められなくてはいけないのだろうか。
「何で私に絡むの?」
ほとんど悲鳴みたいに、真悠は言った。
「何で、尾崎にそんなことをいわれなくちゃいけないの?」
また、尾崎が何かを言いかけて口を閉じる。それから、大きく息をつき、頭を掻いた。
「俺、呪われているから」
尾崎は再びふざけた笑みを口元にたたえている。もうこんな男と話したくない。真悠は何も言わず尾崎に背を向け、公園を後にした。
「斎藤!」
尾崎の声が耳に飛んできた。
「山下の言うこと信用するな!」
思わず振り返った。しかし、もう尾崎の姿はなかった。
コンビニから帰ると、父も帰宅していた。母と姉の酒盛りに加わっている。楽しそうな三人を邪魔しないよう、さっさと唐揚げを渡して、そそくさと自室へ向かう。
勢いよくドアを開け、大股で机の前に近づくと、思い切って水色の封筒と川口のメモは引き出しから出した。
尾崎と話したら、色々なことが馬鹿馬鹿しくなった。
(調べてみてもいいのかもしれない)
唯一連絡先を知っている中学の同級生に、連絡をしてみて、尾崎が死んでいるか確認をするのだ。
しかし、文字を何度も打ち込んで、書き直しても、うまくいかない。
(こうなったら電話をしよう)
そう思い立った瞬間、どっと笑い声が響いた。母と姉の声だ。
「人の気持ちがわからない」
姉の言葉が蘇った。こんなことを図々しく聞けるだろうか。真悠はスマホを置くと、窓を開けた。しめ切っていたせいで部屋は蒸し暑かった。涼しい風が吹いて、釣鐘草を揺らした。まだ綺麗に咲いているが、花弁の先が少し茶色くなり始めいていた。
川口が亡くなったのは確かなのか。
(もうやだ)
再び引き出しに例のクリアファイルを仕舞い、次の課題に取り掛かる。現実逃避をしたいのにあまりはかどらない。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
真悠はウトウトして、いつのまに机に突っ伏して寝てしまった。
(何か、鳴ったような……)
開けっ放しの窓から冷たい風が流れ込む。翻るカーテンの向こうには、雨音も聞こえた。
(今何時だろう)
顔を少しだけ上げて、手首に違和感があることに気付いた。
(痛い……?)
視線を痛みの方へと移すと、真悠の全身は凍りついたように動けなくなった。
冷たく白い手が、右の手首を掴んでいた。