一、嫌いな男と再会する
大学に通い始めてすぐの頃。
斎藤真悠はその公園の隅にある石碑の後ろに、誰かがいるのを見つけた。
こんもりと盛り上げられた、小さな芝生の山の上にその石碑はあった。
月曜から金曜まで一限目から講義を入れていたので、毎日通勤通学時間帯の、満員まではいかなくてもまあまあ混雑した電車に乗っていた。乗る位置は何となく決まってきて、四月の半ばをすぎる頃からニ両目のニ番ドアのそばで外を眺めていた。
そこから、石碑の後ろの人影を見つけたのだ。
(やっぱり似ている)
あの子に似ている。
石碑のそばの人影を確認できるのは、公園を通り過ぎる時だけ。その数秒の間だけ。
でも、確実にそれはいた。
(呪いの石碑だったっけ)
小、中学生の頃、真悠の学校ではこの公園で肝試しをするのがお決まりだった。ただし、そんなことをして楽しめるのは、友だちがたくさんいるキラキラとした人間だけ。気づくと真悠は鼻で笑っていた。皮肉というより自虐的に。小中学校での思い出の中に、キラキラは皆無だったから。
人影は毎朝その石碑の後ろに立っていて、体の左側が少しだけ見える。肩から指先までのラインは若い女に見えた。白いシャツの袖から握りしめられた手がのぞいている。何をしているのかわからない。ただ、そこに立っている。
しかし、その日は違っていた。石碑の前にいたのだ。後ろ姿ではあるものの、一人で佇むその女に見覚えがあった。
(やっぱり柴田さんなの?)
長い髪を一つに結っただけなのにどこか垢抜けている感じや、スラリとした後ろ姿は、中学の同級生の柴田さんに似ていた。しかし、女が振り返ることなかった。電車は公園の前を通り過ぎ、市街地へと進んでいく。
何故柴田さんはあんなところに立っているのだろう。まるで誰かと話しているような……
(いや、彼女ではない)
考えを巡らせるより早く、思い出が胸にギリギリと爪を立てた。
(中学時代の柴田さんは、もっとキラキラしていた。自分のようなクソは、触れちゃいけないくらいに)
クソの証明としては、同窓会で名前を消されたことだろうか。
消したのは幹事の柴田さんだ。
石碑の後ろを、別路線の電車が通り過ぎていく。真悠は遠ざかっていく見慣れた街並みから視線をそらした。
★
その日の帰りは、今に雨が降りそうな空模様だった。大学での講義が終わり、斎藤真悠は家へと帰る途中だった。夕方のやや混んだ改札を出て、駅前のコンビニに立ち寄ろうと歩いていた。
「斎藤さん」
突然そう呼ばれて振り返る。
「こんにちは」
声をかけてきた男の顔を見て三秒。人懐こさと媚びをない交ぜにしたその笑顔に見覚えがある。思わず眉間にしわを寄せた。
おずおずと会釈をしたのは川口だった。
中学の修学旅行で同じ班だった。それ以外なんの接点もない。そんな男が、中学卒業からもう四年経って話しかけてくるなんて、思いもよらなかった。
私服の川口は、背も伸びたし年相応の顔立ちではあるが、どことなく頼りない。その子犬のような感じが中学時代とあまり変わっていない。
「久しぶり」
笑顔が弱々しい。
でも、真悠はちゃんと思い出していた。川口にうけた仕打ちを。
「あの、何の用ですか」
真悠は警戒心を剥き出しにする。嫌悪を隠す気はない。
川口もそれに気づいてもう一度、悲しげに笑った。
「唐突なんだけど、柴田さんから連絡ない?」
「柴田さん?」
「柴田咲良。彼女も修学旅行で同じ班だったでしょ? こんな事、斎藤さんに相談するのは変だと思うだろうけど、柴田さんがいなくなったんだ」
「いなくなった?」
「もう一年経つんだ」
雨がポツポツと降り始めた。
柴田さんなら毎朝公園に立っているでしょ?
喉元まで出た言葉を飲み込む。あれが柴田さんという確かな証拠はない。言う必要はない。
「私は何も」
そう答えて下を向いた。柴田さんのような、明るくて美人で誰にでも好かれるような人が、一年間失踪していることに驚いてしまった。
真悠の前で黙ったままの川口に首を傾げる。
「そんなこと私に相談するのはおかしいと思う。いなくなったなんて、今の今まで知らなかったような間柄だし。もっと仲のいい人いるでしょ?」
「いや、ちょっとね」
川口は目線を下や横にそらしながら、いかにも言いにくそうに口ごもる。
「柴田さん、ずっと斎藤さんのこと気にかけていたから」
「気にかけてた? 私とは特に仲も良くないのに?」
川口は、そんなひどいことをいうなよ。という目をしている。
「柴田さん、会うたびずっと斎藤さんの話をしてたんだよ」
隠しきれなくなったのか、真悠を恨めしげに睨めつけている。真悠の方は、川口が睨めば睨むほど、冷たく、頑なに心を閉じていく。
「やめてよ。こっちは同窓会にも呼ばれなかったけど? 一昨年の同窓会、柴田さんと川口くんが幹事だったんでしょ? 高校二年生のうちに……受験生になる前にクラス全体の同窓会をしようって」
川口の顔色が変わった。都合の悪い事実を知られていたことに驚いたのだろう。
「それは違うんだ」
「違うとは思わない。同じクラスだった子が教えてくれた。もし行くなら一緒に行く?って連絡をくれて」
川口は押し黙る。もう反論はできなくなった。
「偶然知ったわけだけど、柴田さんはクラス全員を呼ぶ同窓会で私を弾いたんだよ? それで気にかけてたってどういうこと?」
嘘なのだ。気にかけるなんていう優しさは嘘なのだ。
「私は知ってるから」
真悠の冷たい視線に、川口はしばらく言葉を失っていた。後ろめたいものがあるのだろう。
真悠はさっさとここを立ち去りたい。察した川口が顔を上げる。
「実は柴田さんの家に、明日一緒に来てほしいんだ」
「明日? 柴田さんの家に?」
「明日、朝十時にここに来てほしい。頼まれたんだ」
「頼まれたって、誰に?」
「柴田さんのお母さんだよ」
今度は、真悠が何も言えなくなった。
明日は土曜日。大学は休みだし、予定はなにもない。でも、一年間失踪している同級生の母親から呼び出されるなんて。
(怖い)
行かないのも怖い。同級生のお母さんだ。
「無理ならいいんだ。斎藤さんのお母さんに頼んでみるよ」
(断ったら、次は真悠の母親に話すのか!)
何でそんなことをするのか。真悠は怒鳴りつけてやりたい気持ちを何とか抑え込む。人目のある駅前で騒ぎたくなんかない。
川口が母親に何かを話すということは、思い出したくないことや話したくないことまで、真悠に根掘り葉掘り聞くではないか。腹の底から嫌だった。
川口は、それを見透かした上で言っているのだろう。卑怯なやり方だ。断れないように仕向けたのだ。
「わかった。いくよ」
雨がパラパラと降っているのに、駅舎の白い壁に夕日が映って、オレンジ色に染まっていた。
川口は眉尻を下げる。ようやく待っていた答えを聞けた。安心した。そんな気持ちが丸出しだ。
「ありがとう。じゃあ、明日十時ね」
そう言うと、急いで背を向ける。小雨のぱらつく駅前通りを逃げるように走り去っていく。
(許せない)
思い出の中の柴田さんは、いつも明るい笑顔だった。あの日までは。
いつも気にかけていた? 柴田さんが?
(嘘だ)
どんなに時間が経っても、いつも胸の底にある憤りを真悠は消すことはできないでいた。