Episode.2-3:紫水蘭についてのお勉強
部屋の外へと出て、先ほど来た道を辿るようにしてリビングを目指す。俺の頭の中はこれから何をどう話して情報を引き出そうかという思考でいっぱいだった。単純にコミュ障な人間なのでね。十分に親しい人間に対しては一生無くならないほどの手札が存在するが、初対面の人に対してはそうはいかない。
そんなことを思っていると、先ほど紫水の母親が出てきた部屋へと到着する。何箇所かはめ込まれているすりガラスからは電気の光が漏れていたので、母親でなくとも誰かしらはいるだろう。
金属製のレバーハンドルを握る。触った瞬間はひんやりと冷たく感じられたが、開けることを躊躇っているうちにその感覚は消えてゆく。やがては不自然に出てくる汗により、むしろ温度が増していった。
.........よし、何パターンかの脳内シミュレーションも終わらせたことだし、覚悟を決めて入「......何をやっているの?」るぞ。
「って、うわあっ!」
予想外のタイミングで背後からかかった声から本能的に逃れる為か、俺は無意識のうちにレバーハンドルを下げ、そのまま倒れ込むようにして部屋の中に侵入した。部屋の中でくつろいでいたであろう紫水の父親からの目線がとても痛い。
「......ど、どうも。地域研究部部長の環です」
数秒後、今の自分の姿勢が非常によろしくないものだとようやく気付いた俺は、床に手をついた状態から慌てて身体を起こして正座をする。そして、そのような言葉と共に深々と頭を下げた。それに対して、依然として何一つ状況を把握していないであろうお父様は、「あ、ああ、どうも」とだけ返すのであった。ああ、これ明らかに引かれているな.........。
自分の家のリビングでくつろいでいるはずなのに、何処かばつが悪そうな顔で視線をあちこち動かし続ける後輩の父親。どういう意図なのかは不明だが、一言も発さずに部屋の外で立ち尽くす後輩の母親。そして、リビングの入り口で正座しながら後輩の父親に向かって頭を下げ続けている部外者の俺。
それはきっと、傍から見たら通報でもし兼ねない程に不自然な空間であった。
その空間の時が動き出すのは、それから一分も経たないくらい後のこと。
「......まあ、なんだ。ずっとそんなところに居ないで、こっちに来たらどうかな」
見かねた紫水の父親が、俺と、その奥の暗闇に隠れている母親に向かってそう呼びかけた。このタイミングを逃したら一生このままであろうという思考の下、俺は痺れかけて歩き辛い足をひっぱたいて数メートルもない距離を小鹿よろしくよろよろと歩く。
「お見苦しい所を見せてしまい申し訳ないです......」
ダイニングテーブルの天板に収められた椅子の一つ、恐らく紫水がいつも座っていたであろう椅子に着席を促されたので、軽く謝りながら音を立てないように静かに座る。そして、それに続くようにして、母親が若干の愛想笑いを見せながら俺の右斜め前の席に着席した。
先ほどに比べたら居心地は悪くないのだろうが、これはこれで圧迫感があるな。まるで、初めて彼女宅に挨拶をしに来た彼氏のような............って、そういえば俺、『地研部長』であるということしか言ってなかったような。もしかしたら本気でそう思っているのではないか......?
そう思い、出来るだけ早く改めて挨拶をしようと口を開くも、そんな気を知ってか知らでか、紫水の父親は軽く咳払いをしてから、控えめな声量で言葉を発する。
「ええと、それで? 君は蘭の彼氏さん、ということでいいのかな?」
ああ、やはりそうだったか。まあ、他にも部員が居るのにも関わらず、学校終わりに娘と二人で帰宅されたらそう思っても何らおかしくないだろう。
俺は改めて、自分は決して紫水の彼氏であるわけではなく、先輩かつ地研部長という立場から一応挨拶をしておこうと思いリビングに顔を出したことを説明した。加えて、俺が家に訪れたのは、部活の帰りが遅くなったから紫水を家まで送るという話の中で発展したものだということにしておいた。悠姫、これ以上の追及に対するフォローは頼んだぞ。
紫水の父親はそんな俺の説明に対して、嬉しそうでありながら残念そうな、複雑な表情を浮かべていた。残念ながら子供どころか彼女もいない俺には分からない感情であった。
そんなこんなで先ほどと比べてかなり空気が良くなったので、世間話が始めやすい環境が整う。特に何を聞いておかなければいけないというものはないが、さて、何の話をしようか。
「紫水......いや、蘭さんって中学生の頃どんな感じだったんですかね?」
数秒悩んだ結果、当たり障りのない世間話から入るというまどろっこしいことはせずに、いきなり紫水のことを知るための質問を投げかけた。単にコミュ障であるというのもあるが、どうもそういうのは昔から性に合わない。
それに対して、母親は特に何の疑問も持たないまま答える。
「そうねえ、これと言ってあまり今と変わらないけど............ああでも、高校に入ってからは少し明るくなったような気がするかな。貴方達のおかげかもね」
そう言葉を紡ぎながら、先ほどまでは一片も見せていなかった柔らかな笑みを浮かべる。もともと自分を語りたがらない紫水だったからか、それは完全に初耳な情報だった。.......まあ、そもそもそういう変化は自分で気づけるものなのだろうかというのはあるが。
「......俺たちのおかげ、ですか?」
俺は、遠回しにその話の続きを促す。紫水のことをより詳しく知るためにその情報を得たかったが、如何せん明るいだけの話題ではなさそうなのでそう聞くほかなかった。
彼女はそれを察してくれたのか、先ほどまでこちらに向けてくれていた視線を天板へと移し、回想に浸るようにして答える。
「そう。蘭はもともと自発的な子じゃあなかったんだけどね。だけど、中学生の時に色々あってからは更に自分を出さなくなっちゃってさ。一週間に一回笑っているところを見られたらラッキー、くらいで」
再び視線を上げて、続ける。
「それが高校に入ってから.........いや、正確には中学を卒業して少し経ったくらいかな? 今までに無いくらい元気になったの。少なくとも、毎日のように笑顔を見られるようになった」
へえ、俺達が知らないところでそんなことがあったのか。.........ん? いやでも、それって......。
「あの、水を差すようで悪いんですが、それってその、中学の時の同窓と離れ離れになったから元気になっただけなのでは......?」
彼女は笑いながら、確かにそういう考え方もあるかもね。と言った。加えて、でもね、と逆接の単語を頭に付けて俺の質問に答える。
「これはここだけの話にして欲しいんだけどさ。あの子、普段学校について話すことは貴方達のことばかりなの」
そう言われた時、なんとも言えないむず痒さを感じた。確かにそれは俺の質問に対する反論の根拠としては十分なもので、その空間を共に作っている人間としては嬉しいはずなのだが、何故だかとても恥ずかしい。
「......あ、ああ、そうだ。あともう一つだけ聞きたいことがあるんですけど!」
それを誤魔化すかのようにして、俺は今日一番の大声で話題の転換を行った。それに対する二人の生暖かい笑みはさらに俺の体内温度を上昇させるが、気にせず言葉を続ける。
「蘭さんがこの『地域研究部』に入った理由をご存じだったりしませんかね?」
「理由......?」
唐突にそんなことを問うたからか、今度は二人して、何のことやら、と小首を傾げる。
「ええ。うちの部って規模が小さいんで親しい間柄の人同士で入部してくることが多いんですけど、彼女は一人で入部してくれたので。.........何回か聞こうとしたことはあるんですけど、毎回何やかんやではぐらかされてしまうんですよね」
敢えて、彼女から聞いた『楽しそうな雰囲気だったから』という言葉は隠す。まあ、その言葉を嘘だと思っているわけではないのだが、やはりどうしても、何の縁もないこんなよく分からない部にわざわざ入るわけがないだろうと思ってしまうのだ。
二人は俺の言葉に一瞬納得したかのような表情を浮かべるも、その解答を作成するためにまたもや少々首を傾げている。あまりにそれが長いようなら諦めようと思っていたのだが、十秒程度後に、今度は父親が、何かを思い出したかのようにして言う。
「そういえば、尊敬している人がいると言っていたことがあるような」
「......ああ、確かにそう言ってたね」
更に数秒後、母親もそれを思い出したようで、父親の言葉に賛同した。へえ、尊敬か。.........え、あの部活に?
俺は天井を仰ぎながら、うちの部のメンバーを改めて思い出す。
椿さん......まあ、順当に考えれば彼女のこととなるだろう。確か去年は生徒会で副会長をやっていたはずだし、知らぬうちに尊敬されているという可能性は、まあなくはない。
要さん......うちの部の中では一番人当たりが良く、もしかしたらどこかで会ってそれなりに仲が良くなっている可能性はあるが、そうだとすれば、それは『尊敬』とはまた違う感情が生まれるだろう。
悠姫......初対面の相手でも優しく接する彼女もまた、尊敬の念を向けられる可能性はなくはないが、確か、この話題を彼女に振った時に会った覚えはないと言っていた気がする。
俺......何が間違っても『尊敬される』ことはない。
............やっぱりそう考えると椿さんが妥当だよなあ。まあ、だとしたら、何故椿さん本人だけでなく俺達にも何も話さなかったのかというのは謎だけど。......また部室に行った時に少し聞いてみるとするか。
「そうだったんですね......色々とありがとうございました」
「いいのよ、あなたにはいつもお世話になってるんだから。......あの子は自分から話したがらないから、何か知りたいことがあったらいつでも聞いてね」
俺はそれに対して頷き、これまた静かに席を立った。そして、もう一度だけ礼を告げてリビングを去る。
「......どうか、これからも蘭をよろしくね?」
ドアを閉じる間際に言われたそんな言葉に対しては、曖昧で弱々しい言葉しか返すことが出来なかった。
電気のスイッチがどこにあるか分からなかったので、暗闇の中、先ほど来た道をそのまま歩く。その途中、先ほどの会話を頭の中で振り返っていた。......正直、あれで得た情報で状況が何か変化するのかと問われると言葉を濁してしまいたくなるのだが、まあ、悠姫から託された『紫水に詳しくなる』というミッションは達成できたので良しとしようか。
ええと、確か紫水の部屋は階段を上って右から二番目の部屋だったはず。......あれ、三番目だったか? 一人っ子だと言っていたから誰かの部屋という訳ではないのだろうが、あまり関係のない所を覗くことはしたくない。......まあ、たった一人の可愛い後輩の部屋に勝手に忍び込んでいるのは誰なんだって話だが。
「.........ぇ、詩遠先輩、ですよね? どうしてウチに居るんですか.........?」