Episode.2-1:いざ"他人"の家へ
「紫水の親御さんには連絡ついたのか?」
時刻は十八時半。完全に日も落ち切って、日中は影を潜めていた寒気が暗闇を断たれた鼠の群れのように姿を現した。まだブレザーの上に羽織を着るほどではないが、注意しなければ底冷えしてしまいそうだ。
そんな空の下、俺と悠姫は予定通り帰路に就いていた。さすがに無連絡で同年代の男一人が家にお邪魔するのは憚れるので、LINEを使用して紫水の母親に連絡を取ってもらっているのだが、なかなか返信が来ない。あと五、六分もすれば家に到着するらしいので信号待ちの間にもう一度確認してもらっているのだが.........。
「ううん、既読は付いてるんだけど返信は来ないや」
「そうか.........」
まあ、この時間帯だと忙しくても無理はない、か。......というかそもそも、紫水の家庭環境なんてものはほとんど聴いたことがないので、もしかしたら親御さんは共働きで家を留守にしているのかもしれない。
「ま、既読が付いてるんなら何とかなるだろう。晩飯をごちそうになるわけでもなし」
「そうだねぇ」
そう結論に至ると、彼女はおもむろにスマホをポケットへと仕舞った。
その後は特に会話と言う会話をしないままに、ナビに従い紫水の家へと向かった。
「......別にやましいことをするわけでもないのに何だか緊張するな」
暗闇の中、悠姫が慣れない自宅玄関ドアの開錠に苦戦していると、先ほどまではそこまで感じていなかった緊張感が急にこみあげてきた。先から続く冷気も相まって、比喩ではなく本当に身体が細かく震える。
「安心して、何もその気持ちを持ってるのは詩遠だけじゃないから」
そう言いながら、悠姫はようやく開錠することに成功したドアの把手を握った。まあ確かに、こいつとしても紫水の親は他人だ。しかしそれでいて、彼女は『他人でないフリ』をしなければならない。俺なんかと比べ物にはならない緊張を抱えているのだろう。
「ま、バレたらその時はその時だ。.........じゃあ、準備はいいか?」
彼女は改めて深呼吸をして。
「——ん、おっけ」
かちゃりというウチの部室のそれとは比べ物にならない程に軽い音を奏でながら、ドアを開けた。廊下を照らす控えめなライトの光が、徐々に外へと漏れ出す。
「......た、ただいまー」
ドアを盾のようにして家の中をきょろきょろと見まわしていた悠姫は、取り敢えず視界に誰も居ないことを確認できたのか、ドアを開けて三秒、ようやく家へと足を踏み入れた。抜き足差し足で玄関に敷かれているタイルを歩き、ちょこんと上がり框へと座り込む。すると、彼女は何か一仕事成し遂げたかのように俺へと微笑んだ。.........俺達は泥棒か何かか?
そう突っ込んでやろうと思ったその時であった。
「あら、おかえりなさい」
ビクッ!
そのような優し気な声と共に、リビングと思われる場所から紫水の母親が顔を出した。......のと同時に、さすがに大袈裟だろと言いたくなる程に悠姫は肩を震わせた。よほど驚いたのだろう。先ほどまで見せていた笑顔の一切を消し、微かに涙すらをも浮かべていた。そして、それに対して紫水の母親が驚くというなんとも不思議な空間を、俺は目の当たりにしていた。
「.........あ、あなたは先ほど連絡を入れてくれた子ね? いらっしゃい」
「ご無沙汰してます。地域研究部部長の環です」
何をどう触れていいのか分からなくなったのだろう。母親の視線は未だに開いたままであるドアの方へと向けられる。俺はそれにより、すっかり失ってしまっていた家へと入るタイミングを得、ようやく紫水の家の敷居を跨ぐことが出来た。
「何のおもてなしもできないけど、ゆっくりしていってね?」
未だに娘が自分の声に驚いたことが引っ掛かっているのか、どこか不自然な笑みを浮かべながら彼女はそう言い、先ほど出てきた部屋へと帰っていった。さて、これからどうしようか.........と、それを考える前にやらなければならないことがあるな。
俺は先ほど辿った道を数歩下がり、華奢な肩をぽんぽんと軽く叩く。
「おい悠姫。もう紫水の母さんは居なくなったぞ」
一応、他の誰にも聞こえないように耳元で、小声でそう声を掛ける。すると彼女は、その言葉でさえ咀嚼するのに数秒を要したが、その後はようやく先ほどの調子へと戻った。