Episode.1-2:イレギュラーの襲来
「じゃあ、また明日な」
大きなあくびを漏らしながら先ほどに引き続きカバンの中を整理していると、頭上からそんな声が聞こえてきた。俺は見向きもせずに「おう」とだけ返す。人によっては不快に思われるかもしれない言動であったが、彼は特に気にすることもなく教室から去っていった。俺にさほど興味がないのか、ただ心が広いだけなのかは分からないが、前者であるならば少し哀しい。
そんなことを考えてみるものの、正直そんな小さなことはどうでもいい。というかただの挨拶にそこまで考える奴はあまり友人になりたくはないね。
それから一分もしないうちに整理を終え、篠原の後を追うように教室を後にした。
その足は先ほど彼に告げたように、自宅ではなくとある教室を目指していた。地域研究部が部室として使用を許可されている第二地学講義室は、俺がいた教室から歩いて七分程度の距離にある。校舎が違うとは言え、少しばかり遠くないだろうかとはいつも思う。
まあ、こんな廃部寸前の部活に教室を与えてくれているだけありがたいことではあるんだけどね。
喋る相手もいないので、黙々と歩いて教室を目指す。その途中、校舎内が不気味なまでに静かに感じたが、そういえば今がテスト二週間前であることを思い出す。一応、顧問がいる部活は活動を停止しなければならない取り決めになっているのだ。勉強にあまり興味がないものですっかり忘れてしまっていた。ウチには顧問がいないが、もしかしたら今日からテストまでは誰も来ないかもしれないなあ。.........まあ、それならそこで勉強すればいいだけだし別にいいか。
そんなこんなを思っている内に、目的の教室へとたどり着く。ガムテープが何重にも巻かれているが、それでもなお重力に負けそうになっているネームプレート。潰れてしまったせいで強引に破壊された鍵。三回に一回は引っ掛かる開き戸。二、三か所割れたままになっている窓ガラス。
ここだけ廃校になったのかと問いたくなるようなこの教室が、地研の部室だった。最初訪れた時には驚いたが、今となってはもはや実家のような安心感がある。.........いや、それは大げさだな。正直綺麗になるならそれに越したことはない。だけど、ここに思い入れがあるというのは事実で、少し綺麗な所へ移っても良いと言われても断ってしまうかもしれない。
なんてことを考えながら引き戸を開ける。いつもの通り引っかかると思い勢いをつけたのだが、今日は戸の機嫌が良いらしくおまけにフレームへとぶつかって鈍く大きな音を奏でた。
さて、外面はあんなだが、それなりの頻度で活動しているため教室内は比較的綺麗にしてあるつもりだ。とはいってもそれはやはり簡素なもので、小綺麗な机と椅子が五つずつ、向かい合わせにして教室の中央に佇んでいるだけなのだが。
「あ、椿さん。来てたんですね」
そして、その中の一セットに着席していた人物は、教材とにらめっこしていた顔をこちらに向け、「やあ、詩遠くん」とにこやかに挨拶をしてくれる。結果的に邪魔をしてしまうとしても、もう少し気を配って戸を開けるべきだったと今になって少々後悔する。何と言ったって、彼女は三年生、即ち受験生なのだ。俺や紫水に気を遣って度々ここに来てくれているのだから、それ以上邪魔をするような真似は極力避けなければならない。
というか、本当は何でもない日には来なくても良いと伝えなければならないのだが.........
「ここだと不思議と集中できてね。休憩時間に君たちと話すのも楽しいし」
本人の口からこう言ってくれている以上、それをあまり邪険にすることもできないというもので。それに、心配ではあるけれど、そういった気持ちはただ純粋に嬉しかった。......加えて、実は勉強面に関しても椿さんはあまり問題はないだろうと踏んでいる。成績に関してはウチの部どころか学年でもかなり上位に位置しているはずだ。このまま順当に行けば、彼女の望む進路へと向かうことが出来ることだろう。
ただ、そうは言っても勉強の邪魔をするのはいただけない。さっきまで忘れていたけどもう少しで定期テストだし、彼女から話を振ってくるまでは俺も静かに勉強をするとしようか。そう思い、いつも座っている席へと腰を下ろす。位置的には椿さんから見て左斜め前であった。
学校指定のカバンから、先ほど乱雑に突っ込んだ参考書と問題演習用のノートを取り出しおもむろに机上へと広げる。そして、前回の続きから問題を写し始める。.........と、ここで俺はどこかから視線を向けられている事に気が付く。......いや、この教室には俺以外に一人しか人間がいないわけだし、どこかもクソもないんだけど。
左斜め前に向けて顔を上げた。すると、そこにはこちらのノートや参考書をのぞき込む椿さんの姿があった。
「物理? 私が教えてあげようか」
そんな台詞の後、彼女は俺の返答を待たずして俺のノートへと文字を書き入れようとしてきたので、俺はそれを制止する。
「いやいや、大丈夫ですから。椿さんは自分の勉強に集中してください」
「だって演習問題ばかり解いててもつまらないんだもん。それに、取り敢えず区切りがついたし」
そう言われてちらりと彼女の机をのぞき込むと、そこには俗に言う赤本と、赤ペンで採点された後のコピー用紙が複数枚あった。所々バツ印が付いているが、さすがにこの正答率で不十分なことはないであろう。
しかし、そうなってくるとあまり断る理由もなくなってくるし、椿さんが言うのなら大丈夫なのかもしれないと思えるようになってくる。......まあ、一、二問程度ならそこまで邪魔にならないだろうか。
そう思い、どうせならこの前解答を読んでも理解できなかった問題を解説してもらおうと参考書のページをめくっていると。
「椿、それなら勉強なら俺に教えてくれ! ......ありゃ、今日はえらく扉の調子がいいね」
先ほど俺が出してしまった戸の爆音を再び鳴らしながら、とある人物が地研部室へと入り込んでくる。まあ、こんな教室部外者は寄り付くこともないので、それは必然的にウチの部活の人物と言うことで。
「カナ、また大学からの課題でしょ? それはたとえ間違っていたとしてもあんたが解かないと意味ないでしょうが」
「いやいや、そんなこと言わずにさあ。一問だけでいいから、な?」
半ば呆れながら言葉を放つ椿さんに、それを受けても全くひるむことなく要求を通そうとする要さん。さすがは幼馴染なだけはある。もはやこんなやり取りは百回ではきかない程に行われているのだろう。
「......ま、それはそうとして。詩遠も久しぶりだねぇ」
「お久しぶりです。要さんは推薦でしたっけ?」
「そうそう、小論文やら面接やらの対策をしてたらなかなか顔出せなくてな。でも、もう合格貰ったから、これからは結構来れるよ」
そう言って、彼はニィと笑いながらブイサインを作る。一応数日前に椿さんから結果は聞いていたから......というか、俺が気になって仕方なかったのを察して話してくれたからそれは知っていたのだが、改めて本人からその二文字を聞くと安堵すると同時に、自分のことではないのに嬉しさまで覚えてしまう。
「本当ですか! おめでとうございます!」
だから俺は、心底からのお祝いの言葉を口にした。まだ試験を控えている椿さんの前でこういう話をするのは少し憚られたが、彼女もまた泣いて喜んだらしいので多少は許してくれるであろう。まあ、もしかしたらそれは保護者的な観点なのかもしれないけれど。
「.........そうだ詩遠。暇だったら今からどっか遊びに行かねえか?」
自分の席に荷物を置いたばかりの要さんは、ちらりと椿さんの机を上から覗くと、俺に向かってそんなことを提案してきた。先ほどはあんなことを言っていたが、やはりこの人はこの人なりで気を遣っているのだろう。
俺としても、確かにテスト勉強をしなければならないが、ここでやっていても気が気ではないし単純に久しぶりに要さんと色々話をしたいと思ったのでそれを快く承諾した。が、その直後とある人物についてを思い出す。
「それなら紫水待ってからにしませんか? 行き違いになっても面倒でしょう」
それを聞くと、彼は確かにそうか、と呟くも、逆接の単語を挟んだかと思えば、少々笑みを零しながら再び口を開く。
「蘭ちゃん真面目だし、二週間前になったら来ないかもよ?」
今度は俺が確かにそうか、という番であった。......というか。
「要さん今日からテスト二週間前だってこと知ってたんですね」
「お前は俺を何だと思ってるんだ......」
別に何とも思っていないが、同じ勉強が苦手な者同士の中で格付けがされたかのようでほんの少しだけ悔しかった。なんてことは口に出したくないので、適当に愛想笑いをして誤魔化し、話題を元に戻す。
「まあ、じゃあ行きましょうか。......椿さん、紫水が来たらこっちに寄越すか適当に相手してあげてください」
それに対して椿さんがもちろん、と返したことを確認すると、俺と要さんは戸に向かって歩き出した。
「して、どこへ行きましょうか?」
「ううん、そうだなあ。正直何も考えてなかったが.........」
ガン!!
丁度戸の前に立った途端、俺にとっては三度目の轟音が目の前から聞こえてくる。その音を鳴らしたのは息を切らした一人の少女であった。またの名を......
「おう、紫水じゃないか。どうしたんだそんなに慌てて」
先ほどの音に少しばかり驚きはしたが、俺の口からは自然とそんな言葉が出ていた。
普段、こいつはおしとやかとまでは行かないが、少なくとも乱暴に戸を開けたりするような人物ではない。引っかかったらその都度開けなおそうとするタイプの人間だ。そして、そんな普段とは様子が違う紫水であったが、俺の問いかけに全く反応を示さない。息を切らしているというだけではなく、それはまるで、本当に『言葉を失った』かのように。
第二地学講義室では、粒子一つさえ動いていないかのような錯覚に陥るほどの静寂が訪れる。
「た.........」
ようやく時が動き出したのは、それから十秒も経たないくらいであった。彼女はその一文字を発音するが、それだけでは意味が分からない。と、今度は幾秒も待たないうちに、彼女はわなわなと震わせていた口を再び開く。
「......大変なの!!」
そんな言葉を聞いて、俺は思わず教室内にいた二人と顔を見合わせた。ふむ、皆思っていることは同じらしいな。そして、その役回りは俺であると。心得た。
「何かあったんならもちろん話は聞くけどさ、一回落ち着こうか、紫水。ほら、とりあえず中に入ろう」
出来るだけ優し気な声色でそう伝える。笑顔も作っていたつもりだが、経験則的に恐らく上手くいってないであろう。まあ、何であれ緊急な用事であっても、慌てすぎるのはよろしくない。ゆっくりしていけ、とは言わないが、一旦落ち着くのが好手だ。
しかし。
「おい、本当にどうしたんだよ紫水」
彼女は一向に戸の前から動こうとせず、依然として小さな身体をふるふると震わせている。それはまるで、この教室に入るのを忌避しているかのように。......まあ、それならそもそもこんなところへは来ないはずだから違うのだろうが。
「わ、私は.........やっぱり蘭ちゃんなんだ............?」
「......はあ?」
俺はイマイチ、彼女の言っている事の意味が咀嚼できずにいた。紫水以外に誰が居るというのだろうか。再び先輩達と顔を見合わせるも、やはり誰一人何も理解できていない。
「ご、ごめんね、いきなりこんな話しちゃって。......まだ私にも分からないことだらけだけど、一から話すよ」
俺達の困惑の色が見て取れたのか、紫水(?)は数分間止めていた足を動かし、部室へと足を踏み入れる。その声色は先ほどよりもほんの少し正常に近いものであったが、表情はまだ何かに怯えているようだった。
俺や先輩たちはと言えば、あまりに急な出来事にただただ唖然として彼女を目で追う事しかできずにいた。彼女はまた、慣れた足取りで自らがいつも使っている席へと移動する。それは俺から見て右、椿さんから見て正面に当たる席、金村悠姫の指定席であった。