Episode.1-1:いつもどおりの朝
...............朝、か。
重たい瞼がゆっくりと開かれた。遠くにあったはずの無機質な電子音は、いつの間にか俺のすぐ頭上にて煩く鳴り響いている。出来るだけ掛布団から離れまいともぞもぞしながら手を伸ばし、その音の主を手に取った。なるほど、今は一度目のスヌーズ機能が発動した頃か。道理でいつもよりほんの少しだけ寝覚めが良いわけだ。
そんな寝起き特有の制御不能な独白を垂れ流しながら、俺は布団から這出てベッドの端に改めて腰を下ろす。そして、無駄に長い靴下を履きながら、少々思考を巡らせる。
......今日の夢に出てきたあの声は、一体誰のものだったのだろうか。というかそもそも、アレは夢と呼んでいいものなのだろうか。そんな疑問が、ふと俺の頭の中に浮かぶ。
声の主のシルエットも観測できず、行われたのは対話というよりも一方的な語り掛けであった。......もしや、あれは俺をメシアとするための神からのお告げなのではないだろうか.........なんてね。
真面目な話、一応、声の候補はある。というか、俺に対してあのような喋り方をする人物というのは生憎一名しか存し上げない。とは言いつつも、じゃあそいつだ! なんて短絡的な思考をすることは出来なくて。
(妙に引っかかるんだよな、あの言葉.........)
ぼんやりとしか覚えてはいないが、あいつはあんな事を言う奴だっただろうか? そうだとしても、一体どんな場面ならあれを一方的に俺へと押し付けていくのだろうか? ......ううむ、考えだしたらキリがないな。
「まあ、会って聞けばいいか」
その後、再び十秒程度思考した上で、俺はそのような結論を出した。そう、その候補は何も遠い世界に住んでいる人という訳でもない。ただの後輩なのだ。気になることがあるのなら、直接本人に聞けばいいではないか。
まあ、こんな変な夢の話を聞かされても反応に困るだけだろうしそれとなく聞くだけにするけれど。と、一応自分に対して忠告をする。誰が何と言おうと、あれは所詮ただの夢。俺が俺に見せた幻想に過ぎないのだ。だから、これは飽くまで話のネタの一つなのであって、決してその言葉の真意を知る必要などない。困惑されたらすぐに引き上げよう。
そんな事を考えている内に俺は朝の支度を終え、自室を後にした。
キンコンカンコンと、一寸の狂いもない無機質な音が教室に響き渡る。
学校に設置されているスピーカーの品質が悪いのか、はたまた単純に音量の調整を間違っているだけなのか。その原因は定かではないが、俺の耳に聞こえてくるチャイムの音は微かに割れていて、少しばかり気分が悪くなる。
まあ、そんなことを思いつつも意識をしない限りは全く気にならないので、俺もすっかりこの学校に染まったものだと、ある種の感慨を感ぜざるを得ないのだが。
そんなチャイムを境に、比較的静かであった教室内が徐々にざわざわとした話し声でうるさくなっていく。しかしそれも無理のないことであろう。何と言ったって、今しがた鳴り響いたチャイムは六限目の終了を告げるチャイムであり、あとは十分程度のホームルームを受けるだけで今日はもう自由の身なのだ。これを喜ばない生徒などどこに居るというのだろうか。
「......なあ、詩遠。今日の放課後時間あるか?」
その例に漏れずに少しばかりテンションを上げながら教科書や参考書を乱雑にリュックへと突っ込んでいると、不意に、そんな声と共に何者かによって左肩が軽く叩かれる。その正体なぞ容易に想像は出来るのだが、反射的に後ろを向いてしまった。
「まあ、やっぱり篠原だよな」
「何か対応冷たくねぇ? 逆に誰だと思ったんだよ」
女生徒......等と答えてみてもよかったが、そんなあからさまな嘘を吐く気分でもなかった俺は適当にはぐらかし、何か用事だったかと問う。
「んにゃ、暇だったらちょっと買い物に付き合って欲しかっただけだよ」
すると、先ほど見せた小さな表情の翳りの一切を消し、いつも通りの笑顔を見せながら彼はそう答えた。なるほど、珍しいこともあるものだ。運動部が平日にオフを作るなどそうそうないことであろう。だが、本当に残念なことに、生憎今日はその誘いに乗ることは出来ない。
「悪いがまた今度でもいいか? 今日は部活の方に顔を出そうかと思ってて」
その『また今度』が当分来ないことを知っていながら、出来るだけ申し訳なさそうに告げた。まあ、こいつにとっては俺なんて数ある友人の内の一人に過ぎないだろうしさほど問題もないだろう。
「そうか......ま、それならしゃーないな」
少々残念そうに彼は言う。そして、断った俺が罪悪感に苛まれないようにするためか、はたまた自身の興味の赴くままの発言なのかは知らないが、担任がまだ教室へと来ていないことをいいことに、話題の転換を行った。
「そういや詩遠って何の部活に入ってるんだっけか?」
「ん、一応『地域研究部』ってところに」
「ああ、あの何してるかよく分からないところか」
なんと身も蓋もない言い方であろうか。まあ、部誌も出していない以上部外の人間がそう思うのは当たり前のことだし、実際自分たちでも何をする部活なのかをよく分かっていないので何も言い返せないのだが。
「一昔前まではこの辺りの地域の歴史を研究したり地域発展の手伝いとかをしてたらしいけどな。今となってはこの辺の遊び場を探すくらいしかしてねえ」
「よくそれで部活として成り立ってるな......」
表情を見る限り、篠原はかなり呆れている様子だった。確かに運動部のような目的がはっきりした部活の部員から見るとそう思うのも仕方のないことだろう。ただ、適当に出会った連中と適当に駄弁るだけでも結構楽しいものである。まあ、もっとも......
「来年以降はどうなるかは何も分からないけどな」
そう、地研は部活の目的も無ければ成果物の一つも存在しない。故に、わざわざそんなところに入ってくる物好きなど、全くと言っていいほど存在しないし、学校側としても残していて良いことは何もないだろう。
「でも今年は一人入ってきたんだろ? 確か......紫水さんとか言ったっけ?」
俺の追加説明を受けて、篠原はそう問うた。そう、そうなのだ。『全くと言っていいほど』などと言葉を濁したのは、確かな反例が存在したからで。
今年の春、新しく入学してきた紫水蘭という女生徒は、一人で地研へと入部希望を出してきた。大層驚いた俺は理由を聞いたが、彼女はほんわかとした笑みを浮かべながら『楽しそうな雰囲気だったから』としか言わなかった。俺の代も、その一つ上の代も近しい間柄の者同士で入部したものだから、そんなことを言われて更に驚いたし、何だかむず痒かった記憶がある。確かに、普段は本当に楽しそうに過ごしてはいるのだが、正直他の目的があったのではないかと思わざるを得ない。
「......まあ、別に何でも良いんじゃねえの? お前だってその子がいた方が楽しいだろ?」
「違いねえな」
色々とあって人数が激減してしまったウチの部活において、彼女はもはやいなくてはならない存在と化していることは確かだ。先輩方だって部活を引退してからも顔を見せてくれているとは言っても、正式な部員であった頃に比べたら頻度は下がるし、あと半年もしないうちにどう足掻いても彼らは卒業してしまう。
そうなっては、残るのは俺と紫水のみ。
こんな時に悠姫がいてくれたらどれだけ良かったことだろうかとは思うが、まあ、そんなことをいつまでもくよくよと嘆いていても仕方がないというもので。
「ああ、金村さんね.........」
篠原は少し声のトーンを落とし、残念そうにそう呟いた。俺に気を使って敢えて話題に出さなかったのだろうが、こいつと悠姫も去年は同じクラスだったし、色々と思うことはあるのだろう。
「まあ、何にせよ、地研はそんな感じだな。お前も今から入りたいってんなら歓迎するぞ?」
あまり湿っぽい話題を続けても心がしんどいので、俺は篠原をからかうようにしてそんなことを言った。彼はそんな俺の考えを読んだのか、たちまち明るい表情を取り戻し、「考えておくよ」とだけ返した。
「ホームルームを始めるぞ。席に着いて静かにしろー」
と、そんなことを話していると、いつの間にか担任の樋口が教室へと入ってきていた。見る見るうちに教室内は静寂に包まれ、場の空気は彼が完全に支配する。全く、最近還暦を迎えたと豪語していたのにも関わらず、生徒数十人の声に勝つなんて一体どんな身体をしているのだろうか。まあ、生徒たちが単純に早く帰りたいからと入り口に注意を向けていた可能性も否定することは出来ないが。
そして、その流れに乗るようにして俺も教卓の方へと身体を直し、ホームルームの始まりの合図である樋口の言葉を待った。