7−21 完璧にクロっぽい
知らぬ存ぜぬ、分かりません。
ヴァルクスは『グレゴール白書』への深入り度合いはブラックであるが、リュシアンとハシャド王の病気(毒)への関与度合いはブラック寄りのグレーである。裏事情は知っているものの、実行犯ではないのだ。毒の出所も、毒の生成方法も……はたまた、毒の投与も。ヴァルクスはいずれの「事件現場」にも出向いていないのだし、やったことと言えば、アルネラの逃亡を幇助した事くらい。
(アルネラの解放も、それなりの罪ではあるが……天使の関心事にはならないだろう。それに、アルネラはもう死んだ事になっている)
どうやら、フィステラの深魔は相当に暴れ回ったらしい。帝国城の貴族牢はほぼ全壊であったと聞くし、鉄格子が瓦礫の山と化した有様では、アルネラの存命を信じる方が無理というもの。アルネラが生きているなんて、誰も思わないに違いない。少なくとも、アルネラの行方(生死も含めて)は不明のままであるし、ヴァルクスの罪状に足がつくこともなかろう。
(多分、大丈夫……大丈夫だ。このまま押し通す……!)
よくよく考えれば、ハシャドの毒殺未遂について、ヴァルクスは手を汚していない。黒いリンゴをアルネラに横取りされる誤算はあったが、結果として彼女を実行犯へと仕立てられたのだから、ヴァルクスが容疑者として浮かぶこともないはずだ。
「そう。ヴァルクス様はリュシアンの病については、ご存知ありませんのね? まぁ……それも仕方がないことですわ。やはり時代が違うとなると、情報収集にも限界がありますわねぇ」
「お力になれず、申し訳ありません。『グレゴール白書』には私自身も目を通しましたが、現代の魔法技術では再現不可能な部分が散見されます。それに……魔力崩壊時に我がハルデオン家も、相当の魔法技術を失ったようでして。空白の300年を経た今となっては、『グレゴール白書』の内容を踏襲するのは難しい。リュシアンとハシャド王の毒については、私自身は思い当たることもないもので……」
空白の300年とは、魔力崩壊時……つまりは霊樹・ユグドラシルが焼失し、魔力が失われた時代の事である。
それまで魔力ありきで回っていた社会の仕組みが破綻し、人間界の魔法技術は一気に衰退していったが。当然ながら、魔法至上主義を掲げていたハルデオン家にとっても、この時代は完璧な逆境でしかない。歴史と資産だけはあったため、お家こそ潰さずに済んだものの。魔法技術の向上が望めるわけもなし、いくら筆頭公爵家と言えど、世界的な災害である魔力崩壊に敵うはずもなく。失われるものが多かった時代であった事については、ヴァルクスが言っている事は一応は正しい。
(とりあえずの模範解答で満足しそうだな。……フン。天使と言えど、この程度か。緊張して損したか)
ヴァルクスの差し障りない返答と態度に、ルエルも納得したように頷いている。この様子であれば、疑いは晴れないにしても、一旦は難を逃れたと考えて良い……はずだったが。
「それはそうと……ハーヴェン様。いかがでした? 何か気づいたことはございません?」
「うん、大アリだな。ヴァルクスさんの汗の匂いが変わった。さっきまで、相当に緊張していたし……何かを隠そうと、必死だったみたいだな」
何故、そんなことが分かる? 汗の匂いを嗅ぎ分けられるのも大概だが、どうしてヴァルクスが隠し事に必死だなんて、想像できてしまうのだろう。ただ黙って様子を窺っているだけと思っていた特殊祓魔師は、どうやら視線ではなく嗅覚をフル稼働させていた様子。尚も的確に、ヴァルクスの「内面の変化」について言及してくる。
「まず……リュシアンの話が出た時点で、ギュッと匂いが飛び出した。年代からしても、ヴァルクスさんがリュシアンをどうこうするのは不可能だろうが……ハルデオン家が何をしていたかはある程度、知っているみたいだな」
「な、何を根拠に、そんな事を……! 第一、汗の匂いを嗅ぎ分けるなんて、犬じゃあるまいし。できるはず……」
「いや? それができちゃうんだなぁ。俺はこう見えて、中身は狐の悪魔なんでね。汗の匂いを嗅ぎ分けるのは、得意中の得意なんだ」
ウコバク達程ではないが、本性にエルダーウコバクとしての姿を持つハーヴェンの嗅覚も、人間のそれとは比較にならない程に優れている。人の姿に化けている間は本領を発揮できないとは言え、すぐ近くにいる相手の汗の変化に気づくくらいは、造作もないことなのだった。
「それと微かだが、そっちのソファに甘ったるい香りが残っている。そんでもって、この匂いはフィステラさんの牢に残ってたのと、同じ香りだ。と、いう事で……ルエルさん。例の果物に関わっている時点で、ヴァルクスさんは完璧にクロっぽいぞ。こいつはキッチリ、追加の事情聴取が必要そうだな」
「……⁉︎」
ハーヴェンが示したソファはまさに、アルネラが黒いリンゴを貪り、手についた果汁を拭っていた曰く付きの逸品。由緒ある高級品でもあったため、一思いに処分できず、そのうちファブリックだけ交換しようとそのままにしていたのだが。まさか、クリーニングを後回しにしたせいで足が付くなんて……誰が予想できようか。
「ふふ……なるほど? ヴァルクス様は私相手に虚偽を申告されたと……そういう事で、合っておりますの?」
「い、いえッ! 滅相もありません! た、確かに、リュシアンの病には多少の心当たりはありますが。それも瑣末な内容でしたので……天使様のお耳に入れるにしても、お粗末かと。それに私は黒いリンゴなんぞ、知りませんし……」
「あれ? 俺は黒いリンゴだなんて、言ったっけ? 例の果物としか、言っていない気がするけど……なんで、ヴァルクスさんはこれが黒いリンゴの香りって、分かったんだ?」
「あっ……」
香りの発信源がソファだと指摘された時に、自然と浮かんだビジョンに引っ張られて。ヴァルクスは慌てついでに、うっかり口を滑らせてしまう。汗の匂いで虚を突かれてからというもの、今の今まで必死に保ってきた冷静の均衡が、ヴァルクスの中でガラガラと崩れていく。
「うふふ……面白くなってきたわね、キュラータ。折角ですから、この先の尋問はあなたに任せるわ。あぁ、もちろん遠慮はいらなくてよ? 私を欺こうとしたのですもの。……多少の手荒な真似も許可しましょう。その代わり、しっかりと情報を引き出しなさいな」
「かしこまりました、ルエル様。お任せください」
ルエルの命令を受け取って、鋭い強面に歪んだ笑みを浮かべるキュラータ。その悍ましい表情は、使命感に燃えているというよりは……嗜虐の塊でしかなく。ヴァルクスの汗を大量放出させるのに、何よりも効果的であった。




