6−51 ジョークで済めば、いいんですけどね
なんて、馬鹿なことをしたのでしょう。キュラータは漆黒魔人へと変貌を遂げたヴァルムートを見上げては、ため息を吐く。しかし、キュラータが「馬鹿なことをした」と思っているのは、ヴァルムートではない。こんなところで漆黒魔人を顕現させてしまった、グリフィシーの方だ。
「これがあなたの興に合っているというのであれば、余程の被虐嗜好をお持ちとお見受けしますね。……自らの首を絞めるだなんて、私には真似できませんよ」
「ふむ? それはキュラータ流のジョークですか? 強がりにしては、面白い事を言いますね?」
「……ジョークで済めば、いいんですけどね」
ため息混じりで、振り上げられる拳を易々と弾くキュラータ。ヴァルムートだった漆黒魔人は、漆黒の毛並みに真っ赤な角を生やした、見るからに「悪魔」だと誤解されそうな姿をしているが。グリフィシー仕込みの魔力が馴染みきっていないのか、言葉は忘れているようで……瞳に知性の輝きこそあれど、今はただただ暴れるのが楽しいらしい。
「そもそも、誰がヴァルムート公に手出しができない、ですって? 安易な希望的観測は、捨てた方が賢明ですよ」
振り下ろされる拳を弾くのも飽きたと、ヒョイとヴァルムートの攻撃を避けたと同時に、キュラータは彼の右肩に強烈な一打を振り下ろす。そうして、グシャリと肉と骨が砕ける音が響いたかと思えば、間髪入れずに苦悶の咆哮が上がった。
「グッ……ギャァァァッ⁉︎ フッ、フシュ……! フシュッ……⁉︎」
「なっ、何をするのです、キュラータ! ヴァルムート様はクージェの……」
「次期帝王候補、でしたか? それがどうしたと言うのです。私にとって、ヴァルムート公はいなくてもいい存在なのですよ。まぁ、このまま進めばご主人様を悲しませるかもしれないので、善処は致しますが。最終的にあなた達の手に渡らなければ、問題ありません」
「何ですって……?」
キュラータのドライな返答に、いよいよたじろぐグリフィシー。右腕を庇い、悶絶するばかりで使い物にならないヴァルムートを横目に、迫り来るキュラータ相手にカタカタと情けなく震え出す。そんな「元同僚」の姿に、滑稽でお粗末過ぎると……キュラータは尚も侮蔑の双眸を向けていた。
「第一……人間界に漆黒魔人を連れ出したら、どうなるか想像できなかったのですか? グリプトン様でさえ、シャルレットのトレーニングは秘密裏にやっていたでしょうに」
「……あっ」
キュラータの指摘に、ようやくグリフィシーも「重要な事」を思い出した様子。そうして、今度は別の恐怖を想像してはガタガタと震え出した。
野心家のグリプトンは殊の外、自分が擁する精霊の先祖返り……シャルレットの完成を急いでいたが。彼女はなまじ人間だったという事もあり、すぐにグラディウスの箱庭に連れてくることもできなかったらしい。それが故に、人間界に留め置いたままリンゴを与え続けていたのだし、彼女が瘴気に適応し、漆黒魔人として覚醒するまで辛抱強く待ってもいた。それもこれも、人間界で漆黒魔人含む深魔が発生した場合、即刻討伐対象になってしまうからであり、特殊祓魔師も厄介ではあるが……何より、天使達の降臨を避けるために尽きる。
……それでなくとも、天使は凶暴だ。機神族の装甲を素手で突破する猛者もいると聞くし、現にキュラータは天使に敗北したから、彼女達の軍門に降ったとされている。「グラディウスの花」から生み出された魔法生命体の中で、最も堅牢な防御力を誇るキュラータをしても、彼女達の猛攻に耐えきれなかったのだから……いわゆる「紙耐久」のグリフィシーなんぞ、あっという間にスクラップにされてしまうだろう。
……と、まぁ。「キュラータの敗北」については、グリフィシーの想像と曲解も大いに混ざっているものの。モーヴエッジがルエルに足を砕かれたのは事実であるし、ルシエルにスクラップにされかけたのも事実だ。天使達の所業は決して甘くないし、敵だと判断(誤認含む)されたらば、慈悲を乞う間もなく木っ端微塵である。
「さて……と。いずれにしても、彼女達がやってくる前に片付けてしまいますかね。深魔が観測対象になっているとは言え、天使様達も即座に対応できる程、お暇ではないでしょうし」
折角ですから、あなたの被虐嗜好も存分に満たして差し上げましょう。
キュラータはこの上なく、お上品にニコリと微笑むが。躊躇いもなく、グリフィシーの脇腹へと強烈な一撃を繰り出し、今度はニヤリと嘲笑を浮かべていた。そうされて……グリフィシーはたったの一撃で、肋と一緒に余裕もへし折られてしまった模様。苦し紛れの呼吸と一緒に、諦めの言葉を吐く。
「カハッ……! しっ、仕方ありません……! ここは一旦、撤退させていただきます!」
「ハフッ⁉︎」
言葉は発せずとも、言葉の意味は分かるらしい。グリフィシーが慌てて撤退していくのに、「置いていかないで」と言いたげに、ヴァルムートが手を伸ばすが。あいにくと、今のグリフィシーに持ち前の魔法回路を拡張する余裕はない。1人分の魔力を素早く練って、ヴァルムートを置き去りにして敵前逃亡をしでかした。
「おやおや。相変わらず、自分勝手なのですね……グリフィシーは。あぁ、大丈夫ですよ、ヴァルムート公。毒さえ除けば、元の姿に戻れるでしょうし……腕はルエル様にお願いすれば、間に合うでしょうから」
自ら潰してしまった右腕にも、とりあえずの配慮を示し。キュラータは置いてけぼりのヴァルムートへと、素手を伸ばす。黒いグローブを外し、短く整えられた葵色の爪を彼の額にそっと充てて……グリフィシーが投与した毒を吸い上げれば。魔人としての原動力も吸い尽くされ、ヴァルムートは辛うじて、人間の姿へと逆戻りしていた。
「うあっ! い、痛い……! 痛い……!」
「……少し、やり過ぎてしまいましたか。申し訳ありませんでしたね、ヴァルムート公。ですが……ご心配なさらずとも、ルエル様の元までは責任を持ってお運び致します。しばし、ご辛抱を」
再びグローブをはめた手で軽々とヴァルムートを抱き上げて、キュラータはスタスタと歩き始める。しかし、ヴァルムートの内心が燻り、憎悪に満ちている事に……彼に無関心なキュラータは、気づけないままだった。




