6−42 神に祝福された人間
自室に戻るなり……ヴァルムートはとうとう涙を堪え切れず、孤独に泣いていた。今の彼の側には、頭を撫でてくれる立派な父親もいなければ、温かい言葉で慰めてくれる母親もいない。きっと、両親だけはヴァルムートの魔力適性が乏しかったとしても、変わらず接してはくれるだろう。だが……ヴァルムート側にはもう、彼らに今までと同じように接する自信はなかった。
(そう、か。俺も……一応は父上似だったんだな……)
ふと涙で揺らぐ視線を上げれば、姿見の中の自分と目が合う。急激に体格が変わったため、ダボダボになった着衣はこの上なくだらしないが、シュッと引き締まった顔立ちは、紛れもなく父王・ハシャドによく似ている。そして……よくよく見つめれば、憎たらしいフレアムにもそっくりで。そんなことにまで気づいてしまって、ヴァルムートはますます絶望を深くしていった。
顔貌が似ているだけなら、いざ知らず。フレアムにはヴァルムートとは異なり、自前の魔力適性まで備わっている。これまでのわがままボディが良かったかと言えば、そうではないだろうけれど。顔もそっくりで、同い年の皇子ともなれば……当然ながら、多くの才を持つ方が帝王に選ばれるに決まっている。
(最強の帝王にもなれない、最高の魔術師にもなれない。……俺は一体、何になれたと言うのだろう)
畜魔症のメッキが剥がれてしまったヴァルムートは、魔力が抜け落ちた「魔術師の出涸らし」であるし、皇子としても「次期皇帝の出涸らし」にしかなり得ない。そこまで自覚して、またもさめざめと涙を流す。これまで威張り散らして、横柄に振る舞ってきたのが……あまりにも滑稽で。馬鹿みたいだと自嘲したらば、今度は涙だけではなく、笑いも止まらない。
「そこまで悲嘆されなくとも良いのですよ、ヴァルムート様。あなたは選ばれし者なのですから」
「だ、誰だ……?」
存分に泣き、笑い、嘆き悲しんで。一通りの感情を噴き出したヴァルムートの耳に、厳かな声がかけられる。さっきまで、誰もいなかったはずなのに。慌ててヴァルムートが周囲を見渡せば……どこかで見た気がするような、ないような。彼の目前に忽然と現れたのは、朧げな既視感が滲み出る執事らしき男だった。
「申し遅れました。私の事はグリフィシーとお呼びください、マスター」
「グリフィシーに……マスターだって? それ、俺の事か……? それに選ばれし者って、どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ、マスター。あなたは神の贈り物に適合された、眷属候補の1人なのです」
「眷属候補……?」
ついさっきまで感情の起伏任せに泣いていたヴァルムートに、突拍子のない話の裏まで理解できるはずもなし。しかして、グリフィシーと名乗った執事は瞳の色こそ違えど……ようよう、彼の佇まいがキュラータのそれに近いことを思い出すヴァルムート。
(こいつ、あの執事の仲間か? だとすると……こいつも、天使の仲間という事になるか?)
キュラータの内情を知らないヴァルムートが、雰囲気の似ているキュラータとグリフィシーを「同じ天使の仲間」だと思い込むのは、無理からぬ事ではあるが。だが、この誤解が更に残酷な現実を呼び込もうなぞとは……一縷の希望を見つけたヴァルムートに、予想できるはずもなかった。
(そうか……! 俺は、選ばれし者……ディアメロと同じという事か!)
それでなくとも、ヴァルムートもうっすらと話は聞いているし、知ってもいる。認めたくないが、田舎と侮っていたローヴェルズの王族が「女神の血筋」を継承する、「選ばれし者」であったこと。そして、彼らの血筋はまだまだ健在であるということを……「サイラック家没落」の醜聞と一緒に運ばれてきた噂話で、それとなく聞き齧ってもいた。
(そう言えば。ディアメロは魔力を封印されているだけで、魔力を再獲得できるかも知れないって、言ってたな。だとすると……こいつは俺も一緒だと言いたいのか? 俺も神に祝福された人間だと……!)
結局のところ、ヴァルムートは生まれつき横柄な人間であった。彼の慢心による誤解が、滑稽な優越感に挿げ変わる時。ヴァルムートの中に傲慢の息が吹き返しては、興奮と高揚とを齎らし始める。
「さぁ、お手をどうぞ、マスター。ヴァルクス公がお待ちです」
「伯父上が……?」
だが……嬉々として、差し出された手に応じようとした刹那。執事が差し出す黒革の掌に、手を預けようとしたヴァルムートの眉がピクリと跳ねた。
「……どうされました?」
「伯父上が俺を待っているはず、ないだろう。……俺は彼に嫌われているからな」
意外な登場人物……彼の伯父であるハルデオン家当主・ヴァルクスの名を聞いた瞬間、ヴァルムートの上機嫌に忽ち暗雲が立ち込める。
それもそのはず、ヴァルヴァネッサの兄でもあるヴァルクスは、ハルデオン公爵家当主であるが……かつての帝位争いで、ハシャド王に敗れた男でもある。その息子・ヴァルムートに敵意を隠そうともしないし、親しい相手とは言い難い。
「あぁ、その事でしたか。大丈夫ですよ。ヴァルクス公はどうやら、今までの行いを悔いているようでして。私の上司……リキュラ経由ではありますが、是非にマスターに謝罪したいとお話があったとか」
「そうなのか?」
躊躇いを見せるヴァルムートの手を、グリフィシーの指先が強引に掴めば。黒革からキュッと小気味よい音が鳴る。キュラータがしていたのと同じ趣きのグローブは、ツヤツヤと怪しい光沢を放っていて……きっと相当に、分厚いのだろう。指の関節で圧迫されるたびに音を鳴らす様は、ヴァルムートにはどことなく苦しげにも聞こえた。
「……」
確かに、この男は「あの従者」と同じ空気を纏っている。慇懃丁寧な態度に不足もないし、彼の言葉はどれも魅力的だ。それなのに……。
(本当にこいつは……あの天使の従者なのだろうか?)
微かだが、違う気がすると……ヴァルムートに残された警戒心が、頻りに訴えかけてくる。きっとこの手を握り返したらば、後悔する……と。
「何を躊躇っておいでです? 私と一緒に来れば……もう一度、魔力を取り戻すことができますよ。しかも病気に頼らない、素晴らしい方法で」
「それ、本当か? 俺はまた……最高の魔術師を目指せるようになるのか?」
「えぇ、もちろん。ですから……さ。迷わず、私と共に参りましょう」
「……そうだな。俺は最高の魔術師であり……最強の帝王になる男だ。この程度で立ち止まるわけにはいかない」
どんなに些細であろうとも、折角の正しい違和感を抱けたというのに。魔力の再獲得という甘い夢を前に、ヴァルムートの警戒心は強引に晴らされてしまう。そうして、今度は自分から積極的に手を預け……ヴァルムートは新しく手に入れた従者に、嬉々として連れられていった。
【登場人物紹介】
・グリフィシー(水属性/闇属性)
霊樹・グラディウスが生み出した魔法生命体。リキュラの次に作られた、深淵なる者の1人。
魔法生命体としての正式名称はアズールエッジ、「瑠璃色の淵」の意。
モーヴエッジ・キュラータと同じく爪に毒を持つため、常にグローブをしている。
得意武器はボウガン。戦闘時には自慢の毒を鏃へと仕込み、後方からターゲットを仕留めることを得意としており、その戦闘スタイルが故に前線には積極的に出てこない。
リキュラの部下として、彼に従っているが……あまり忠誠心はない様子。
・ヴァルクス・ハルデオン(炎属性)
クージェ第一王妃・ヴァルヴァネッサの実兄であり、ハルデオン家・現当主。40歳。
魔法重視のハルデオン家にあって、同家最強と名高い魔術師であるが、帝位争いで紙一重の差でハシャドに負けており、未だに帝位に固執している。
そのためか、ハシャド王を慕っているヴァルヴァネッサや、彼らの息子であるヴァルムートを快く思っておらず、並々ならぬ敵愾心を抱いている。




