6−30 欲しかったのは、こんな自由じゃない
ここはグラディウスの箱庭。視界の全てが黒く、時折怪しげな虹彩が浮かぶ、温かい世界とは隔絶された異空間。
そんな異空間の真っ黒な道なき道を進むのは、景色に埋没してしまいそうな黒い狼の魔物。それはか細く、見窄らしく……毛並みもバサバサで、余命幾ばくもない事を予感させる。それでも、その金色の瞳は煌々と輝き、まだ生きる事を諦めてはいない。
(これはグラディウス様の思し召しなのか……或いは、リキュラ様の差金か? まぁ、いいや。……いずれにしても、俺ができることは変わらない)
いつもながらに、ナルシェラは優しい。囚われの身だというのに、気丈に振る舞い、メローを気遣ってさえくれる。しかし……美しい紺碧の瞳が哀しげに揺れるたびに、彼は元の世界に帰りたいのだと理解できてしまうのが、メローには何よりも寂しく映った。
(以前の俺だったら、こんな思いをしなくても済んだんだろうか……)
以前のメロー。それは人間を蔑み、憎み……面白半分に牙を鳴らす、狡猾な狼の化け物。不完全でありながら、自由になるという目標を胸に、ようよう人の姿へ化けられるようになったが。人の姿を得た途端、今度は恋焦がれていたはずの「自由」が何だったのかを見失う始末。
(違う……俺が欲しかったのは、こんな自由じゃない)
流されるままに、命令通りに動けば楽だと思い込んでいた。
創造主はいつだって正しいと思い込めば、自分は悪くないと傷付かずに済んだ。
だけど……彼の言いなりになる事が、自分の求めていた「自由」ではない事にも、気づいてしまった。メローはナルシェラと言葉を交わす度に、どんどんとグラディウスから心が離れて行く事に怯えつつも……彼への反抗が自由の証にも思えて。恐怖も突き抜ければ、ただひたすら心地いい。
「おい、メロー! いい加減、目を覚ませよ……!」
「……俺の目はとっくに覚めてるよ、ガラ。おかしな事を言うんだな」
いつも通りに王子様にお茶とおしゃべりを提供して、「巣穴」に戻ってくれば。メローの様子に何かを察知したのか、ガラが心配そうな声を上げる。そんな相方が言いたい事も、強引に無視して……メローは器用に体を丸めると、自分の鼻先を腹の下に滑り込ませた。
その瞬間に鼻をツンと突くのは、リンゴの爽やかな香りにかすかに混じった腐敗臭。どうやら、この体はめでたく発酵が進んでいるらしい。そうして、メローは自分に残されている時間が少ないことも悟っては、覚悟を決める。見限られて、林檎に戻される前に。自分が、彼にできる事は……。
「なぁ、もう……あの王子様に構うのは、止めろって。このままじゃ……」
「……分かってる。俺の方が餌にされるって、言いたいんだろ」
器としてのナルシェラを欲しているグラディウスにとって、メローの行動は命令から逸脱していると捉えられても、おかしくない。何せ、ナルシェラはメローとの交流こそを心の支えとし、未だに人間である事を諦めておらず、グラディウスの精霊になり切ることを拒んでいる。そして……メローは薄々、気づいてもいるのだ。きっと、グラディウスの神やリキュラは、自分を使う事によってナルシェラの心をへし折ろうとしていることも。
「……俺はどの道、もう助からない。それに、今の生活に飽き飽きしてもいてさ。このまま……ずっと、このまま。神様達の顔色を窺って、その日暮らしの自由をせがむのにも疲れたよ」
自由になるんだ。そして、温かい人間界で「また」暮らすんだ。
メローやガラに、魂の出所は知らされていないけれど。人間界の景色はどこか、懐かしくて。よそよそしいグラディウスの箱庭よりも、人間界の方がよっぽど生身の自分を感じられた。その事に……ひょっとしたら自分達は元は人間だったのではないかと、メローは考えてしまうけれど。それを確かめる術も猶予も、もうなさそうだ。
「そう、か。でも、具体的にどうするんだ?」
「どうするって……そんな事、話すつもりはないよ。……ガラは今まで通り、自由に過ごせばいいじゃん」
「……お前、さ。俺の事、見くびってるだろ」
「見くびるって、どういう意味だ? 別に、今のはそういう意味じゃ……」
「相棒が死んじまうって時に、ただ側で見てるだけで俺が満足できると、思ってるワケ? 折角だ。……相棒のよしみで、協力してやるよ。帰してやりたいんだろ? あの王子様を……人間界に」
相棒の意外な申し出に、金色の瞳を丸くしてしまうメローだったが。ガラの真っ赤な瞳には、嘘も曇りもない事に気づいて……小さく「ごめん」と呟く。
「実は、王子様の所にセドリックも遊びに来ているらしくて。あいつ……王子様に自慢しているんだよ。自分はいつでも人間界に出れるんだって」
「へぇ……そりゃまた、大きく出たな、セドリックも。……あいつ、人間界に出れる魔法使えたっけ?」
「いや、使えないだろうな。……あいつはまだ、デミエレメントだったはず。祝詞がないんだから、ポインテッドポータルは使えない」
「……なんだ、嘘っぱちかぁ。今の話で、てっきりセドリックを利用するのかと思ったぜ」
「……」
ガラは何気なくベロリと舌を出しつつ、爪の先で器用に顎を掻く。しかし一方で……意味ありげにメローが黙り込むものだから、舌を引っ込めつつ、心配そうにメローの瞳を覗き込んだ。
「えっと、どうした? メロー」
「セドリックを利用するのは、合ってるんだ」
「へっ?」
「あいつは確かに、人間界に出る魔法は使えない。だけど、人間界に出られる方法は知っていると思う。だから……」
「あっ、そういう事か。あいつをボコって、方法を聞き出すんだな? でも、あいつ……意外と強いみたいだぜ? 大丈夫か?」
確かに、その通り。いくらデミエレメントとは言え……セドリックはそれなりに優秀な魔術師でもある。いくらメローとガラが化け物であったとしても、易々と従えられるとは思えないが……。
「いや、そうじゃなくて。あいつに道案内をさせようと思って。どうやら、セドリックもなんだかんだで、苦労しているっぽくてさ。グラディウスの魔力に馴染めなくて、苦しそうにしてるって……ナルシェラ様、心配してた」
「ホント、あの王子様はおめでたいな。……何がどうなったら、そんなに呑気でいられるんだか」
あの王子様は、呆れる程にお人好しらしい。セドリックはおそらく、ナルシェラにマウントを取りたくてちょっかいを出しているのだろうが。当のナルシェラは嫌味に気づかないばかりか、逆に心配する余裕まで見せている。その事がセドリックには面白くないようだが……それでも、構い続けているのを見るに、ナルシェラの事が気になって仕方がない様子。
「だから、一緒に人間界に逃げよう……って言えば、協力してくれるかも」
「でも、協力してくれなかった時は?」
「その時は最終手段。……ダメもとで締め上げる」
「……だったら、最初から締め上げた方が良くね?」
「それはそうなんだけど。できれば、平和にやりたいんだよ。……ナルシェラ様、暴力沙汰は嫌がりそうだし」
「……逃げようって時点で、平和は無理な気がするけど。ま……やれるようにやるしかないか」
俺も、この生活に飽き飽きしていたし……なーんて、軽く言って見せるものの。ガラにしてみれば、ナルシェラもセドリックもどうでもいい。しかしながら、相棒がいなくなるのだけは絶対に避けたい。それに……。
(リキュラ様の鼻をへし折るいい機会かも。散々、俺達を馬鹿にしてこき使ってくれたんだ。最後に顔にたっぷり泥を塗ってやるのも、悪くない)
リキュラは意外と、人望に薄い。自分を特別視するあまり、部下の心情に理解を示せなかったことが痛恨のミスになるなんて。……自信家の彼には、思いも寄らぬことに違いない。
「それで、いつやるんだ?」
「……どうやら、リキュラ様が近々出かける日があるみたいでな。その日を狙う」
「リキュラ様が出かける……あぁ! 例の帝国の話か」
「そう、それそれ。なんでも、リンゴを与えても深魔にならない奴がいるとかで……直々に見に行くんだってさ」
グラディウスのリンゴに耐えられるなんて、どんな奴なのだろう。リキュラが興味を示した相手が、気にはなるが。いずれにしても、彼の不在こそが最大のチャンス。何もかもがギリギリのメロー達にとって、リキュラの不在は願ってもない好機であった。




