6−16 平凡な王子の望み
真っ暗な世界に攫われてから、何日経ったのだろう?
ナルシェラを包み込む世界は深い闇に覆われ、やっぱり朝という概念はないらしい。しかも……不思議と腹が減らないことに気づいて、ナルシェラはただただ焦っていた。
(まさか、この模様のせいなのか……?)
手首をグルリと彩る、美しい蔦模様。だが、それは……他の人間から奪ったとされる、魔力適性の烙印。脈々とナルシェラの孤独と後悔とを吸い上げ、嬉々として血という血に興奮を巡らせる。
(何故だろう……空腹もない、眠気もない……。あるのは、ただただこの血が踊るような刺激だけ……)
メローが甲斐甲斐しく淹れてくれるお茶以外は、口にしていないというのに。腹は空くどころかズシリと重く、十二分に満たされ過ぎている。そして、身体中の血液がトクトクと流れるたびに仄かな快感が駆け巡り、満たされていく事に……ナルシェラは恍惚になると同時に、人間らしさを失っている気もして。ひどく怯えていた。
(僕は……どうなってしまうんだ? グランティアズ城に帰れるのだろうか……)
ナルシェラの違和感は、彼がデミエレメントへと昇華した証ではあるが……下手に悪魔の血を引いていたのが、却ってよかったのだろう。今まで封印されていた魔力の受け口をこじ開けられ、ナルシェラの血は確かにグラディウスの魔力に呼応し始めている。しかし、悪魔の血が持ち得る瘴気耐性により、精神はまだ蹂躙されることもなく。体の端々に変調こそあれ、ナルシェラはナルシェラのままだった。
(……意外と厄介ですね、女神の血筋というのは。メローへの反応を見ていても……彼はまだ、しっかりと人間らしさを保っているようです)
花畑にポツンと置かれたソファの上で、虚空を見上げるナルシェラ。そんな彼を訝しげに眺めているのは、メローではなく……リキュラである。メローばかりに懐かれても困ると、今日のリキュラは彼のお役目を取り上げ、代役を強行しているが。ナルシェラはメローのお茶は疑いもなく口にするのに、リキュラが淹れたお茶は「お腹がいっぱいなので」と、やんわりと拒絶してくるではないか。
「せっかく淹れてもらったのに、すまないね」
「……別に構いませんよ。腹が満たされているのは、事実でしょうから」
「そう、か。やはり、この満腹は気のせいではないのだね?」
しかも、何気ない答えに鋭い質問を重ねてくるナルシェラに、リキュラの細い眉がピクリと跳ねる。
(なるほど。この王子は……自分が人ならざる者になりつつあるのも、気づいておいでか。しかし、その割には、変化が薄いですね……)
血の記憶は刻々と書き換えられつつあるのに、彼の反応からしても、ナルシェラは自我を保っていると確信を深めては……リキュラはフゥムと思案げに、顎に手をやる。
空腹を感じないとなると、ナルシェラはデミエレメントの領域に足を踏み込んでいると見ていいだろう。それなのに、彼は自分という存在をしっかりと保持している。同じようにグラディウスの魔力を受けたセドリックはすぐさま、外観さえも精霊のそれへと変貌させ、精神の弱さも露呈させたというのに。
(王子ともなれば、心構えも違う……ということでしょうか。まさか、ここまでしぶといとは……この誤算は非常に手痛い)
リキュラとって、ナルシェラという存在は「情けない王族」としか、記憶に残っていない。だからこそ、メローがナルシェラに「入れ揚げる」のも理解できなかったし、どうせすぐにグラディウスの前に陥落するとばかり、思っていたが。……意外や意外。ナルシェラは王族としての確固たる自我を持ち得ており、まだまだ魂も精神も人間界に固執している。
しかも、ナルシェラは周囲の機微に非常に敏感な上に、些細な事にもよく気づいてくる。そして、そこから的確な予想を立てては、しっかりと情報を引き出そうとしてくるのだから、油断ならない。やはり、ガラファド親娘の勝手なナルシェラ評は鵜呑みにするべきではなかったと、リキュラはこっそりと臍を噬んでいた。
「……あなたはグラディウスの精霊になりつつあるのですよ。この世界の魔力を取り込み、栄養として消化できるようになったので、食事を段々と必要としなくなっているのです。非常に喜ばしいことではありませんか。このまましっかりと馴染めば……食事などと言う、面倒な生活様式から解放されるのですよ?」
「そうか。でも、僕は……どんなに面倒なことに振り回されてでも、人間でいたいかな。人として真っ当に生き、人として自然に死んでいく。永遠なぞ望まないし、過大な権力もいらない。ただただ平和な国を築き、ただただ平穏な日常を送る。それが平凡な王子の望みだよ、リキュラ殿」
「……」
非常に気に入らない。全くもって、気に入らない。
力なく微笑むナルシェラの答えに、リキュラはさも面白くないと口元を歪める。態度は柔らかでありながら、ナルシェラのグラディウスに対する拒絶は非常に強固だ。折角、魔力の通り道を作ってやったのに……ナルシェラの肉体は魔力を受け入れこそすれ、グラディウスに馴染む事を頑なに否定してみせる。
(……そういうことですか。この王子は……まだ人間でいることを諦めていないのですね)
身近な実例……セドリックとの鮮やかな違いを思い描いては、リキュラは1つの予測に至る。
セドリックは人間という種族に限界を感じ、人間を超越した存在になりたいと願ったが。一方、ナルシェラは人間という種族に愛着を持ち、人間としてあり続けたいと望んでいる。そして、その人間でありたいという願望がナルシェラの変容を食い止め、神の依代を用意するというリキュラの理想を拒んでいるのだ。
「いずれにしても、私のお茶はお気に召さないようですね。次はいつも通り、メローを寄越しますよ」
「あぁ、決してそういう訳ではないのだけど……。気分を害されたようだったら、すまない事をした」
「お気になさらず。今日はあなた様のお加減を確認しに来ただけですし……あくまで、お茶はついでですから」
リキュラの反応に、ナルシェラは困った顔をしたが……すぐさま、少しばかり安心した表情を見せると、素直に頷く。そんな彼に……丁寧に礼をしては、リキュラもそれなりの態度を示すが。腹の内では、静かに残酷な妙案を思い浮かべていた。
(クク……いいでしょう、いいでしょう。あなたの望み通り、お茶はアレに用意させましょう。そして……その陳腐な精神でしっかりと、心ゆくまで味わっていただくとしましょうか)
そう……とびっきり新鮮な、アップルティーをね。
飲みたくないのなら、飲まずにはいられないお茶を用意すればいい。輝く望みがあるのなら、真っ黒に塗り潰してしまえばいい。純真無垢な王子の希望がへし折れる音は、どんなに心地よい響きであろうかと想像しては……リキュラは丁寧に頭を下げつつも、口元では黒い笑みを浮かべずにはいられない。




