5−53 元気があってよろしゅうございますね
(生きて……いる?)
弧を描く白い軌跡が瞼の裏にこびりついた、その刹那。カテドナは死さえも覚悟していたが……何故か、本物の死神が彼女を迎えに来る様子はない。そうして何が起こったのかと、カテドナが瞼を上げれば。彼女の前には、優雅な佇まいの老紳士が立っていた。
「ロイスヤード様!」
「お怪我はありませんか、カテドナ」
「はい、問題ございません」
「ホッホ、それは何よりです」
見れば、老紳士・ロイスヤードはミーシャの鎌を易々と左手で受け止めており、右腕は腰に回したまま、ピシリと正した背筋さえ微動だにしない。その完璧な佇まいに……バトラー階級のアドラメレクは伊達ではないと、カテドナは安心と同時に、恐れ慄く。
「あぁ、間に合って、良かったです……!」
「お陰様で。そう……あなたが呼んでくれたのですね、ヒスイヒメ」
「はい!」
ロイスヤードの背後で、頭上から降ってきたヒスイヒメを受け止めて。彼女の仕事ぶりはやはり優秀だと、カテドナはヒスイヒメに微笑み返す。
いくら大天使もどきと言えど、上級悪魔2名を相手にするのは厳しい。しかも、颯爽と現れたロイスヤードはアドラメレクの中でも別格の存在だ。……ミーシャには勝ち筋どころか、勝ち目すら残っていないに違いない。
(まさか、ロイスヤード様が直々にいらっしゃるなんて。ヒスイヒメは随分な大物を引っ張ってきましたね……)
アドラメレクは全員使用人の姿を取りこそすれ、漏れなく上級悪魔である。しかしながら、統率にこだわるサタン(正しくは家令)の指示の元、厳密には4種類の役職に分かれているのだ。
女性使用人はメイド長も含め「アドラメレク・メイド」であり、総じて全員が高水準の能力を持ち得ている。一方で、男性使用人は3種類存在し、家令「ハウス・スチュワード」、執事「バトラー」、従僕「フットマン」と振り分けられており、実力に相当の開きがあるのが現状だ。なお、メイドはフットマンよりも上の立ち位置である。
(ロイスヤード様は、中でも最も家令に近いお方。ここは無駄に助太刀しない方が、いいでしょう。……私が出て行ったところで、足手纏いになりかねません)
アドラメレクの長であり、憤怒の悪魔内でも「ナンバー2」と称されるのは、ハウス・スチュワードのヤーティ。そして、ヤーティの補佐役として3名のアドラメレク・バトラーが存在しており、カテドナの窮地に駆けつけたロイスヤードは、そのバトラー階級のアドラメレクである。
このハウス・スチュワードとバトラーは、アドラメレクの中でも相当な古株であると同時に……軍として組織された際には、指揮官として采配を振るう。故に、今回の作戦でもロイスヤードはアドラメレクの指揮官として呼ばれていたのだが。まさか、その指揮官自身がやってくるなんて。……カテドナにしてみれば、想定外でしかない。
「邪魔するな、ジジイッ!」
「元気があってよろしゅうございますね、お嬢さん。しかし、その言葉遣いはいただけませんな?」
どれ、少し躾が必要でしょうか……と、ロイスヤードは柔和に微笑むが。柔らかな態度とは裏腹に、ロイスヤードは一瞬、鋭い視線を見せる。そうして……次の瞬間。ミーシャの鎌に強烈な衝動が走ったと同時に、鈍い破壊音が響いた。
「う、嘘、でしょ……! 私達の三日月が……!」
「いけませんよ? 扱いを心得ていないのに、子供が刃物を振り回しては。あまりに物騒な得物でしたので……少し、鋒を丸めさせて頂きました」
いやいや、少しどころではないだろう。見れば、たったの一撃でミーシャの鎌は無惨にも刃を削がれ、持ち手を残すのみとなっているではないか。これでは……武器としての利用は、ほぼ不可能だ。
(これは……ロイスヤード様はまだまだ本気どころか、3割も実力を出していませんね……。バトラーともなれば、強さも異次元です)
魔法を使わずとも、鮮やかに武器を破壊せしめる剛腕。同じ相手に攻撃の隙さえ許されなかった自分とは大違いだと、カテドナはこっそりと歯噛みするが。しかして、一方のロイスヤードはミーシャに興味を示したのか……思いがけない事を口にした。
「しかし、ふぅむ……ご容貌といい、翼といい。お嬢さんはもしかして、大天使・ミシェル様のご親戚でしたか?」
「あんた、ミシェルを知ってるのね……?」
「えぇ、もちろん。大天使様には一通り、お目通り頂いていますよ。ミシェル様は特に親しみ易く、非常に愉快なお方だったと記憶しておりますが」
嬉しそうに応じるロイスヤードの一方で、またも怒りの形相に逆戻りするミーシャ。彼女の呼吸が荒く、浅くなっているのを見ても……どうやら、ミーシャにとってミシェルは親近感のある相手ではなさそうだ。
「……許せない」
「おや?」
「許せない……! 私達を差し置いて、愉快に振る舞うなんて……許せないッ!」
「よく分かりませんが……事情がおありのようですね。ふむ。仕方ありません……」
使い物にならなくなった大鎌を、忌々しげに放り投げ。怒り狂うミーシャの姿が、またも変化し始める。モゴモゴと赤い翼が一枚、一枚、逆立ったかと思えば……収縮と拡散とを繰り返し。彼女のカタチは定まる方向を見失い、もがき始めた。
「……カテドナ。あなたは当初の予定通り、ナルシェラ様の行方を探しなさい。……皆さんを連れて、ここから離れるのです」
「かしこまりました。ところで……」
「あぁ、ご心配なく。お子様相手に遅れを取るほど、耄碌していませんよ。……これは躾のし甲斐もありそうですな」
若さとは、蛮勇であると同時に、希望にも満ちている。怒りも、焦りも……全てが初々しく、歯痒く、そして尊い。
ロイスヤードは口元でそんなことを嘯きつつ、若人に負けじと本性を顕にするが。
「……そうそう、カテドナ。アケーディア様へ伝令をお願いします。人間界で大天使らしき相手に遭遇したと、彼女の特徴を添えてご報告を」
「ハッ。承知しました」
そうして、ミーシャよりも変調を完了させたロイスヤードは純白の孔雀姿。優美かつ、上品な佇まいで視線だけを寄越しつつ……カテドナに続いて、ヒスイヒメにもお願いを託してくる。
「それと、ヒスイヒメさん」
「はっ、はい!」
「ウコバクのウルシマル君に、一通り周辺の者に声をかけるようお願いしてあります。もし、彼らの匂いを感じ取ったらば、お迎えに出てあげてください」
「かしこまりましたっ!」
ヒスイヒメの元気な返事を受け取り、クツクツと嬉しそうに笑うロイスヤードであったが。すぐさま、変化が収束した相手を見つめては……彼女の悲壮な姿に、白髪にも見える眉根に皺を寄せた。
「……もがいた結果が、この姿ですか。果てなく、お労しい事ですな」
「ロイスヤード様、これは……?」
上級悪魔さえもたじろがせる程に、邪悪でおどろおどろしい姿。ミーシャは上半身こそ、先程のままだが。臍下からは漆黒の鱗に覆われた人の足が何本も無造作に飛び出し、うぞうぞと蠢いている。触手ですらないそれは、しっかりと骨格が通った硬い動きをしている反面……本来は曲がらない方向へグネグネと蛇行しているのだから、不気味なことこの上ない。
「さぁ。私にも、彼女が何になろうとしたのかは、分かりません。ですが……我ら以上に、このお嬢さんは悲痛な憤怒を抱えておいでのようだ。ここまでの狂おしい怒りは……サタン様以外にあり得ないと、思っていたのですがね」
とにかく、ここから先は私に任せなさい。さぁ、急いで。
ロイスヤードはカテドナに目配せをし、先を急げと指示を出しつつ。アドラメレクの鉄壁と愛用のハルバードを呼び出し、構える。
「さて……本気でかかっていらっしゃい、お嬢さん。裏切られた怒りは、この老体もよく存じておりますよ。ですから……その怒り、余す事なく受け止めて進ぜましょう」
【登場人物紹介】
・ロイスヤード(地属性/闇属性)
憤怒の上級悪魔・アドラメレクを本性に持つ、由緒正しい佇まいの老執事。
アドラメレク・バトラー階級に属しており、柔らかな物腰とは裏腹に、魔界でも指折りの実力者である。
人間に化けている際はかなりの老体に見えるが、アドラメレクの鉄壁を標準的に使いこなすのはもちろん、ハルバードによる中近距離戦を得意としており、外観で侮ると痛い目に遭う事は必至。
なお、何かとヤーティに凹まされがちなサタンを慰めていることも多く、孫さながらに接しているとか。
・ヤーティ(地属性/闇属性)
憤怒の上級悪魔・アドラメレクを本性に持ち、サタンの補佐・憤怒の軍勢の統括を担う、憤怒のナンバー2。
魔界ではサタンを差し置いて「こちらが憤怒の真祖なのでは?」と噂されており、怒らせると最も恐ろしい悪魔とも言われている。
特に、ヤーティがサタンによく課している「お説教の刑」は、魔界中でも「最も受けたくないお仕置き」として有名である。
しかしながら、ヤーティ自身は落ち着いた性格でもあるため、余程の事をしない限りは、大激怒させるまでには至らないだろう。
非常に洒脱な美的センスを持ち、サタン城が常に美しく機能しているのは、彼の手腕があってこそ。
・ウルシマル(炎属性/闇属性)
暴食の最下級悪魔・ウコバクの1人。スパニエルに似た姿を持つ、小悪魔。
ちょっと言葉遣いが乱暴だが、生活スタイルはスローなぐうたらそのもの。親玉のベルゼブブと同様、のんべんだらりんと過ごしている。
普段は仲間内でカードゲームに興じており、ポーカーでロイヤルストレートフラッシュを達成する事が最近の目標……なのだとか。
【補足】
・各領分の「ナンバー2」の悪魔
各領分の大悪魔には有事の際に代役を担う悪魔が存在しており、彼らは便宜的に「ナンバー2」と呼称される。
純粋に実力で選ばれる傾向がやや強いが、任命には明確な基準はない。
「憤怒のヤーティ」のように年代が古い実力派の悪魔が抜擢される事もあれば、「暴食のハーヴェン」のように悪魔としては若輩者であっても、大悪魔側の意向で認定されているパターンもある。また、「強欲のダンタリオン」のように真祖との腐れ縁が長いというだけでナンバー2に収まっている例もあったりと、事情はそれぞれの領分で大幅に異なる。
しかしながら、上級悪魔の中でも猛者揃いであることには変わりなく、一筋縄ではいかない曲者ばかりである。




