5−42 最大級の要注意人物
「ま、まさか……八翼の天使、ですと……?」
背中に感じた痛みは、突き刺さった氷の破片によるものだったらしい。まるで挨拶代わりだとでも言いたげに、傷は非常に浅く、しっかりと手加減もされているが。手心さえも感じられる氷の棘を振り払うも、自分をを見つめる2対の視線に……キュラータは本能的にジリジリと後退りをしていた。
(八翼に遭遇したら、真っ先に逃げるべし……! しかし、中級天使を助けるために……わざわざ、大天使自らが降臨するものなのでしょうか……?)
目の前でキュラータを睨み返しているのは、最も遭遇を回避するべき相手、大天使・ルシエルと永久凍土の悪魔・エルダーウコバク。それでなくとも、大天使・ルシエルは冷酷非情な天使としても有名で……このまま捕らえられたらば、スクラップになるまで破壊し尽くされるに違いない。
「ルエルさんッ!」
「ミアレット……? あなた、まさか……もう天使長様に報告したの⁉︎」
「うーんと……そうじゃなくて、ですね。ルエルさんが遅かったから、ピンチかもと思いまして。それで、相談して……って、うわぁッ⁉︎ ルエルさん、血塗れじゃないですかっ⁉︎ だ、だだだだ、大丈夫ですッ⁉︎」
悪魔の影から、なんの変哲もないはずの少女がヒョコッと顔を出す。しかし、ルエルの重傷加減を認めるや否や、アワアワと勝手に慌て始めた。
(あの小娘が大天使を呼んだのですか……? しかも、天使長に相談⁉︎)
キュラータにはミアレットはどうしようもない程に、普通の少女にしか見えないが。ルエルとの会話からしても、彼女には天使達を動員する手段がある様子。厄介なのはルエルだと思っていたキュラータにとって、更なる曲者がいたなんて……しかも、それが人間の少女だなんて。もはやこの想定外はタチの悪い冗談か、悪夢にしか思えない。
「ミアレット。心配しなくてもいい。……あの程度の損傷であれば、十分に回復可能だ」
「本当ですか⁉︎ あぁ……良かったぁ。流石はルシエル様です……!」
「ふふ……当然。だから、君は安心して後ろに下がっていなさい。後のことは、私達に任せて」
しかも、あの冷徹天使・ルシエルが人間に褒められて嬉しそうにしているではないか。キュラータには彼女達の関係性はよく分からないが……少なくとも、互いをそれなりに知り得ている相手ではあるのだろう。
(と……そんな事を考えている場合ではないですね。貴重な実験台を取りこぼすのは、惜しいですが……ここで死んでは、元も子もありません)
兎にも角にも、逃げるが勝ち。八翼の大天使相手に手負の状態で勝てるなんて、キュラータは慢心なぞしない。それに……従者の悪魔も明らかに、相当の強者であろう。例え、相手が単体だったとしても……キュラータの勝ち目は絶無だ。
「……ハーヴェン。悪いが、あの執事っぽい奴の捕獲を頼む。私はルエルの治療を優先させてもらうぞ」
「了解。それでなくても、嫁さんのお仲間相手に派手にやってくれたみたいだし……あんたにはお縄だけじゃなくて、尋問も必要そうだな?」
「……!」
しかし、大天使はキュラータを見逃す温情は持ち合わせていないらしい。底冷えするような冷ややかな視線を寄越すと、悪魔にきっちりと指示を出し……そんな冷徹な天使の捕縛命令を受け、獰猛な氷の悪魔が素直に牙を剥く。
毛並みと鼻筋は猛々しく、荒れ狂う2本の尾は強烈な冷気を発し、忽ち周囲を分厚い氷で覆い尽くす。手にはキュラータのメイスなんぞ比較にならない程に、禍々しい大振りの肉切り包丁が握られている。ただそこに立っているだけで、見る者を震え上がらせる悪魔の威容に……キュラータは仕方なしに、とある選択せざるを得ない。
(あまり美しくない手法ではありますが……背に腹は代えられません……!)
ルシエルが飛び立ったのを合図にキュラータは素早く身を翻すと、ルエルの身を拘束し、彼女の首筋に爪を立てた。すんなりと逃してもらえないのであれば、囮を使うしかない。ルエルを盾にして、魔法回路を稼働させるまでの時間さえ稼げれば……少なくとも、逃亡だけは可能だとキュラータは素早く判断していた。
「動くな! この天使がどうなっても、いいのですか⁉︎」
「こっ、小癪な……!」
いくら冷酷非情と噂されようとも、腐っても清廉潔白な天使である。翼の羽を全て逆立てて、怒りを露わにするルシエルであったが……ルエルの存命を優先すると見えて、その飛翔をピタリと止めた。しかし……。
「……この程度で私が屈すると、お思い? 生憎と……あなたの逃げ道になってやるつもりはなくてよ」
「なっ……⁉︎」
あろう事か、ルエルは自ら首を爪に押し付け始めたではないか。プスリと、彼女の首から軽やかな音がしたと同時に、クラリとその身が脱力する。
「なっ……なっ⁉︎ 何をしているのです! この毒を首に受けたりしたら……死んでしまうでしょうに!」
実の所、キュラータは時間稼ぎさえできればいいと考えており、ルエルをこれ以上痛めつけるつもりもなかった。あくまで、逃げる算段が整えば良かったのだが……ルエルは高慢である上に、高潔でもあったのだ。それこそ、キュラータの予想を軽く上回る程に。
「グルルルァッ!」
「……⁉︎」
予想外の展開に、キュラータがいつになく取り乱していると……野太い怒号と一緒に、氷の槍がキュラータ目掛けて降り注いでくる。そうして、器用に氷の槍がキュラータをグルリと取り囲み……気づけば、キュラータの身は身じろぎ1つ許されない程に、雁字搦めに拘束されていた。
「ルシエル、急げッ!」
「分かっている! ルエルの治療は任せろ!」
どうやら、氷の槍は悪魔の尻尾によるものらしい。氷の檻の隙間から見やれば、悪魔の鱗に覆われた尻尾が上方へ持ち上がっており、先程よりも更に激しい冷気を発している。
(ここはとにかく、脱出しなければ……!)
早々にメイスを固有空間へ仕舞い込み、キュラータはなりふり構わず、自身に仕込まれている転移魔法を展開しようと試みる。ルエルとの戦闘で魔力を消費していたのは、キュラータも同じであったが……最低限、魔法回路は稼働できると神経を集中させるが。
「……⁉︎」
しかし……いくら念じようとも、意識を向けようとも。彼に刻まれた魔法回路が反応する様子がない。
キュラータやバルドル等、グラディウスの神によって祝詞を授けられている精霊達は、その身に転移魔法の魔法回路を刻まれており、火急の事態になったらば戻ってこいと厳命されている。魔法回路の起動時に多少の魔力は必要だが、ポインテッドポータルなどの転移魔法を使うよりは遥かに消費も労力も少なく、失敗もないはずだった。
だが……その魔法回路が一切、反応しない……いや、そうではない。まるでキュラータを嘲笑うかのように、魔力の流れが何かに阻まれている。
「逃げようとしたって、無駄だぞ。その氷は、俺の特殊器官で作り出したものだ。しっかり、魔封じの効果も乗せてある」
「悪魔の特殊器官ですと……?」
「うん。俺の魂はちょっと変わり種でな。悪魔になる前の前が、竜族だったもんだから。悪魔になった時、竜族の名残が隔世遺伝したっぽくて。……冷気を自在に操る尻尾を継承したんだ」
自慢げにユラユラと2本の尻尾を振ってみせる、暴食の大物悪魔。不用意にキュラータを痛めつけるつもりはないようだが、ギラリと牙を見せて笑う様は、さも恐ろしい。
「俺は伊達に永久凍土の悪魔だなんて、呼ばれていなくてな。俺は自身の祝詞に、永久凍土の悠久を刻まれている。その影響かは知らないけど、自前の尻尾で特殊な氷を作れたりするんだな。で……永久凍土の氷は、魔封じの氷。執事さんにはこの意味、分かるよな?」
「……!」
大天使・ルシエルの従者であり、最大の理解者……それが永久凍土の悪魔・エルダーウコバク。上級悪魔の中でもずば抜けた能力を有し、その実力は真祖の悪魔にも比肩すると、もっぱらの噂だ。そして、天使と同様、遭遇に警戒が必要な「最大級の要注意人物」だとキュラータも聞き及んでいたが。
(何なのです、この無茶苦茶な能力は⁉︎ 魔法を封じる能力だなんて……グラディウスのデータには、ありませんでしたよ⁉︎)
噂はどうやら、生憎と事実に近かったらしい。氷の檻越しで、こちらを獰猛に見つめている悪魔は……とてもではないが、孤軍奮闘のキュラータが敵うべくもない相手だった。
【武具紹介】
・コキュートスクリーヴァ(水属性/攻撃力+271、魔法攻撃力+309)
永久凍土の悪魔・エルダーウコバク(ハーヴェン)が所持する魔法武器。
コキュートス産のフロストサイトを原料に、魔界武器職人の名匠と謳われるワハが鍛え上げた、特注の肉切り包丁。
素材由来の魔封じの効果もしっかりと引き継いでおり、相当レベルの魔法であっても切り裂き、無効化することができる。
鋭い切れ味は攻撃面でも頼もしい限りだが、上記の特殊性能もあり、魔法戦でも異常なまでの機能・威力を発揮し、魔法武器の中でも破格の性能を併せ持つ。
元々は魔界に堕ちてきた人間を捌くための包丁(一応、調理器具扱い)であったが、現在は武器として扱われていたりする。しかし……どちらに転んでも、物騒なのは否めない。
【登場人物紹介】
・ワハ(水属性/闇属性)
怠惰の上級悪魔・フィボルグのうちの1人で、魔界武器職人の名匠とも呼ばれる、凄腕のブラックスミス。
怠惰の上級悪魔はいずれも武器や防具の鍛造に精通した悪魔である反面、言わずもがな、総じて怠け者である。
その怠惰の悪魔にあって、ワハは対価に見合う仕事はきっちりするため、気に入った仕事であれば最高の逸品を作り出すと、武器職人としての評価は非常に高い。
ただし、非常に気難しい職人気質でもあるため、持ち込んだ仕事が「気に入ってもらえるか」は彼の気分と手土産に大きく左右される。