5−25 警戒心ゼロの人の子
程よい腕の疲れに、充足感を覚えつつ。ナルシェラは騎士団の訓練場から自室へと戻ろうと、足早に庭を歩いていた。そうして、ふとナルシェラが黄昏色の空を見上げれば……か弱くとも、確実に輝き始めた星が顔を見せている。
「もう星が出ている……ふぅ。初日から、力が入ってしまったかな」
ミアレットの理想に近づくため。ついつい訓練にも熱が入ってしまったと……気がつけば、もう夕刻。流石に夕食は一緒に摂りたいと、ナルシェラは息も心も弾ませる。それに、ディアメロとエックス君に手紙を預ける時間も約束しているので、これ以上は遅れる訳にもいかない。
「ふふ……今日はしっかり訓練したことを、綴らなくては。ラウドにはまだまだだと言われたが……剣を握るのも楽しかったし、このまま続けられそうだな」
ミアレットも隣の部屋に住んでいるのだから、今更文通をする必要もないのだが。互いに、手の内を明かしたくない兄弟同士……内緒話は手紙にしようと約束したため、エックス君はまだまだ現役稼働中である。それに何より、意外と反応が個性豊かなエックス君は、見ているだけでも癒される。
「……おや? あれは誰だろう?」
そんな事を、頭の中で楽しげに想像しながら。王城の裏口にたどり着く所で、見慣れない影を見つけるナルシェラ。中庭を所在なげに彷徨うのはメイド……ではなく、使用人らしき青年2名。ステフィアの従者に男性の使用人はいたかなと……「はて?」とナルシェラは首を傾げてしまうものの。しかし、今日はステフィアの金切声をまだ聞いていないことも思い出し、自分を探しにきたのかも知れないと考え直す。
(あぁ、そう言うことか。ステフィアがきっと、僕を連れてこいと命令したんだろう。であれば……僕を見つけられなくて、罰を与えられるのは可哀想だ。……どれ、仕方ない。夕食前に少し、ステフィアに付き合うか……)
ナルシェラにとって、ステフィアの癇癪はもうもう、慣れたもの。ナルシェラが言う事を聞かなければ、別の者にとばっちりがいくのもよくある事だし……何より、それが原因で下位の使用人達が泣きを見る事も、ナルシェラはよく知っている。
「そこの君達! もしかして、僕を探しているのかい?」
「あ、あなたが……ナルシェラ様?」
迷惑な内部事情に理解を示しつつ。なんの疑いもなく、青年2人に声を掛けるナルシェラ。
だが、ナルシェラは知らないのだ。ステフィアがカテドナにやり込められ、グランティアズ城から撤収したことを。そして……その撤収を強行したのが、この青年達だと言うことも……まだ、知らなかった。
「うん、そうだ。ステフィアがまたワガママを言っているのかな? だったら、癇癪を起こされても敵わないし……一緒に行くよ。今日はどこでお茶をするのやら」
ナルシェラにしてみれば、何気ない会話だったろう。だが、ナルシェラを攫ってこいと命を受けた、青年達……メローとガラにしてみれば、これはターゲットが向こうから網に掛かってくれた状況である。顔を見合わせ、思わず安堵の笑みを溢すメローとガラ。そんな彼らに……きっと、自分を見つけられて安心したのだろうと勘違いし、ナルシェラもニコリと微笑む。
「そ、そうなんですよ!」
「あぁ……助かります、王子。あなたを連れて行けなければ、どんなお仕置きをされることか……!」
「そうか……それはそれは、不安だったろう。でも、安心してくれていいよ。僕からも、君達が一生懸命探してくれていたと、ステフィアに言い含めるから」
何気なく、メローが「お仕置きされちゃう」事を匂わせると。ナルシェラは朗らかにフォローを申し出てくるのだから、つくづく人が良い。
「でしたら……ささ、こちらです、王子!」
「うん、承知した」
一方のメローとガラは、さして苦労する事もなくターゲットを捕捉できた事に、一安心だ。ここまで警戒心ゼロの人の子を連れ去るだけで、自由が継続されるのであれば。お人好しな王子様を騙して拐かすことも厭わない……はずだったが。
(……なぁ、ガラ。ところで……)
(なんだ、相棒)
気になることがあるのか、メローはひそひそと隣のガラに話しかける。ここまで楽なお仕事になると思っていなかったため、これはこれでメローは不安なのだ。それに……。
(……この王子様、いい奴過ぎないか? 俺、ちょっと心配なんだけど)
(だなぁ。でも、俺達にしちゃ、好都合だし……頃合いを見て、眠らせりゃお役目完了だ。お仕置き回避も確定で、いい事ずくめだな!)
(そ、そうだな……。それに……手荒な真似はしないに越した事、ないし)
どうやら……ナルシェラのお人好し加減に、メローの方は若干良心が刺激されるらしい。ご機嫌なガラとは裏腹に、チラリと背後のナルシェラの様子を窺っては、ちょっとため息を吐く。
(……リキュラ様がわざわざ攫って来いなんて言うんだから、こっちの王子様は多分……)
神様が望んだ、ピースの1つか……或いは、その可能性を秘めているか。いずれにしても、僅かでも神様の夢を叶えられる素質があるのなら。対象のピックアップが正解だろうと、不正解だろうと、彼には関係ない。取るに足らない人間1人が、ゴラニアからいなくなる……ただ、それだけだ。
(このままだと、王子様はどっちに転んでも……あぁ、いや。考えるな、俺。……人間1人くらい、どうってことないだろ)
暗黒霊樹の庭で生み出された時。滔々と聞かされた自分達の役目を、メローは朧げに思い出す。
暗黒霊樹が根付くことを拒むこの世界に、彼らの神様が降臨するには橋渡し役が必要だ。暗黒霊樹も例に漏れず、ゴラニアの女神達のような代役を作り出す事でしか、世界との交信手段を持たない。だが、交信をしようにも、暗黒霊樹が作り出した形代がゴラニアの神々に認められるはずもなし。だからこそ、彼らは求めるのだ……ゴラニアの霊樹の魔力を受けたことがない、神の形代となり得るホルダーキャリアを。
(ここの王族は確か、女神の血縁者……だったっけ? んで、器の機能停止して、魔力を横流しさせてる……って聞いてたな)
そして、ナルシェラは霊樹戦役以来の逸材なのだと……リキュラも言っていた気がするが。それが、こんなにも善意の塊だったことに、メローはやり場のない息苦しさとやり辛さを覚える。そして、初めて湧き上がる意味不明な感情に……図らずとも、戸惑っていた。
(……とにかく、この先はガラに任せよう。あまり考えない方が、ヘマもしなくて済むし)
しかしながら、今は感傷に浸っている場合ではない。何せ、そんな神様が望む相手をみすみす逃したらば、自分の身が危うい。それに、リキュラからも「挽回のチャンス」と言われていたのだし……これ以上の失敗は許されないだろう。
暗黒霊樹から生み出されたメローにとって、神様の意思に反することは、自身の存在そのものを否定するに等しい。彼の意思に反することは、どんなに些細な事でも、絶対にしてはならない。