3−24 負の遺産
「急に呼び出して、すまんな」
「いいえ、どうって事ありませんよ。それに……あなたの呼び出しが急なのは、常でしょう?」
普段は空っぽになりがちな、オフィーリア魔法学園の学園長室。しかしながら、今日は珍しく部屋の主人が降臨しているらしい。そんな部屋の主人……天使長・ルシフェルに呼ばれても、尚。アケーディアはいつもの斜に構えた態度を崩さない。
「それで? ご用件はどのような事でしょう? あなた程ではないにしても、僕もそれなりに忙しいので、手短に願いますよ」
「そう、つれない事を申すな。そなたが多忙を極めているのは、私とて理解しているつもりぞ。……とにかく、だ。早急に相談したい事があるのだ。そんなに時間は取らせぬ故、意見を聞きたい」
アケーディアの皮肉さえも、慣れたように受け流し。ルシフェルが机の上に、スッと1本の黒い枝を差し出す。そして、アケーディアはすぐさま思い至るのだ。……ルシフェルが急を要すると判断した、相談の中身を。
「そういう事ですか。……グラディウスの枝の鑑定結果が出たのですね」
「その通りだ」
相当に由々しき内容だったのだろう。アケーディアに応じながらも、ルシフェルは困惑の表情を尚も崩そうとしない。
ルシフェルの手元にある「グラディウスの枝」はエルシャの心迷宮から具現化した、「戦利品」の1つではあったが。マモンが持ち帰った弱々しい棒切れは、DIVE現象を観測できるようになって初めて観測された、紛れもない負の遺産である。
「これ……もしかして、生長していますか? しかも、瘴気で……?」
机に転がる枝を事もなげに摘み上げ、眺めてみれば。微かだが……確実に脈打つ「何か」を感じては、流石のアケーディアも眉を顰める。彼の白肌に馴染む、慣れ親しんだ鼓動は……紛れもない、悪しき魔力のそれでしかない。
「そのようだ。……神界の鑑識の結果、こいつは聖なる力が充満している神界でも瘴気を吐き出して見せた。しかも……かなりの濃度で、だ」
「それはそれは、かなり危険な内容ですね。それに……天使にしてみたら、毒も同然なのでは? 確か、あなた達は特別なことがない限り、瘴気への耐性は獲得できないはずでしょう?」
「あぁ、その認識も間違いない。私のように闇堕ちを経験しているか、或いは……いや。もう1つのパターンは、ここで言及せんでもいいか」
ルシフェルが言わんとしていることを理解し、アケーディアも「そうですね」と肩を竦める。そのついでに、お嫁さんの尻に敷かれっぱなしの「弟」の様子も思い出しては……天使は「あちら方面」にも精力的なのだからと、呆れてしまう。
「話を戻すぞ。これは枝1本の状態からでも、しぶとく生長しようとしておってな。しかし、問題なのは……瘴気を吐き出すだけならまだしも、周囲の者の悪意を増長させる点でな」
「……なんですって?」
悪魔の身であれば、瘴気が発生する程度は問題はない。むしろ彼らは自らの耐性を生かし、瘴気を魔力として消化することで、「守りたい相手」を保護する事もできる。だが……発生するのが、「悪意」ともなれば話は別だ。
(瘴気であれば、まだ防ぎようがある。僕達が居なくとも……耐性を獲得するか、お守りを身につければいいだけの話ですからね。しかし……悪意は防ぐ、防がないの基準は適用できません。……それこそ……)
悪意を押さえつけるには、持ち主の心を壊すしかない。心という不確定要素があるからこそ、誰しも善意を用いて他者に慈愛を注ぐことができるのだし、悪意を振りかざして他者を貶めることができる。
アケーディアは性善説も性悪説も、信じないクチではあるが。天使だろうと、悪魔だろうと、精霊だろうと。どんな者も善意も悪意も両方持ち得ている事に、理解くらいは示せる。そして、誰の心にも「悪意」の種がある以上、それを大きく育てる「グラディウスの枝」は、非常に厄介なアイテムだろうと思い至る。
「それにしては、随分と突拍子もない話ですね。神界側がどうしてそのような結論に至ったのか、聞いても?」
一方で、常々冷静なアケーディアはルシフェルの言葉を鵜呑みにできる程、素直でもない。まずは彼女達の判断基準を聞かせろと、天使長に説明を促す。
「当然の要求だろうな。少しばかり、神界の恥を晒すことになるが……まぁ、いいだろう。今更、隠すことでもなかろうし」
天使長の重々しい空気に、アケーディアは余程の理屈があったのだろうと、身構える。しかし……。
「……天使の意地悪度が上がったのだ」
「はい?」
「だから……以前にも増して意地悪したり、嫉妬する者が大幅に増えたのだ」
「……すみません、尚も理解に苦しむのですが。状況の詳細をいただけますか?」
呆れるアケーディアを前に、ルシフェルがさも情けないと肩を落とす。彼女によれば、枝が神界に持ち込まれてからというもの、あり得ないスピードで天使の精神汚染が進んでいるそうで……。
「神界は本来、死後の世界だ。無論、天使も魔法生命体ではあるが、転生を挟んでの復活であることはそちら側の事情と大差ない」
「えぇ、それは僕も存じてますよ。強いて言えば……悪魔は転生の時点で、記憶を失うハンデがあるという事くらいでしょうか?」
「そうだな。天使は生前の記憶を保持したまま、転生を果たす。だが、非常に嘆かわしいことに……記憶を保持していると同時に、生前に受けた恨みなんかも覚えておってな。……天使は悪魔以上に、周囲に残酷になれるものなのだよ」
記憶を保持するということ、それはつまり、負の感情も保持したままということ。
悪魔は闇堕ちと同時に記憶喪失になるが故に、「自分が何者なのかが分からない」不安を払拭しようと、ひたすら享楽に走る傾向がある。その過程で「悪い事」をしがちなのは否めないが、意外にも「敢えて相手を苦しめよう」とする輩は非常に少ない。楽しい事をするついでに、手の込んだ意地悪をする必要はない……というのが、彼らの基本的な思考回路である。
だが、対する天使はその限りではない。神界の霊樹・マナツリーに真面目に職務に従事せよと言われ続け、手柄を急ぐがあまり、天使達の間には軋轢や不和が生じやすいのだ。手柄の横取りや足の引っ張り合いに始まり、無視に陰口などなど、陰湿な嫌がらせにも枚挙に遑がない。
近年の神界は娯楽が増えた事もあり、そういった険悪な雰囲気は緩和しつつあるが。調和の大天使・ルシエルでさえ、仲間内の嫌がらせに苦しめられた過去を持ち、「神界ほど、心が安まらない場所はない」とまで言わしめる程、かつての神界の空気は最悪だった。
「神界はマナツリーのお膝元でもあるが故、瘴気が発生することは本来、あり得ないのだ。なので、辛うじて天使は程々に意地悪な程度で済んでいたのだが」
「それ……済んでいたも何も、前提がおかしくありませんか?」
「……言われずとも、分かっておる」
嘆かわしげに呟きつつ……疲れたように更に肩を落とし、ルシフェルが力なく苦笑いする。そんな彼女を前に、アケーディアはご愁傷さまと、こちらはこちらでやるせなく肩を揺らす事しかできない。