穴
この作品には自殺を示唆する表現が含まれています。
苦手な方は閲覧に注意してください。
『湖底、日常生活圏。』
穴がありました。澄んだ湖の底にただ一つ。浅瀬のエメラルドグリーンもその周りだけは彩りを失っています。
穴の中は冷たく、深いので、メダカたちは寒いのを嫌って近づこうとしませんでした。今日も学校でしょう。
私は彼らとは違って、この生温い淡緑の湖水がどうも心地が悪いのです。見たくないものを見て見ぬふりするこの空気が。
私は穴を見るのが好きで、よく近くまで遊びに行きました。それをみんなは必死で止めます。
「行かないで。」
「みんな待ってるよ。」
「私は君に生きてて欲しいな。」
皆、清々しい表情で語りかけてきます。
『ふざけるな。自分が漫画か小説かの主人公にでもなったみたいで楽しいか。「自分がひとりの人間の命を救ったんだ。」と誇りか名誉でも感じているんだろう。何が救いだ。自分の人生観他人に押し付けやがって。他人を自分で束縛して、生きることも死ぬことも許さない。その数秒にも満たないお前らの快感のために何故私はこんなにも苦しまなくてはいけないんだ。あんたらに私一人の命を受け止めるとことなんて出来ないくせに。いうだけ言っといて何もしない。いや、何も出来やしないんだよ。発言の重さも理解していない。というか見ようとしていないんだ。逃げてるんだよ。なあ、お前らはそうやって都合のいいとこだけ視野に入れて、自分一人気持ち良くなって、当事者の気持ちなんて本気で解ろうとしないんだろ。気持ち悪いんだよ、あんたら。』
そんな事を考えながら、
「嬉しい、ありがと。」
と、いつも通りの空返事を返す。そんな日々が続いています。
『湖底、某日。』
そんな小さな湖に棲んでいた私は、どうもこの窮屈なのを見かねて、
「今夜。今夜には私は消えてしまおう。」
と、思い立ちました。暖かい、嵐の日でした。
雨雫で浅瀬の泥が舞い上がり、いつもは水々しい緑の湖水もこの日だけは濁ってしまいました。メダカたちは大急ぎで参考書を汚すまいと走り帰っておりました。
私は独り、息を溜めて、身体が雨に馴染む感覚を楽しみ、間を開けて大きく息を吐きました。雨も、風も、生温い空気も湖水も、汚い泥も全て。吐いて、吐いて、吐いて。肺がひしゃげてしまうように吐き出しました。
嗚呼、この開放感は何だろう。泥水と一緒に私の醜い過去まで全て捨て切ったような爽快さと言ったら。
私は軽い心持ちで穴へと闊歩しました。やはりその穴の周りだけは、水面の雨で揺らぐことなく、冷たい湖水が溜まっていました。
おや、いつもは誰の気配もないここに、小さな一匹の魚が。その魚はこの穴の常闇から生まれたのかしら。と思われるほど、青黒く光っておりました。
珍しさに私は一つ、声を掛けてみることにました。
「やあ、こんにちは。ひどい雨ですね。」
「ええ、全く。」
「……」
私達はそこから少しの間互いに向かい合ったままでした。彼女の目はサファイアでも、ダイヤでも、黒曜石のようでもありませんでした。例えるならば中が空洞のプラスチックのような。指でつつくとカチとばかりに鳴りそうな。空っぽで光など持ち合わせていないようでした。
私はふと何気なく、
「あなた、真っ黒ですね。」
すると彼女は
「君も、真っ黒じゃない。」
というのです。私たちはしばらくの間笑いました。そしていつか二人一緒にこの穴の底までおよいで行こう。いや、沈んで行こうと約束し、その場を後にしました。
初夏の、まだ蟬が一匹鳴いているような。そんなある日のことです。
いつか、静かに、沈めますように。




