エピソード1 自然派クッキー
「うわあ!」
身体が何者かに取り憑かれる直前に飛び起きた。
息は上がり、汗で服がベッタリと張り付いている。
さっき見たものは夢だったみたい。
夢だと分かったとたんに心は穏やかになった。大きく息をし、乱れた呼吸を整える。
夢では突起が出ていた腕は、いつもと変わらない普段通りの腕だった。
部屋の空気を入れ替えないと嫌な夢を引きずりそうだ。はやく窓を開けないと。
窓を開けて外の空気を取り込むと、部屋中が爽やかな空気で満たされ、心も軽くなる。
街の広場の方には色とりどりの花が咲き始め、街は甘い匂いに包まれていた。
過ごしやすい季節になり、朝からご近所さんは花壇に水をまいていた。水を得た花たちは艶やかな顔をして元気に咲いている。
ふわりと小麦とバターの香ばしい香りが鼻をついた。リビングからだ。
「リズム、そろそろ起きなさい。朝ごはん出来たわよ」
時計を見るともう8時を過ぎていた。
急いで階段を降り、顔を洗って口をさっと濯ぐ。
「おはよう」
「おそようさんよ。休みの日だからってこんなにゆっくり起きてくるなんて」
お母さんは腰に手を当てて呆れ顔だ。しかしお母さんがこの時間に朝ごはんを作ってくれているのも珍しい。
「もしかしてお母さんもさっき起きたんじゃないの?」
「あら、バレちゃった?だってぽかぽか陽気でつい……ね」
普段しっかりしているお母さんも、春の陽気には勝てなかったらしい。
今日は家業のパン屋も定休日なので、朝からゆっくり過ごす予定みたい。といっても仕込み用のバターや小麦粉を買いに行くのだけれど。
私も予定ないし、一緒に買い物行こうかな。
「おはよう! リズム、おばちゃん」
ミネストローネを口に入れたところで、玄関の戸が勢いよく開いた。
入って来たのは小柄な少女。ふわふわの金髪に花飾りをつけ、手にはバスケットを持っている。背中の羽がゆらゆらと動いていて、急いで来たことがうかがえる。
「おはようレチュード。今日も早いね」
「だって早く新作クッキー食べて欲しかったんだもん!」
バスケットから小分けにされたクッキーを取り出し、テーブルに広げた。
クリーム色のもの、鮮やかな緑色のもの、ピンク色のものがある。
「アリッサム、オキザリス、森に生えてたキノコを入れてみたの。どれも綺麗な色で美味しそうでしょ」
胸を張って、はやく食べてと言わんばかりに袋の口を開けている。
2つめまでは春の花で聞いたことがあるからよしとしよう。食べるのは初めてだけど。でもキノコはダメな気がする。
「レチュード、味見したの? 特にキノコのクッキーが気になるんだけど……」
「気になっちゃったかー。もちろん味見はしてないよ。その辺に生えてたものだけど臭いは大丈夫そう!」
それ大丈夫じゃないやつ! 臭いで毒は判断できないから!
「キノコは怖いけど、お花のクッキーは食べられるかもしれないわね。このクッキー甘くて美味しいわ」
レチュード用の朝ごはんも用意してくれたお母さんはアリッサムのクッキーを口に入れて幸せそうな表情をしていた。
アリッサムのクッキーは大丈夫みたい。
安全なものだと確認してから私も1つ口に入れる。ひと噛みするとホロホロと崩れ、ほのかに蜂蜜のような甘みと香りが広がった。
「花びらからエキスを取り出して混ぜてるの。鼻に抜ける香りが良いでしょ」
「これは商品化してほしいくらい美味しいよ」
レチュードは“スュクレ・デリ”という店の店員だ。フェアリーが経営する製菓店でカフェも併設されている。
焼き菓子部門で働くレチュードは、休みの日に新作を作っている。
仕事熱心なのは感心するけれど、安心して食べられるものにしてほしい。
そういえばこの間、変わり種を探してるって言っていたような気がしてきた。キノコクッキーはおかずクッキーみたいなことなんだろうか。
「冗談はこのくらいにして、新作クッキーの材料調達に行こう」
やっぱり冗談だったか。冗談で良かった。
◇ ◇
「ベリーはありきたりで新鮮味がないからダメ。スイーツ系は通年のままにして期間限定はニンニククッキーでも……」
「クッキーには似つかない美味しさを求めないでよ」
身支度を整え、城下町の市場に買い物に来ている。市場は春を告げる花まつりの準備で賑わっていた。
レチュードは様々な食材を手に取り、ああでもないこうでもないと悩んでいた。
私は彼女が危ないものを作らないための見張り役としてついてきた。
ちょっと気を抜くとすぐふざけるのだ。
私から提案すれば少しは考え直してくれるだろうか。
「去年はフランボワーズのクッキーとスフレケーキだったよね。今年は蜂蜜とかどう? たんぽぽも食べられるって聞いたけど、美味しいのかな」
たんぽぽと聞いてレチュードの羽がピクリと動いた。
「ちょこっと魔法を加えれば効果付きのクッキーができるかも」
小声で呟くと、くるりと向きを変え走り出した。
「ちょっと、急に走ったら危ない……」
言い終わる前にレチュードは勢いよく男性にぶつかった。
「痛っ……ご、ごめんなさい。考え事してて」
レチュードはぶつかった相手の服を見た途端に青ざめた。
その男性はレチュードより30cmほど背が高く、体格も良い。レチュードからしたら威圧的に感じるだろう。
相手はそんなに怖い人ではないのだが。
「こちらこそすまない。怪我はないか?」
レチュードは姿勢を正し、大丈夫です! と敬礼をした。
何故ここまでかしこまるのかというと、ぶつかった彼がアレクトリアの騎士服を着ているから。
騎士様はこの国ではかなり重要な位置づけなのだ。国民の安全を守ること、周辺地域の治安維持、詳しくは知らないけど政治にも関与しているらしい。
「怪我がなくてよかったが、今魔法と聞こえた気がしたんだが」
彼の言葉に思わず身体が強ばった。
まさか聞かれていたとは……。
レチュードも何も言えずに固まっている。
聞き間違いだと言い切れば逃げきれるだろうか。
幼馴染である彼にコソッと耳打ちする。
「アルト、今回は見逃してくれないかな? もしそんなのがあったらいいなって思っただけだから」
「……今回だけだぞ。他の人に聞かれたら尋問は避けられないからな」
尋問という言葉からわかる通り、この国では魔法はご法度なのだ。
過去には魔法使いだからと逮捕された後、処刑された人達が何人もいた。
フェアリーの使う魔法ならすぐに解放してもらえると思うけど、下手に隠したりすると地下牢に入れられると聞く。
聞いていたのがアルトだけで助かった。
「じゃあ俺はそろそろ見回りに戻るよ」
アルトは手を振り、去っていった。
「リズムありがとう、助かったよ。私たちも行こっか」
「明日から花まつりだし、掘り出し物とかあるかもね」
今日のところはウィンドウショッピングだけすることにし、明日買い出しに行くことにした。