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ヴェナブルズ伯爵にとって、娘のナンシーは自分の命よりも大切な存在だった。それはナンシーが末娘だということもあるが、彼女が産まれてすぐに産褥熱で亡くなった妻に瓜二つだったからという理由が一番大きい。
伯爵は、先立たれた妻のぶんまでナンシーに愛情深く育てることにし、兄のウィルソンと比べて過保護と言っていいほど溺愛していた。
ウィルソンのように仕事を手伝わせるようなこともしなかった。
なので大市でナンシーとはぐれてしまった時は、生きた心地がしなかった。最近、貴族の子女を狙った誘拐事件が多発しているとの噂を耳にしていたのも、それに拍車をかけた。
ただちに使えるだけの人手を総動員して捜索したが、伯爵はあまりの心配に耐えきれず、熱を出して寝込んでしまう。
だからナンシーが無事に帰ってきたとの報告を受けた時は、人生の中でこれまでなかったほどの歓喜に包まれた。
「お父様。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「おお、ナンシー! お前の元気な姿が見れてどれだけ嬉しいことか!」
ヴェナブルズ邸に帰ってきたナンシーを、伯爵は目に涙をためて満面の笑みで迎える。
先刻まで寝込んでいたのが嘘のように、顔色もよく、健康的な顔つきをしている。
ヴィクトリア家への妨害工作がことごとく失敗に終わり、心労が重なってだいぶやつれていた伯爵だが、最愛の娘の無事な姿を見ると、再び気力を取り戻した。
「誘拐犯に連れ去られそうになったそうだが、本当にどこにも怪我はないんだろうな?」
他人に対しては冷徹な伯爵も娘の前では優しい父親になる。
「はい、あるお方が危ないところを助けてくれまして大丈夫でした」
「おお、そうかそうか。その人には感謝してもしきれないな」
そのことは使用人から事前に知らされていたが、助けた人物については詳しい話は聞いていなかった。
「是非その人のことを詳しく教えてくれないか?」
「はい、その方は勇敢にも三人の男性に囲まれた私を助けてくださいました」
「ほほう! それはさぞかし正義感が強い人なのだな」
ヴィクトリア家の連中とは大違いだ。伯爵は心の中でぼやく。
ヴィクトリア家と関わって以来、順風満帆だった人生で初めて失敗が連続し、国王からの信頼も損ねてしまった伯爵は、逆恨みのような感情を抱いていた。
「しかも非常に謙虚な方で、私が家にいらしてお礼をさせて欲しいと言うと『気持ちだけでいい』と辞退されまして」
「なんと素晴らしい人だ!」
厚顔無恥なヴィクトリア家なら厚かましく高額の謝礼金を要求しただろう。伯爵は思った。
「ですがどうしても恩返しがしたかったので後日改めて来ていただくことになりました」
「それはいいことだ! 家族総出で歓迎しよう!」
近ごろはヴィクトリア家に悩まされて神経質になっていたが、恩人と会えばいい気晴らしになるだろう。そう考えた伯爵は、今からその人物と会うのが楽しみになった。
だが――
「それで、その人の名前はなんというんだ?」
「はい。ヴィクトリア家のレディ・ヴァイオレットという方ですわ……あら? どうされましたお父様。幽霊でも見たような怖い顔をして……?」