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ケイティたちが馬車に乗る様子を、監査官は執務室の窓から眺めていた。
ふくよかな体格に、底意地の悪い中年の顔つきが如実に本人の性格を表している。蝋で固めた七三分けの頭部がテカテカと光っている。
「フン、ようやく諦めおったか。忌々しいクズどもめ。このワシを煩わせおって」
悪態をつきながら窓から離れると、執務机に置いてある一枚の羊皮紙を手に取った。
それはポールソン卿が所有する農園の出納簿なのだが、そこには不正の証拠となる記述は一切なかった。
「それにしても哀れな連中だ。ヴェナブルズ伯爵に目をつけられただけで破滅するんだからな」
一週間前、監査官のところへヴェナブルズ伯爵が現れて、ある人物を偽の罪で告発して、身分を剥奪する計画に協力するよう要求してきた。
報酬は彼がもらっている一年分の給与と、剥奪されたポールソン卿の上級紋章官の後釜。強欲な監査官は迷わずその申し出に飛びつき、卿の罪を偽装するために出納簿を没収したのだ。
「他人がどうなろうが知ったことか! 大金と上級紋章官の地位はワシのものだ」
薄笑いを浮かべて、上級紋章官になった自分を思い浮かべて一人悦に浸る。
「ガハハハ。楽しみで笑いが止まらんわい。もうこんな下役人の仕事とはおさらばじゃ」
と、その時、後ろから突然少女の声がした。
「モグモグ……それにしてもこの家のスイーツはなかなか美味しいですわね」
「ガハハハ。当然だ。なにせ王宮からもらったスイーツなのだからな」
これもヴェナブルズ伯爵によるワイロの一部だ。褒められてより得意げになる監査官だったが、そこでふと違和感に気づく。
「……ン?」
この部屋には自分一人のはずでは……?
監査官は恐る恐る後ろを振り向いて声の主を確かめる。幽霊でも出たかと思いきや、案に相違してそこにいたのは人間だった。
プラチナブロンドの小柄な少女と、そのかたわらに立つ銀髪の護衛ふうの中性的な青年。
自身の記憶が正しければ先ほど入り口の前で騒いでいたヴィオラとかいう少女だ。
なぜか少女のほうは、応接用の肘掛け椅子に座り、ジンジャークッキーをかじってくつろいでいる。まるで客として招かれたかのように。
「おい貴様……そこでなにをしている?」
あまりに自然にくつろぐので、思わずなにも問題はないと錯覚しそうになるが、ハッと我に返って詰問する。
「座っているのですわ」
「それは見ればわかる! どうやってここまで来たんだ?」
「歩いてですわ」
「子供じみた受け答えしかできんのか貴様は!」
ヴィオラが困ったような顔でとぼけるので、苛立ちを露わにして怒鳴る。
と、そこで、監査官はある噂を思い出した。
最近、ヴィンセント王子とやり合って打ち負かした元婚約者の名前もヴァイオレットといった。外見の特徴も一致しているので、十中八九同一人物だろう。
相手は公爵家の令嬢だが、今の状況は飛んで火にいる夏の虫状態だ。こちらが臆することはない。護衛役が華奢でひ弱そうなのも、油断する一因だった。監査官は咳払いをして、強気に出る。
「それよりも、ワシの部屋に無断で忍び込んでただですむと思っているのか?」
「私だって好きでこんなところに来たんじゃありませんわ」
「『こんなところ』とはなんだ!」
段々とヴィオラのペースに飲まれているが、本人は気づかない。
「お願いがあって来ましたの」
「フン、どうせポールソン卿が有罪だという証拠を見せろとか言うんだろう? 図々しいやつめ。誰がなんと言おうとお断りだ! 力づくで奪おうとするなら人を呼ぶぞ!」
「いえ、喉が渇いたのでお茶を頂きたいだけなのですが。できれば一番高いものを」
「もっと図々しいやつだなオイ!」
ヴィオラがあまりにズレた言動を繰り返すので、監査官は癇癪を起しはじめる。
「ともかく帰れ、ここに招かれざる客の居場所はないのだ。とっとと消え失せろ!」
「お客様にお茶も出さないなんて、接客態度の悪い家ですわねえ」
「貴様を客として招待した覚えはないぞ」
「された覚えもありませんわ」
「だったら言うな!」
「うーん……どうも話がかみ合いませんわねえ」
「貴様のせいだろうが!」
もはや完全に激昂して冷静ではなくなっていた監査官だが、直後にヴィオラの言った台詞でハッと我に返る。
「ところでポールソン卿の件ですが、先ほどの独り言を聞くと、もしや彼に無実の罪を着せたのですか?」
「――!? そこまで知られたからには無事に返すわけにはいかんな。誰かはやく来い、侵入者だ!」
呼びかけに応じて五人の屈強な男が現れてヴィオラたちを取り囲む。
その中にはケイティたちを門前で追い払おうとした使用人もいる。使用人は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに真顔に戻って手にした武器を構える。
すかさずロディも腰の剣の柄を握って身構える。
「ガハハハ。バカなやつらめ。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだな」
ロディとしては敵地に飛び込むことは反対だったのだが、ポールソン卿を助けるには一刻の猶予もないのと、この程度の人数なら同時に相手にしても問題ないと判断したため、ヴィオラに従うことにした。
「なあに殺したりせん。用事が済むまで閉じ込めておくだけだ……ん? オイ、女のほうはどこにいった?」
二人を捕まえるよう監査官が号令をかけようとした途端、肘掛け椅子に座っていたはずのヴィオラが、いつの間にかいなくなっていることに気づいた。
屋敷の警備員が入ってきた際、どさくさに紛れてどこかへ消えてしまったようだ。
この展開はロディにも予想外で、監査官や警備員と共に、慌てた様子で周囲に視線をうつしてヴィオラの姿を探す。
執務室はそれほど広くはないし、隠れられる場所も執務机くらい……。
――その時だった。
突然、執務机の陰から人影が現れて、ゆっくりと監査官のほうへ忍び寄ると、彼の頭部からなにかをはぎ取った。
そのなにかの正体は監査官の頭髪だったもの。そして出現したのは光り輝く鮮やかな禿頭。
「ああ、やっぱりカツラでしたのね」
ヴィオラの右手には、はぎ取ったカツラが握られている。
室内が凍りついたように静まり返る。
誰もがそのシュールな光景に、驚愕の表情を浮かべ一言も喋らない。警備員も監査官がカツラであることは知らなかったらしい。
禿頭を晒された当の監査官は、死刑宣告を受けた罪人のように青ざめた顔で項垂れ、全身をわななかせている。
「…………」
「初めて見た時からなんだか不自然な感じがしていたのですが、思った通りでしたわ」
沈黙を破ったのはヴィオラだった。
瞬間、監査官がやおら身を転じて、ヴィオラのほうへつかつかと歩み寄る。
咄嗟にロディが間に割って入って身構える。
ところが次に監査官がとった行動は予想に反するものだった。
「お、お願いします! このことは誰にも言わないでください!」
額を床にこすりつけて、絵に描いたように美しい土下座を披露した。禿頭が光を反射して眩しい。
意表を突かれ、ロディは啞然とする。
これがあの威張り散らしていた監査官なのかと疑ってしまうほど、へりくだった態度だ。警備員一同も驚いている。
「これが世間に知られては私は生きていけません! お願いです、なんでもしますからどうかご内密に!」
「……本当になんでもするんですか?」
ロディの背後からヴィオラが、なにかを企んでいる目つきで覗き込む。
「は、はい……。本当です!」
「ふうん……」
ヴィオラは意味深に呟いて微笑んだ。
それから数日後。監査官は自分の告発が間違いであったことを認め、ポールソン卿は釈放された。
大法官のハワード公爵やヴェナブルズ伯爵は納得がいかない様子だったが、それ以来、監査官が行方をくらましてしまったので、追求することができなかった。
しかもなぜか監査官の屋敷にあったスイーツと、一番高い茶葉が全てなくなっていた。