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「殿下の仰ることがわかりません! もう一度よくお聞かせください!」
広々とした大広間に、少女の悲痛な声が響き渡った。
大勢の人々が見守る中、痛切な表情でそう訴えた彼女の名前はヴァイオレット・ヴィクトリア。
リヴァプール王国では有数の大貴族、ヴィクトリア公爵家の長女。人形のように小柄で美しい容姿、鮮やかなプラチナブロンドのロングヘアに細金細工の髪飾りが彼女の美貌をより一層引き立てている。
親しい人達からはヴィオラという愛称で呼ばれていた。
そして彼女が必死に訴える相手こそ、王国の第一王子にして次期国王、ヴィンセント・ヘンリー・ヴィリアーズ。
燃えるような赤毛に端正な顔立ちは多くの淑女たちの注目の的だった。
そしてヴィオラの婚約者――だったのだが……。
「シラを切るつもりかこの卑怯者め! 証拠はもう掴んでいる。君がレディ・ジーナに対して行った非道な悪行の数々には多くの目撃者がいるんだぞ。理解できないと言うのなら君程度の頭でも理解できるよう何度でも説明してやる!」
罵声を浴びせる王子の表情は、婚約者に対するものとは思えないくらい険しいものだった。
レディ・ジーナというのは、式部卿の補佐官をつとめるヴァレンタイン男爵の令嬢、ヴァージニア・ヴァレンタインのことだ。
王子とジーナは数ヶ月前、王宮の夜会で知り合い恋に落ちたそうだ。
嫉妬したヴィオラがジーナに様々な嫌がらせをしたと言うのが王子の主張だが、本人は身に覚えがないと言う。
それも当然で、実はこれはジーナと結婚したい王子が、目障りなヴィオラとの婚約を破棄するために、でっち上げた作り話なのだ。
証拠というのも全て捏造で、目撃者は全員、王子に買収されたサクラ。
国内の有力諸侯が集まるこの王宮の夜会の席で、ヴィオラを悪役に仕立て上げれば堂々と婚約破棄を宣言できる、それが王子の策略だった。
「卑劣な悪事を平気でやるような女性とは結婚できない。君はジーナに対して『一ヶ月前の夜会でダンスを踊るな』と脅迫しただろう? 忘れたとは言わせんぞ」
観衆は王子の話を信じているようで、ヴィオラを批判的な眼で見つめている。
すべて思惑通りだとほくそ笑む王子。
これでヴィオラが取り乱してくれればなお好都合なのだが、意外にも彼女は動揺した様子も見せず……、
「『イカ、毛ガニ、マリネのヤサイでタコスを食べるな』と脅迫した? どういう意味ですか殿下?」
「言ってないだろそんな事! どう聞き間違えたらそうなるんだ!」
思いがけない返答に、逆に自分が取り乱してしまう。
ヴィオラは王子が自分を陥れようとしているのにも、まったく気にも留めないほどマイペースな性格なのだ。
このような大変な状況なのに、まるで他人事のように冷静でいる。
「まったくどれほど聞き覚えが悪いんだ君は。いいか、もう一度だけ言うからよく聞くんだぞ。この前の夜会で君がジーナを脅迫したことは調べがついているんだ。なにか反論はあるか?」
「殿下、それは違いますわ」
「黙れ、口ごたえするな! いい加減自分の罪を認めてジーナに謝罪を……」
「殿下が仰ったのは正確には『卑劣な悪事を平気でやるような女性とは結婚できない。君はジーナに対して『一ヶ月前の夜会でダンスを踊るな』と脅迫しただろう? 忘れたとは言わせんぞ』ですわ」
「そっちかい! っていうかちゃんと聞いてたんじゃねーか! しかも一言一句正確に覚えてるし! なんでとぼけてたんだ!?」
「申し訳ありません。持病の発作でつい。ゲフンゲフン」
「どんな発作だ!」
のほほんとした態度に腹が立った王子は、だんだん冷静さを失いはじめていた。
観衆の目も、なかば呆れたような視線に変化している。
ヴィオラを断罪するはずが、いつの間にか漫才のような会話をしているのだから当然の反応だ。
周囲の視線に気づいた王子はようやく冷静さを取り戻し、すかさず話を戻す。
「ま、まあいい。ともかく聞いていたのなら話は早い。さっさと自分の罪を認めてジーナに謝罪をしろ!」
「ですが殿下。あの夜、私はずっとどなたかと一緒にいてアリバイがあります」
ヴィオラが反論すると王子は嘲るような笑みを浮かべて、
「白々しい、誰かに命令してやらせたに決まっているだろう。それを目撃したという者もいるんだぞ。君のような姑息な人間は自分で直接やることはないだろうからな」
「しかし当時、私の従者はほとんど別室で待機しておりました。会場にいたのはアームストロングという者だけです」
「だからそいつに命令してやらせたんだろう。いい加減、見苦しい言い訳はやめろ。目撃者がいると言っているだろう」
「私がアームストロングに命令しているのを見た方がいるのですか?」
「その通りだ」
言い終えると同時に王子は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
ここで用意した偽の目撃者を登場させれば観衆は完全に王子を信用するはずだ。
しかし次のヴィオラの言葉がその計画を狂わせた。
「でもアームストロングというのは私が飼っている犬の名前なのですが……」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
「夜会の料理を食べさせたくてコッソリ会場に連れ込んだのです。だけどおかしいですねえ。アームストロングはお手やおすわりはできても、人を脅迫するような芸はできないはずなのですが……」
「あ……」
キョトンとした表情を浮かべるヴィオラを見て、王子は自分が失策を犯したことに気づいた。
これでは偽の証人を出したところで信じてもらえない。
観衆が怪訝そうな様子でざわめいている。
「う、うそだ! どうせなにかトリックをつかったんだろう! そうに決まっている!」
「トリック? 急にローストチキンでも食べたくなったのですか?」
「それはトリニクだトリニク! 私が言っているのはトリックだ!」
「どんなトリック?」
「う、うるさい。とにかく君の仕業であることは間違いないんだ! 他にも君がやった悪事はたくさんあるんだぞ」
このままではまずいと判断した王子は咄嗟に話題をそらす。
「一週間前、カレッジの校舎でジーナを階段から突き落としたそうじゃないか。それを見た人もいるんだぞ!」
アンフィールド・カレッジ。
王国内の貴族や準貴族、ジェントリ、上流市民の子女が通う場所で、ヴィオラや王子、ジーナも生徒だった。
「一週間前とはいつのことですか殿下?」
「七日前のランチタイムに、生徒たちが食堂に集まっている頃だ」
相変わらず惚けたような表情でたずねるヴィオラに、苛立ちを覚えながら王子は答える。
「君が食堂にいなかったことは調査済みだ。当時、君はどこでなにをしていた?」
「えーと。あの時は確か……」
ヴィオラは思い出そうと上を見上げる。
今度こそ言い逃れはできないだろう。
観衆は間違いなく王子の話を信じ、目障りなヴィオラとの婚約を破棄できる。
そして晴れてジーナと結婚できるのだ。
そう王子が確信した直後――
「あの時は、そうですわ。西の校舎を散歩していたんですわ。ちょうど殿下が二人の女子生徒を私室に連れ込んでいるのを見た時です」
「な、なぜそのことを!?」
知っているのか? と言いかけて慌てて失言だったと口を噤む。
王家が必死になって揉み消しているので表沙汰にはなっていないが、知っている者には王子の女癖の悪さは非常に評判が悪かった。
「一人はベッカム伯爵の令嬢、もう一人はガスコイン子爵の令嬢でしたわね。とても仲がよさそうに見えました」
「そ、そこまで見てたのか?」
その発言が、ヴィオラの言うことが事実であると認めてしまうことになるとしても、王子は動揺を隠し切れなかった。
別に王侯貴族が愛人をつくることはそれほど悪いことではない。
しかしヴィオラが名指しした令嬢には二人とも別に婚約者がいるのだ。
お互いに婚約者がいるにもかかわらず、関係をもつなど外聞が悪いにもほどがある。
ここは無理にでも否定しなければならない。
「で、デタラメを言うな! この私がそのようなことをするはずがないだろう!」
「ですが殿下、あちらにいるお二方は否定されてませんよ?」
そう言うヴィオラの視線の先には例の二人の令嬢が顔を赤くして俯いている。
彼女たちの表情は、ヴィオラの話が真実であることを物語っていた。
「殿下が不義を?」
「次期国王ともあろうお方が」
「なんてこと……」
「そんなことをされるお方だったとは」
観衆の疑いの視線は、ヴィオラではなく王子に向けられる。
いつの間にか立場が逆転していた。
ヴィオラを断罪するはずが、突然、自分の女性遍歴を暴露される羽目になるとは予想もしていなかった。
「だ、騙されるな! これはあの女が仕掛けた罠だ! 嘘を言って私を貶めようとしているのだ!」
「それにしても殿下が黒髪ストレートロングの女性が好みだとは思いませんでしたわ」
二人の令嬢とジーナは全員、黒髪でロングヘアだった。
「黙れ! 貴様それ以上デタラメ言うと不敬罪で捕らえてやるぞ!」
「私はどちらかといえば少しウェーブがかかっていたほうが可愛いと思うのですが……」
「なにを言う! ストレートこそ至高に決まっているだろう。あの清楚な雰囲気、見ているだけで目の保養になる……って何を言わせるんだ貴様は!」
ノリツッコミをする王子。
もはや完全に正常な思考ができる状態ではなくなっていた。
「殿下がレディ・ジーナにこだわるのもそれが理由だったのですね」
「うあああぁ! 黙れ黙れ黙れ! それ以上いい加減なことを言うな! 誰かはやくこいつを捕まえ……」
しかし命令を下す前に、王子は血相をかかえた侍従たちに囲まれていた。
「どういうことですかな殿下?」
「伯爵令嬢の婚約者は外国の貴族ですから、外交問題になるかもしれませんぞ」
「レディ・ヴァイオレットとの婚約はどうされるのです?」
「黒髪はストレートロングですよね。わかりますぞ」
口々に王子に詰め寄る。
王位継承権第一位で次期国王である王子がこれ以上醜態をさらすのを止めようとしているのだが、本人の耳には届かない。
「うるさいうるさい! アイツの言うことは全部嘘だ! あんな淫売となんか結婚できるか! 婚約破棄だ! さっさと牢にぶち込め! ワハハハハ!」
「おお……お気の毒に。錯乱しておられる」
「私は殿下の婚約者ですが、殿下の心に別の女性がいるのであれば潔く身を引かせていただきます」
完全に錯乱した王子にお辞儀してヴィオラは悠々と大広間を退室した。
誰もヴィオラを捕まえようとする者はいなかった。
それだけ暴れる王子をなだめるのが大変だったからである。
「いい気味ですわね」
ヴィオラが大広間を出ると、廊下の向こう側からそんな声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、不敵な笑みを浮かべた一人の女性がこちらにやって来る。
長い黒髪を、羽根飾りのついた髪留めでまとめているこの女性こそ、王子が何度もその名を呼んでいたヴァージニア・ヴァレンタインである。
「どんなお気持ちですか? 婚約者を奪われるというのは?」
「ジーナ……」
ヴィオラは強張った表情で呟き、素早くジーナのそばに歩み寄ると、ふいに両手を強く握ってこう言った。
「ありがとう。あなたのおかげて無事、婚約破棄できたわ」
「ヴィオラ様のお役に立ててわたくしも嬉しいですわ」
二人は満面の笑みで握手を交わし、和やかに談笑しながら廊下を歩いていった。