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キサラとミオの記録

キサラとミオは呪わない

作者: 七々八夕

前作「今更、キサラは呪われない」の続編(?)になります。

一緒に読んでいただけますと、今作をより楽しめるかと思います。

(今作のみでもお楽しみ頂けます)

 ある冬の日、少女は死んでしまった。

 理不尽な現実に耐えかねたのだ。


 立ち入り禁止の屋上に足を踏み入れ、鉄柵に指をかけてよじ登り、幸か不幸か足を滑らせて――そのまま、校庭に血肉をぶちまけた。


 死の間際に感じた痛みは、日頃から心に与えられるそれよりも遥かに優しいものであり。

 楽になるという比喩はあながち嘘ではないようだと、そう思いながら意識を投げ出した。


 その直後、暗闇に包まれた視界。

 これが死後の世界なのかと思った彼女に、それは違うと言うように風が吹いた。

 温度のひとつもない、ただ木々の枝葉を揺らすだけのそよ風。


 まるでまだ生きているかのような――実際、そうだ。

 正確に言えば、彼女の意志が未だ生き続けていたのだ。


 つまるところ、彼女は。


 ■                        ■


「えっ……とぉ」


 夜空の下、高校の校庭には少女の姿があった。

 制服を身に纏う彼女は、他に誰一人も影を落とさないこの場においては違和を生んでいる。

 見るからに深夜だ。若者が一人で出歩いていい時間ではない。


 この場所にはどこか懐かしさを感じるのに、彼女は初めて見る気がしてならない。

 ――なぜ自分はここに居るのだろう?

 彼女が心中に抱く問いに答える者は、見渡す限りどこにもいない。


 そう思った矢先、少女は視界の端に動く人影があることを認める。

 咄嗟に彼女は足音もなく駆け出し、人影――警備員の男に近づいた。


「あ、あの! 私……」


 どうしてここに、と続けようとして、警備員の表情に違和を覚える。

 急に話しかけて驚かせてしまったのだろうか。

 否、それならば反射的に声を上げてしまうはず。

 口を開閉させて何かを言おうとしている彼の様子とは違う。


 不思議に思い、なんとなく手を伸ばした瞬間、警備員の口からヒッと女性のような甲高い声が鳴る。

 咄嗟に手を引っ込めると、たちまちに彼は泡を吹いて倒れてしまった。

 何が何だか分からない少女は、謎の罪悪感に苛まれて助けを呼ぼうとするも、やはりどこにも人の姿はない。


 とりあえずどこかに移動させなくては。

 さざ波の立つ心を落ち着かせて、少女はその華奢な腕で警備員を脇から持ち上げ引きずろうとして――異変に気付いた。

 手応えがなかったのだ。

 ただの力不足で持ち上げられないならまだしも、触れることさえできなかった。


 思考が更に混濁し、全身にべっとりと不快感がまとわりつく。

 いまこの場では何が起きているのか?

 自分はいったいどうしてしまったのか?


 いずれにせよ、このまま放置しておくわけにはいかない。

 少女はなんとか気持ちを切り替え、近くの病院にでも駆け込もうとした――

 その時だ。

 誰とも知れぬ人影が、傍に立っている事に気付いたのは。


「あ、あの……?」

「お困りですか」


 雰囲気からして20代と思われる端正な顔立ちの青年は、少女を誘惑するような艶のある声で尋ねた。

 無意識に聞き惚れそうになるのを慌てて耐え、少女はゆっくりと頷く。


 しかし、この青年はいったい何者なのだろう。少女の中で疑問が生まれる。

 暗闇に溶けるような黒で染められた服装、風が吹いてもいないのになびくマフラーもむろん黒。

 ひと際目を引くのは、その金色の瞳。

 夜だからというこじつけの理由でも、淡い光を放っているのは不可思議だ。

 まるでファンタジーの世界から飛び出してきたような――


 などと考えている間に、事情を察したらしい青年が警備員を抱き上げていた。


「このお方は私がお運びします。もう夜も更けていますから、お気をつけて」

「あ……」


 せめてお名前だけでも。

 などと言おうとして、自分を恥じる。さすがに現実に夢を見すぎだ。

 偶然が重なったからと言って、それが運命などというものであるとは限らない。

 そんな少女の心を見透かしたように、黒ずくめの青年は何も言わずに微笑み、曲がり角に消えた。


 なんだったのだろう。

 現状に問うても、やはり返事はなく。

 どうすればいいのだろう。

 自分に問うても、答えは見つからず。

 少女はしばらくの間、立ったままで呆けていた。



 校舎の時計が0時を指した頃、変わり映えしない風景に飽きた少女は、別の場所へと足を運び始めた。

 何もおかしなところはないはずなのに、異世界の地を踏んでいるような気がして、一歩を踏むのにも心が躍るのを感じていた。

 光の消えた建物。錆びれた商店街。月明りと切れかけの蛍光灯が照らす住宅街。

 時折道路を走るバイクやトラックの音に一々驚きながら、少女は公園のブランコに腰かけていた。

 キイキイと寂しげに軋む音がやたらとうるさい。


 自分は一体どこへ向かうのだろうか。

 少女は哲学的なことを語りたいわけではなかった。

 ただそれを知れば、今この身に起こっている不思議が分かるような気がしていたのだ。

 警備員に触れようとした時の透ける感覚は、今も手に残っている。

 もしかして、自分は。



 ――あなたの願いはなんですか?



 仮説を立てようとして、不意を打つ声にびくりと身を震わせた。

 耳元で囁くような少女の声。むろん傍には誰もいない。

 ただ白煙が辺りを揺らめいているだけだ。

 それもただの煙ではない。鼻孔を涼しく刺激する香りがついていた。



 ――富や名誉、単純なものを求めるのも良いでしょう。



 少女の声は続く。

 まるで母親が、眠れない子に絵本を読み聞かせるように。



 ――ですが、その他にも欲しいものはございませんか。



 ――何もしていなくても幸運が寄ってきたり。意中のお方の心を奪ったり。



 ――時間を止めたり。未来を垣間見てみたり。過去に戻るのも良いでしょう。



 ――それらを可能にする道具があるのなら、欲しくはありませんか。



 ――ええ、現にあるから、こうして話しているのです。



 音の源を視線で探す。

 この静寂の中ではそう時間はかからず、すぐに出入り口にいる人影のものだとわかった。

 しかし、影はおかしな形をしていた。

 人だということは分かるが、背負っているらしいリュックの大きさが尋常ではない。

 目測でも持ち主と同じか、それ以上に大きく膨らんでいる。

 何を詰め込めばそんな状態になって、かつ背負うことができるのか。


 少女が呆気に取られていると、その人影と目が合った気がした。


 ゆっくりと一歩ずつ、少女の方へと近づく人影。

 顔も見えず奇妙そのものの筈なのに、不思議と少女はその者が同じ――否、理解を得られる雰囲気を纏っている気がしていた。


「もし、そこのお方」

「……はい」


 少女が素直に返事をすると、人影はゆっくりとリュックを砂利の地面に置き、被っていた黒いフードを脱いで素顔を晒した。

 その声は、先ほどの幻聴に酷似していた。おそらく、同一人物だろう。


 短くも清流を思わせる綺麗な金髪、青い瞳は宝石のよう……などと在り来たりにその人影――彼女を描写してしまう。

 だがそれだけ綺麗で、並外れた可憐さだったのだ。

 まだあどけなさを残す笑みは、先ほど見た青年の隣ならもっと輝くのではないだろうか。

 などと見惚れていると、もう一度「もし」と苦笑しながら声をかけられた。


「あぁすいません……何か?」

「いえ、お困りのようでしたので、お力になりたく」


 お困りと言っても、何に困っているのかが言語化できない。

 どうしたらいいのか迷っていると、可憐な少女は「失礼しました」と頭を下げた。


「名乗るのが先でしたね。私はキサラ、キサラ商会という呪具売りの行商でございます」

「……じゅぐ?」


 聞き慣れない言葉に首をかしげる。


まじない道具の総称ですね。それぞれが様々な願いを叶える力を秘めています」


 そういえば、いつしか読んだ本に出てきたような――いつしか?

 自分自身に引っかかりを感じながらも、キサラと名乗る少女の言葉は続いた。


「私はそうした呪具を売り歩いているのです。それで、何かお力になれればと」

「……えっと、私、どうすればいいのか分からなくって」

「それは、人生の進路ということでしょうか?」

「とは、違って……なんて言えばいいのか、分からなくて……」

「ふむ」


 キサラは顎に手を当てて、「しばしお待ちを」と言葉を残して背を向け、リュックを漁り始めた。

 ブランコに座ったままの少女は、その様子を見ているしかできない。


 この人なら私の力になってくれるのだろうか。

 この人に頼ることで、自分は何か恐ろしいものに触れてしまうのではないか。

 知らなくてもいいことを知ってしまうのではないか。

 そんな得体の知れない恐怖が、心の底で燻るのを感じていた。


 そんなことは知る由もないだろうキサラは、ガチャガチャと雑な音を立てる中で、お目当ての物を探し当てたようだ。

 やや大きめの、古びた方位磁針のように見える。


「それは?」

「《欲望の羅針盤》と言いまして、真ん中のスイッチを押した人の、今一番強く願っている行為の向かう先が示されます。例えば愛するあの人に会いたいと願っているのならば、その人がいる方向を。どうしてもある物が欲しいと願っているのならば、それがある方向を、それぞれ示してくれるという代物です」

「へ、へー……」


 曖昧な返事を返してしまうほど、いまいち信憑性が欠けている。

 だが、彼女が言うならば本当なのかもしれない。キサラには、他人にそう思わせるような不思議な雰囲気があった。


「生憎とこちらは非売品ですが、レンタルという形でご利用いただけますが、如何ですか」

「……えっと、何と言いますか、私……」


 行商と言われたときから少しずつ気になっていたことを、今ようやく口にする。

 少女は服以外に何も持っていないのだ。

 キサラはそれに対し、何を当たり前のことをとでも言いたげにきょとんとした。


「……失礼ですが、お客様。名前をお伺いしても?」

「え?」


 何を突然、と不思議に思いながら、自分に与えられた名を言おうとして。

 少女は、舌に違和を感じた。

 脳にもだ。

 言おうとしている言葉が浮かばないのだ、どこにも。

 ひたすらに口を開けたまま何かを訴える様は、滑稽にも見えるだろう。

 少女は名前を言おうとしているだけなのだから。


「なんで、私……」

「片桐リカ、と制服の袖に描いてあるようですが」

「あ……」


 言われた所を見て、少女――リカはようやく自分の名前を知る。

 しかしそれが自分の名前なのかと言われると、眉をひそめるくらいには自信が無かった。

 むしろ一瞬、誰の名前なのかと思ったほどだ。


 腑に落ちない様子のリカを見、キサラはふむと頷いた。


「突然申し訳ありませんが、落ち着いて聞いてくださいませ」

「は、はい」


 顔を僅かに寄せられ妙な圧を感じながら、リカはキサラの言葉を待つ。

 生唾を呑んだ音がキサラに聞こえていてもおかしくはない。

 それほどの静寂の中、キサラがようやく口を開いて言ったこととは。


「あなたはどうやら、幽霊のようです」

「……は、はあ」


 キサラは些か不満げな顔をリカから離す。


「おや、驚かれないのですね。なんとなく察していましたか?」

「なんとなく、ですけど」


 他人に触れることができなかったり、それどころか悲鳴を上げられて気絶されたり。

 風もそうだ。冬ともなれば寒いはず。

 にもかかわらず、温度を感じないどころか、風に撫でられることもなかった。

 その上名前も、今ここに居る理由も分かっていない。

 何もおかしいところはないと思う方が変だ。


「では、お金はお持ちではありませんか」

「はい……ですので、残念ですが――」

「でしたら、あなたの魂を頂戴してもよろしいですか?」

「……はい?」


 丁重に断ろうとした時、キサラがそう提案した。

 口調はともかく、言葉だけなら魔女のそれだ。抵抗を感じない方がおかしい。

 これは断れるのかと困っていると、キサラは得意げに胸を張って説明を始めた。


「幽霊とは、生前の未練――つまり、『ああしたかった』という意志の塊です。その意志は未練を解消するために現世に留まるべく、少しずつ消費されていきます。生前における寿命に相当する概念ですね。幽霊のお客様に対しては、これを対価に頂くというわけです」

「えっと……相場、とか、よく分からないんですけど」


 この場合の搾取は、人命——既に無いが——を奪うことに等しいと考えて間違いないだろう。

 リカは自分の未練が何なのか把握していないが、倫理に反するようなことをされるのは気分が悪い。

 幽霊にあてはめる倫理とはなんだ、と問いたくはあるが。


「詳しいことは長くなるので省きますが、多くの幽霊の寿命は最低でも49日はあるというのが定説でして。それで私どもは、幽霊の寿命1分は日本円でおよそ100円相当と決めております。見たところ死後そう時間は経っていないようですから、ご心配なく」

「……それで、その呪具を使うにはどれくらいかかるんですか?」

「ざっと5時間。3万円ですね」


 高性能の家電が一つ買えるくらいだ。

 しかし彼女に頼らなければ、あてもなくさまようだけになる。効率を考慮しても破格の値段と言えるだろう。

 仮に騙されているとしても、49日――1176時間の中の5時間だ。

 それにリカは自分の未練が分からないままでも、それはそれで幸せな気がした。


 ゆえに、躊躇ったのはほんのわずかな時間だった。


「分かりました。使わせてください」


 リカの返事は既に分かっていたというように、キサラはにこりと微笑む。


「承りました。それでは少しヒヤっとすると思いますが、こちらに触れてください」


 言いながらキサラは、懐から手のひらサイズの小瓶を取り出した。

 そんなものに入りきるのだろうかと心配になりながらも、リカは彼女を信じて、恐る恐る小瓶の蓋に触れる。


 ふっ、と体の中に風が通るような感覚が走ったのは一瞬。

 気付いた時には小瓶の中を薄緑の液体が満たしていた。

 透明感があり、わずかな光でも反射してキラキラと輝いている。

 これが寿命を可視化したものなのかと思うと、生きとし生ける命は美しいと言う者がいるのも不思議ではない気がした。


「はい、これで5時間分いただきました」

「……本当に、これで?」

「ええ」


 満足げに頷くキサラ。

 綺麗ではあるが、所詮はただの液体には見えない。本当に3万もの価値があるとは思い難い。

 だが商売人がそう言っているのならそれでいいのだろう。


「では、羅針盤の中心にあるスイッチを押してくださいませ」

「は、はあ」


 生返事をして、差し出された羅針盤の中心部、赤くなっている部分を軽く押す。

 カチッと軽い音がしたが、反応はない。

 壊れているのでは? 訝しみながら盤面をのぞき込む――と、針が狂ったように回り始めた。


 ぎょっと驚いて飛びのいたリカを、キサラは子供を見るようにくすくすと笑う。

 よく笑う人だと、リカは苦笑を返しながら思った。


 そうして無言のやり取りをしている間に、針の動きは落ち着きやがてぴたりと静止した。

 直後、中心の赤いスイッチから薄く細い光がどこかに向けて伸びる。


「どうやら目的地はあちらのようですね」

「えっと、では……」

「ああ、良ければご一緒してもよろしいですか? そろそろ除霊師が街をうろつく頃でしょうから」

「……では、お願いします」


 そういった常識を外れた職業は本当にあるんだなと思いながら、リカは荷物をまとめリュックを背負い上げたキサラと共に、夜の街を再び歩き出す。


「重くないんですか、その鞄」


 話すこともなかったため、リカは先ほどから気になっていたことを尋ねる。


「見た目ほどは。実はこのリュックも《四次元倉庫》なる呪具の一種でして、中はキサラ商会の呪具倉庫に繋がっているのです」

「でも、結構膨らんでいますけど」

「ここだけの話、見た目や雰囲気に騙されるお客様は多いので。それっぽく見せた方が怪しさを信用してもらえるのです」


 おかしな話ですけどね、とキサラは最後に付け加えて苦笑する。


「……それはそうと、お客様。ここに来るまでに黒猫を見かけませんでしたか?」

「黒猫?」


 リカは初めて聞いたかのような反応で聞き返す。


「ええ、我がキサラ商会の看板代わりなのですが。先程どこかに行ってしまい、目下捜索中でして。何かご存じないですか」

「黒猫……は、見てないです。ごめんなさい」

「ああいえ、どうせその内帰ってくるのでお気になさらず――と、噂をすれば」


 道路沿いの植栽が音を立てて揺れ、中から黒猫が顔を出した。

 ニャアと低めの声で鳴いた猫の目は金色。そして尻尾の先は二股に分かれており、一目でただの猫でないことは分かる。

 どこかで見たような?

 リカは黒猫をじっと見つめながら記憶を漁るが、幽霊になったせいか思い出すことが容易ではないようだ。さっぱり思い当たる節がない。


「もう、勝手に離れないの」


 キサラは持っていた《欲望の羅針盤》を脇に抱え、頭を撫でながら黒猫を抱き上げる。

 猫の顔が若干不満げに思えるのは気のせいだろうか。


「ご紹介します、こちらがキサラ商会の看板黒猫、ミオです。ワケありでちょっと変わった見た目ですけど、ただの猫ですので」

「は、はあ」


 依然としてどこか腑に落ちない様子の黒猫に頬ずりすると、リュックに乗せてキサラは再び歩き出す。

 並々ならぬ関係なのだろうと適当に結論付けて、リカは深くは詮索しないことにした。


 それよりもリカには、気になることがあった。

 《欲望の羅針盤》の示す方へと歩みを一つ進めるたびに、足取りが徐々に重くなっている気がした。

 おそらく行きたくないというわけではない。

 得体の知れない、ただ毒のようなものが足元から自身を蝕んでいくような感覚。

 足や膝は既に重く感じている――胸や頭にまで及ぶのはいつだ?


 背筋に走るはずのない悪寒を感じながら、リカは光の指し示す方へと歩き続ける。

 記憶がないせいか、見覚えのない街並み。


 ついに《欲望の羅針盤》の示した場所へとたどり着いても、悪寒は消えなかった。

 しかしその正体は依然と知れず。

 毒も腹の辺りで渦を巻いているような感覚だ。


「どうやら、ここにあなたの欲望が向かうようですが」

「……でも、何がしたいのかはわかりません……」


 着いた場所は、何の変哲もない一軒家。

 それを見ただけでは、答えを得るヒントにはならないということだ。


「ふむ。――朝倉、という方のお家らしいですが」


 表札を覗き込んだキサラから伝えられた瞬間、リカの動かない心臓が跳ねた。

 そこから、頭の奥で黒塗りの箱が破裂したのは一瞬だった。

 隅に置いていた記憶が溢れ出し、思い出せと本能が叫ぶ。


 水浸しの文庫本。

 滲む活字。

 全身を走る激痛。

 それ以上に、理不尽さに痛む心。

 鼓膜を突き刺す狂った笑い声。


 なぜ、なぜ、なぜ。


 自分には目立つだけの特徴は持ち合わせてはいなかった。

 集団の影に溶け込んで、誰にも干渉せず、常に架空に潜り込んでいた。


 朝倉マリ。

 落雷したかのように思い出したそれは、紛うことなく、リカの身に理不尽を教えた者の名前だ。

 これを引き金に思い出した未練とは。


「……殺さなきゃ、気が済まない……」


 リカは眼球や肌を黒く染め、憎悪に支配されているのが一目でわかる。

 それを見たキサラはというと、先ほどとは打って変わって冷めた目でリュックを漁り、呪具を取り出した。


「でしたらこちら、《死神の小鎌》は――」


 キサラが呪具の説明を始める前に、リカは《死神の小鎌》を強引に奪い、ガラスの窓を破って屋内に転がり込んだ。


「……キサラ、あれは強盗だよ」

「なら、取り返してくれるかしら?」


 キサラのものではない声と溜息は、むろんリカの耳に届くはずもなく。









「見つけた……」


 一人部屋の扉を開けたリカは、怒りを抑えた低い声で言う。

 その目線の向く先は、目を見開いて怯えを隠せないでいる少女――朝倉マリ。


「か、片桐……あんた、し、死んだんじゃ……」

「死んだよ、死んだ。あんたが私を追い詰めたんだ」


 ゆらりゆらりと一歩ずつ近づくリカに、マリは身動きも取れず目じりに涙を浮かべている。

 いい気味だ。

 だが、それだけでは足りない。


「なんで? なんで私なの? 誰かにああしなくちゃいけなかった? 私が何かした?」

「ぁ、ぁ、ぁ……」


 震える唇から返事はない。

 構いはしない、どうせここで殺してしまうのだから。

 リカは躊躇もなく《死神の小鎌》を振り上げ、鋭利な先端をその脳天に突き刺――


「――おい」


 不意を打つ腕への抵抗、そして威嚇するような低い声。

 後ろから手首を強く握られたことによるものだとリカが理解するのに、しばらくかかった。

 邪魔をしたのは誰だ?

 キッと振り返って睨むと同時に、リカの目は驚きに見開かれた。


 そこにいたのは、学校で出くわしたのと同じ青年だったのだから。


 金色の瞳で自分よりも鋭く睨みつけられ、リカは無意識に脱力し、手から《死神の小鎌》がするりと離れる。

 この隙を見逃さず、青年は素早く《死神の小鎌》を取り上げた。


「ッ、返せ! それで私はあいつを殺すんだッ!」

「強盗品を我が物顔で使わないで欲しいね」


 懐から取り出した布で柄を拭きながら、青年は先程の優しさなど一片も見せない冷たさで応える。


「お嬢に感謝しなよ。本来なら一瞬で地獄送りだ」

「なんなの、あんた……!」

「真っ黒になって、典型的な悪霊化だね。お嬢は僕にばかり荒事を任せる」

「答えろよッ!」

「黙れ」


 ヒッと反射的に悲鳴が漏れた。

 リカはただ睨まれているだけなのに、青年の目には言葉も出ない威圧感がある。


「その辺にしなさいな、ミオ」

「ミ、オ……?」


 黒猫と同じ名前――ミオと呼んだ青年の背から、キサラが姿を現した。

 次から次へと不可思議な現象を目の当たりにしているマリは、喚く余裕すら無いらしい。


「お客様。幽霊と言えど、他者の命を奪うのは罪でございます。しかしその罪は、他界にまで持ち込むことはできません」

「……?」


 急に何を言っているのか分からず、静寂がキサラの次の言葉を待った。


「現世で犯した罪は現世でしか償えない。しかし犯した者が既にこの世にいないとするならば? そう長い時を要することなく、貴方の身近な人物に罪が被せられることでしょう。のろいの力は、そう都合よくできてはいませんから」

「そいつが私を追い詰めてたことはいずれバレる、それでこいつが非難されたって、私は生き返ったりなんかしない! それにこいつはいつか私のことも忘れるに違いない!」


 まるでキサラの話を聞いていない様子のリカに、キサラは特に気にせずふむと唸った。


「だから殺す、ですか。なるほど、どうしても未練を果たしたいのですね。一つの願いに従順な幽霊ゆえに仕方のないことでしょうが……いくらあなたの寿命を積んだところで、私は《死神の小鎌》を売りません」

「なんでッ!」

「近づくな」


 鬼のような形相でキサラに掴みかかろうとするリカを、すかさずミオが制止する。


「誰かがそんな決まりを作ったからだとか、そんなことを言いたいのではありません。私は単に、私の売る呪具をそんな風に使ってほしくはないのです」

「そんな勝手! それでも商人かッ!」

「殺人に使う、ってわざわざ店員に言って包丁を買おうとする奴を店員が放っておくわけないだろう?」

「そんなもん売っといて……!」


 諭すような口調のミオに、リカは視線で必死に抵抗する。

 しかし依然として気圧されている。

 今にも目を逸らしそうだ。


「詳しいことを聞かずに勝手に奪っていったのはあなたです。あれはそもそも、死後自宅の庭の雑草をどうしても刈りたいという幽霊様向けのレンタル商品なのですから」

「…………は?」


 素っ頓狂な声を出し、明らかな動揺を見せる。

 その反応が見たかったと言わんばかりに、キサラはにやりと笑んでみせた。


「幽霊が扱うことができ、現世に干渉する力がありますから、確かに応用すれば殺人も可能でしょう。ですが、それには相応の呪いをその身に受けていただくこととなります」

「そ、それでもいい!」


 リカはなおも殺意に従う。

 キサラは呆れとも諦めともとれる溜息を大きく吐いて、何かを溜めるように息を吸いなおした。


「何度も言いますが、認めません。それにあなたの未練は、殺すことではなく復讐することなのでは?」

「それは――」


 反論しかけて、リカは言葉に詰まった。


「こ、殺さなきゃ……」

「仮にあなたの未練が殺すこと――自身が感じたものと同等の苦しみを与えるものだとしても、殺害にこだわる必要はありますか? 死が最上の苦しみだと言えますか?」


 責め立てるように言われ、リカは動揺を露にする。

 自分でも事細かに把握していないことに言及されてしまうと、途端に自信が無くなる。

 キサラの言うことは、おそらく間違いではない。

 殺害しか思い浮かばなかっただけで、他に手段はあったのではないか――?


 気付けば、リカの体を蝕む憎悪の黒も徐々に薄れていた。


「でも、じゃあ、どうしたら、私は……もう分かんないよ……!」


 幽霊であるリカが流すはずのない涙は、奇妙なまでに綺麗だった。

 目から宝石が零れるようで、しかしそれは幻だというように途中で霧散する。


「……教えてください……私には、何ができるんですか……?」

「あなたが望むなら、何でも。そのための呪具、そのための私です」

「……お嬢、あんまり長居もまずいぞ」


 膝からくずおれたリカを抱きとめながら、遠くから響くサイレンの音を警戒するミオ。

 キサラは特に気にする様子もなく、リュックを漁り始めた。


「私にお任せあれ」


 余裕のある笑みを浮かべながら、キサラは硝子製の砂時計を取り出す。

 その表情と言葉で、リカの心はひどく軽くなった気がした。










 翌朝――朝倉家の長女マリの部屋から、空気が張り裂けんばかりの悲鳴が響き渡った。

 電線に並んだ雀は飛び去り、近隣に住む老人が怒鳴り散らす。

 そんなことを気にするほどの余裕は、マリにはなかった。

 悪夢にうなされ、全身に不快な汗を滲ませて目覚めたかと思いきや、枕元に覚えのない手紙が置かれていたのだから。

 そして。

 手紙には一言「忘れないで」と、その下に書かれていたのは。


 もうこの世にはいないはずの、片桐リカの名だったのだから。










「――どうやら、目的は果たされたようですね」


 建物間の陰で薄緑の光が散る中、キサラが言った。

 その光はむろん、幽霊としての寿命を使い果たし他界へ向かおうとしているリカの発しているものだ。


「《幽霊作家ゴーストライターキット》を入荷していてよかったです。これできっと、あの子はもうお客様のことを忘れることはできなくなります」

「家を荒らした跡も、全部元に戻してもらって……なんか、迷惑ばっかりかけて……」


 足元から段々と輪郭を失いながら、リカは目を逸らす。

 キサラは気にするなとでも言うように、懐からいくつかの小瓶を取り出してみせた。

 薄緑の綺麗な液体が満たしており、しっかりと彼女からもらった(・・・・)ことを示している。


「まあ、正確にはなかったことにしただけなのですが。便利ですよ、《夢オチタイマー》」

「嘘の商品名を言うんじゃない。《夢時計》だろうに」


 わざと間違ったとしか思えないキサラの言葉を、すかさず人語を発して訂正するミオ。

 リカは二人の仲が睦まじいことはなんとなく理解したものの、未だにその構図に慣れてはいない。


「まさか、ミオさんは人に化ける猫だったなんて」

「幽霊相手のお客様も珍しくはないので。人が死んだと聞けば、近くに幽霊が現れていないか、柔軟に動けるミオに調べさせることが多いです。ですが隠し事をしていたのは事実ですから、改めて謝罪いたします」

「……ぼくには謝らないんだね」


 ミオの愚痴が聞こえているのか否か、ごめんなさいとキサラは深々と頭を下げる。深すぎて、背負っている鞄の中身が出て来ないか心配になる。

 リカは別に責めたつもりはなかったのに、急に謝られてしまうと困惑してしまう。


「そんな、謝らなくても大丈夫ですよ。結果的にいいことだったって、今は思っていますから」

「というと?」

「単純な方法にしか気づけなかった私を、あなた達が止めてくれましたから」


 胸のあたりまでが消え、いよいよ完全に消えようかというのに、リカの顔は穏やかだった。

 キサラもきっと、このような場に何度か立ち会ったことがあるのだろう。

 見ているだけで安心できるような、柔和な笑みを浮かべてくれている。

 たとえそれが嘘でも、今のリカには嬉しかった。


「お役に立てたなら幸いです。このままお見送りしますね」

「ふふ。なんだか恥ずかしい」


 正確にはもう死んでいる。

 ただ、幽霊としての死を見られるというのは、不思議とリカにとってくすぐったいものだった。


「生まれ変わることができたなら、またあなたと会えることを心待ちにしています」


 キサラの言葉はきっと、社交辞令というものだろう。

 それでもリカは、精一杯の笑顔で応えてみせた。


「はい」


 安堵に満ちた声と共に、輝きの粒が宙を舞った。





 ■                        ■




 

 リカが完全に痕跡を消した後、キサラはふっと息を吐いてリュックを担ぎ直した。


「さて、人に見られると面倒だわ」

「……きみは相変わらず、甘いね。そのせいで苦労してるよ」

「あら。じゃあ、帰ったらあなたもうんと甘やかしてあげるわね」


 そういうことが言いたいんじゃない――とでも言いたげに、ミオはそっぽを向いた。

 言ってもどうせ、まともに取り合ってはくれない。


「……ぼくも、ぼくだな」

「なにか?」

「なにも」


 文句を言うことより、この後どのようにして甘やかしてもらえるのか。

 既にそんなことばかりを考えてしまっている自分が、ミオは少しだけ嫌になった。

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