もしも白雪姫が脳筋だったら
グワシャ、という音とともに赤い果実は潰されました。
筋肉ではち切れんばかりの手から、リンゴの汁がパッと散ります。
魔女のしわしわの手の二倍くらいはありそうな、大きな手でした。
魔女は、空いた口が塞がりませんでした。
「すまぬ……リンゴを見るとつい、片手で潰したくなるのだ。
我は、リンゴという食べ物は嫌いなのだ。しなびたリンゴを食べたトラウマでな。
それで毎日、リンゴ潰しトレーニングで握力を鍛えている」
毒リンゴと知ってか知らずか、飄々とした顔で白雪姫が言いました。
しかし、この人は本当に白雪姫なのでしょうか。
うっかり、別の人にリンゴを手渡してしまったかもしれませんね。
だって、白雪姫はこんなマッチョではありませんでしたから。
魔女は遠慮がちに尋ねます。
「ええと……以前お会いしたことがあると思うのですが、ちょっと雰囲気が変わった気が……」
「すまぬ、婆様。我はいつ会ったか覚えておらん。
しかし最近、三角筋を中心に鍛えているのでな。
肩幅が若干広くなったかもしれん」
顔は確かに白雪姫にそっくりでした。
黒い髪をお団子にまとめ、青い大きな瞳に尖った鼻を持った、小憎らしいほどの美人です。
が、肩幅だけではなく、全体的に見て恐ろしいほど筋肉が発達していました。
しまった足首の上に、部分ごとに切り取れそうなほど筋肉が盛り上がったふくらはぎ。
エプロンドレスの肩は盛り上がり、服越しに見える八つに割れた腹筋。
なにより、顔の大きさと首の太さが同じです。
白かった肌は、なぜか大幅に日焼けしています。
魔女は笑みを貼りつけ、この人が本当に白雪姫なのか探ろうと話しかけました。
「あの……随分体を鍛えているんですねえ」
「ああ。世界最強の人類になるべく、日々修行に励んでいる」
白雪姫は胸だか胸筋だかわからなくなっている分厚い体の前で太い腕を組み、満足げに頷きました。
……口調も変わっているように思えますが、体を鍛えれば口調も変わるものなのでしょうか。
「実は、我は王国から追われた身だ。
既に父も病で亡くなり、頼る親族もいない。
そしてつくづく考えた。
追われるのは、我がか弱いからだと!
力さえあれば、女王の首の一つや二つひねり潰せる。
というわけで七人の師匠についた結果、我は矢をも跳ね返す鋼の肉体を手に入れた」
……今一瞬怖いこと言った気がするし、そもそも思考が色々間違った方向に進んでいる気がします。
何より、せっかくの毒リンゴが粉々に潰されてしまいました。
そういえば、あの厄介な小人たちはどこにいるのでしょうか。
放った使い魔が、姫は七人の小人に守られていると伝えていました。
「あのう……この間ここに来た時には、七人の男性がいらっしゃったかと……」
「ああ、師匠たちのことか」
白雪姫はふと顔を曇らせました。
「我が全員倒してしまった。全員、泣きながらこの家から出て行った。
もっと強くなって帰ってくると言い残して」
……ちょっと見ない間に、道場破りしていました。
魔女が放心している間に、白雪姫はどすどすと鈍い足音をさせて魔女の脇を通り過ぎました。
慌てて振り返れば、白雪姫は木々のに見える細い道を睨んでいます。
白馬に乗った貴公子が一人、細い山道を通っているのが見えます。
あの顔には見覚えがありました。
隣国の王子です。
と、白雪姫が自信たっぷりに言いました。
「ちょうどいい。あそこに強そうな男がいるな。
我より強い奴に合間見えるとしよう!」
この国で王子がボコボコにされたら外交問題になってしまいます。
しかし魔女が止める間もなく、白雪姫は大股で白馬を追いかけていき、前に回り込みました。
白雪姫が大音声で呼びかけます。
「そこの白馬に乗った武人。さぞかし名のある騎士とお見受けする。
我が名は白雪!
この世で世界最強を目指す者!
ぜひ、手合わせ願おう!」
「……素手で?」
さすがに隣国の王子も、この状況に戸惑っているようです。
何しろ、ほぼ筋肉で作られた少女が試合を申し込んできているのですから。
しかし、白雪姫は自信に満ちた顔で拳骨を叩きました。
「己の肉体以外の武器など我には不要!
己の腕に自信がなければ、剣を抜けばよい。
しかしここを通りたくば、我を倒してからにしろ!」
そのとき、王子はこう思っていました。
めちゃくちゃ美人だけど筋肉がすごい……と。
しかし、こうも思いました。
この女……に見えるマッチョは山賊か何かだろうと。
彼は馬を降りず、嫌々鞘から剣を抜きました。
ちょっと剣をちらつかせれば、さすがの山賊でも戸惑うと思ったからです。
「本当に急いでるんだ。そこをどいてくれ」
「当たらなければ剣などどうということもないわ!」
いきなり跳び後ろ回し蹴りが炸裂し、王子は馬から派手に落ちました。
剣が転がり、王子は慌ててそれを取ろうと手を伸ばします。
しかし、上から白雪姫の鍛えた足が背中にのしかかってきました。
そして右手の関節が逆側に捻りあげられます。
腕ひしぎ逆十字の形で抑えられ、王子は慌てて地面を叩きました。
「ギブ、ギブ!」
そのとき、白馬で駆けて行った王子様を追って、
家来たちが細い道を駆けてきました。
王子様が倒れているのを見て、彼らは慌てて白雪姫に声をかけました。
「お待ちなさい! この方は王子様ですよ」
「なんだと?」
白雪姫は王子様の腕を離して、身を起こしました。
そして、突然高らかに笑い始めます。
「ククク、はははははは!
王子がこの程度の強さなど、笑止千万!
我を雇え、王子よ!
しからばこの王国全てがお前のものとなる!」
王子様はぽかんとして、山賊のようなマッチョを座って見ていました。
なぜなら、それこそが王子の目的だったからです。
本当は、先ごろ王が亡くなった、この国の女王と結婚する予定でした。
が、送られてきた女王様の肖像画は美しいものの、もっと遊びたい盛りの王子は、なんとなく気も乗らずにここまで来てしまったのです。
そして、王子は考えを巡らせました。
このマッチョは使える、と。
魔女はといえば、あまりの白雪姫の趣味の変わりように、毒リンゴ作戦から毒プロテイン作戦に変えよう思い、王子様と白雪姫が対決をしているうちに、お城へと帰ってきていました。
魔法の鏡の前で魔女から美しい女王の姿に変わり、服を着替えていると、外からラッパの音が響きます。
「この城はこれより隣国の王子のものとなる! 者ども、我に続け!」
一体何が起きているのか、と窓を開けた魔女は目を剥きました。
巨体の白雪姫が城の衛兵をなぎ倒し、正面玄関から突破しようとしているのです。
城郭の上から次々と矢が放たれますが、白雪姫が羽虫を払いのけるように腕をふると、矢は一つも刺さらず地に落ちました。
「我が鋼鉄の皮膚に矢や剣など効かぬわ!」
色々と間違っている気もしますが、姫がお城に迫っているのは確かです。
女王が窓を閉めようとした瞬間、白雪姫がくわっと目を見開きこちらを睨みました。
「そこか、女王!」
猛然と突き進んだ白雪姫は、まるですばしこい猿のように、すいすいと城壁を登ってきます。
思わず窓を閉めましたが、すぐにパリンと窓が割られ、白雪姫の太い腕が入ってきました。
「我が筋肉の味を知るがいい!」
入ってきた白雪姫は、悲鳴をあげて逃げようとする魔女の首に躊躇なく片手を回します。
そのまま力を入れ、チョークスリーパーをかけると、魔女はすぐに白目をむいて気絶しました。
「権力など、筋肉と比べればたわいもない!」
白雪姫が魔女の部屋を見渡すと、丸い大きな鏡が目に入りました。
鏡を見ると筋肉の出来上がりを確かめずにおれない白雪姫は、早速鏡の前でポーズをとり始めました。
リラックスポーズからサイド・チェストまで進んだとき、鏡の中に青白い顔が浮かび上がりました。
白雪姫は眉を潜めました。
「なんだこの鏡は。ポージングも映せないとは」
「あのう……この世で一番美しい者は誰かって、しつこく聞く奴はどこかへ行ったんですか?」
「お妃なら我が倒した。もう聞かれる心配はない」
「それはよかった。
真実の鏡とはいえ、一日何回も聞かれるとさすがに疲れるので。
面倒で、娘の名前を言えば怒って解放してくれると思いきや、そのまま継続雇用でぞっとしました」
ポージングを続けながら、白雪姫は鏡に尋ねました。
「鏡よ鏡! 世で一番美しいものは何か?」
「それは、し……」
「筋肉だ! 筋肉こそが、この世で一番美しい!
異論があれば割る! そして消えてくれ、我の美しい腹筋が見えない」
「ですよねー」
このマッチョなら躊躇なく割るだろうと考えた鏡は、初めて空気を読むことを学び、適当な返事をして消えました。
白雪姫は、筋肉を強調する一連のポーズを満足するまでし終えたあと、ぼろきれのようになったお妃を城の兵士に突き出し、自分こそが殺されたはずの白雪姫だと主張しました。
……信じがたいことでしたが、城の兵士達は自分たちまでぼろきれのようになっては困ると、我先に降伏しました。
その後。
「その……いいのかね。白雪姫。私がこの国をもらってしまって」
白雪姫が攻め落とした城の正門で、隣国の王子が困惑気味に尋ねました。
隣国の王子の心境は複雑でした。
魔女が捕らえられたのはよいのですが、白雪姫が姫だと分かった手前、王位は彼女の手にあるのです。
「我が筋肉さえあれば、国などいらぬ」
「しかし、どこに何をしに行くのですか?」
旅支度をした白雪姫は白い歯を見せてにいっと笑い、前かがみになり、上半身の筋肉を強調するモスト・マスキュラーのポーズで言いました。
「我か? 決まっているではないか。この筋肉で、強い奴を倒しに行く!」