>どんなにがんばっても平等公平な世界って来ないと思うのですよ
そうですねぇ
偽りの自由の名の下に
公平を望まない人間を増やす教育を受けて
それを当然と思う社会で育った人間なんかはそれを常識としています。
日本ではそこまでいってませんが最近色々と危なそうな話が聞こえてきますね。
負け組というレッテルで
勝ち負けなどではない人の生き方を勝手に決め付けるかのような
マスコミを利用した「攻撃的な不満を煽る」ファシズム的な世論誘導も頻く見られるようになりましたしねぇ。
問題は
「平等などないんだから公平でなくていいんだ」
という人間の意見が通る社会がいいと思うか
「完全に平等な扱いなどなくてもできる限り公平なルールと扱いをしよう」
という人間の意見が通る社会がいいと思うか
の違いでしょうね。
「ルールに予めハンデをつけて自分達に都合良くしよう」
というのが権力を利用する前者の手口で
「意図的なハンデをつけず公平な競争ができるようにしよう」
というのが後者の一般的人間の望み。
そういう意味では
「法人という法的に人として経済活動をする会社組織に寿命がないのは
明らかに税制として公平ではないし
相続制度も公平な資本主義競争という意味では自由主義の精神には反するのでオカシイ」
などというように常識を疑って
常識は権力者が創りそれは決して変えられないものではない
というように考えられなければ
そして、変えるための行動をしなければ
勝手に「平等公平な世界がやって来る」なんて事はないでしょうね。
「完全な平等など損だと思ってる権力者達とその支持者が平等公平な世界を望まないから来ない」
「不公平を認めて権力に迎合するほうが得だと思ってるから平等公平な世界を創りたいとは思わない」
そう考えるような
損得を第一として教育された人間が多い社会だとそうなります。
「平等公平な世界」が敬遠されるように誘導したがる権力者は多く
そういった「愚民化政策」や「デマを常識と思わせる手口」で造られた権威主義の社会制度を覆す事は個人では難しいですが
「人類の生存戦略である共存原理」に反した
暴力原理を拠り所にする「不平等で不公平」な差別制度は
「人類を衰退させる」間違いである
という広い視野は忘れてはいけないでしょうし
諦めや「理想の敬遠」は人を甘えさせて弱く醜くしていきます。
権力という暴力に従っていきるしかないと考え
「理想は遠くにあって実現できない夢物語」と甘えるた想いに浸るのではなく
「理想とは身近にあって護るべき日常を支えているもの」だと識って
理不尽に抗い続ける覚悟をなくしては
物質的に人間らしく見える生き方はできても
精神的に人らしく生きるのは難しいですので
そういう考え方は
「ありふれていそうな危険」だと想うのですが、如何でしょう?




