>人生なんて死ぬまでの暇潰し
よく聞くセリフで確か元は
欲望に溺れた快楽主義者を皮肉った言葉だったのが
自分を甘やかしたがる人間達の間で、「それこそが真理」というように
まるで信教のように使われだした言葉だったと記憶しています
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どういう事かというと
人生を死ぬまでの暇潰しと定義する事は
人間とは欲を満たすために生きるもので、懸命に今を生きる者を嘲笑う
醜い行為だという事を告げて
刹那的に快楽を満たす事だけを考えて、生きる行為は
時に、疲れ果てた人の心に甘く響くが
多くの人間を破滅するようにしむける誘惑でもあるという警告を示す話が
このフレーズの大元にあったという事です
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「人を信じることが美しいことで人を疑うのは醜いことだ」という
宗教が信者を洗脳するために作り上げた価値観を使って、善人を装い現れる類の詐欺師が告げる甘言。
「あなたは考えすぎだ、もっと肩の力を抜いて生きましょう」
「世の中にはあなたの知らない楽しいことがたくさんある」
「どうせ人はいつかは死ぬのだから、今をせいいっぱい楽しみましょう」
再び己の意志で歩めるなら、一時のやすらぎを得るのは悪いことではないし
その言葉自体が間違っているというわけではない
「人を甘やかす言葉」
だが、それだけを信じる事を人間らしさと呼ぶ事で、多くの人々の努力を否定する者達を
否定して皮肉る意味での
「人生なんて死ぬまでの暇潰し」という意味だったのです
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けれど、自分を甘やかす事を人間らしさと言って、欲望に溺れる事を正しいと狂信する者は
皮肉を皮肉とすら受け取れずに
「人生は暇つぶしそのもので、だから快楽こそを求めて生きるべき」と語り始めました
この手の誤魔化しや混同をする人間のせいで、意味の変わった言葉は割とあります
「てきとうなやつだ」などの「てきとう」は
役人達が「適当に対処する」という意味で使った言葉があてにならないという皮肉が元ですし
「意識高い系」なども、「社会意識の高いふりをしたエセ活動家」を皮肉った言葉が元だったのが、「知ったかぶりの格好つけ」という本質とは別の意味で使われだしました
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「人生なんて死ぬまでの暇潰し」
それをどういう意味で使うかで貴方がどういう人間であるかを決める事ができます
自分を甘やかすために、他者の努力を嘲笑い
「人間なんて、一皮向けば、皆、獣で下種なのだ」と
人の可能性を否定して見限るのか
「麻薬中毒のように快楽に溺れて、人生をただの暇つぶしにしてしまわないように生きるのだ」と
人と自分の可能性を見限らずに信じ続けるのか
信仰として崇めるか
戒めとして心に刻むか
貴方は、どちらを選びます?
あとがき
108を人間の煩悩としたのは確か遣唐使が伝えた南都六宗あたりからだったとか
それから、もうすぐ千五百年でいまや常識のように日常に根ざしていますが
あと百年たてばどうなるか?
そう考えるほど日本の米国化は進んでいます。
それを嫌う者もそれを好む者もそれに何も感じない者もいますが
何も感じない者が増えていけば、この常識もいつかは豆知識になりやがて専門知識になっていくのでしょう。
それは社会への適応なのか?
それとも文化侵略なのか?
何れにしろ人は変り街も変り国も変る。
いつかは日本という言葉も消え去るのでしょうが
それが人類の終わりの時でなければそれも常識の変化の一つ。
何事にも終わりがあるという事で、このエッセイもどきも終わりです。
けれど人類が滅びなければ「終わり」という言葉が消えても「始まり」という言葉が消えても
始まりはある。
ということで
隠居老人の譫言~作者さん、すみません~https://ncode.syosetu.com/n2153ep/
始めます。




