懐中時計
私は小さな汽船会社の雇われ船長をやっている。小さな家畜運搬船を一つ持っているだけの本当に小さな会社なのだが、そこに抜刀隊将校一名と隊士百名を乗せて、八代へ行くよう社長から命じられた。
今、船は抜刀隊を乗せ、九州の東岸に沿って、走っている。仰ぐと、水面を下から見上げたような模様の面白おかしげな雲が青空に浮いている。右舷には緑樹にくるまれた九州の山々が延々と連なるのが見えた。山のふもとの海岸は白い砂浜で漁村が海から引っ込もうとして谷の出口にめり込んでいた。帆掛け舟以上に大きな船はないようで、どの漁村でも腰の曲がった老婆たちが打ち上げられた海藻を拾っていた。左舷に見えるは無限の海である。
甲板に隊士が座り、銀の懐中時計の鎖をボタンの穴から垂らした初老の将校が舳先と操舵室のあいだを往復していて、くるりと反転するたびにサーベルの鞘がぴかりぴかりと光っていた。その光り方が何だか私に何かを命令しようとしているように思えるのだが、こちらはとんと分からない。
船は南へ進んでいるのだが、南へ行けば行くほど、空が暗くなり、海の底から黒ずんだ影がゆっくり浸すように海面に現われ、気がつくと、もうとっくに日が暮れようとしていた。
これでは今日中に八代に着けぬと思った私は機関長にもっと石炭をくべろと命じたが、八代はおろか薩摩半島だってまわることはできないだろうと悲観的なことを言った。
私と機関長のやり取りを将校がじっと見ているのが、妙にうっとおしいので、少し偉いところでも見せてやろうと思って、機関長に、かまわんからどんどんくべろ、と強く命じた。機関長はそれにしぶしぶ従ったが、社長に怒られてもかばってやらないと愚痴をこぼしていた。
私は、是非とも将校の反応を見てみたいものだと思って振り返ったが、将校は手を後ろにまわして、ゆっくりと舳先のほうへ歩いていった。
きっと私に感服したのを見せたくなかったのだろう。抜刀隊の将校ともなると、気位も高いものだ。
日は九州の山々に沈み、尾根に生える松の影が蜜柑の皮色の空にくっきりと見える。ちょうど手の込んだ切り紙芸のようであった。山のふもとの漁村や湯の湧く谷はすっかり闇のなかでこずんでいたが、山の上縁は相変わらず赤く輝いていて、背の高い松の並びを映していた。
船はさらに進むと、とうとう夜になったのだが、左舷の山々の縁は相変わらず明るい。尾根に生える松の影がむしろ夜になった今のほうがよりはっきりと見えやすくなっている。
そこで私は気がついた。あれは戦場の火だ。山の向こうで官軍と薩軍が戦っていて、その業火が山稜の木々を映しているのだ。そのうち、山稜に連なるのが木ではなく、乱杭歯のようなものに変わった。それらは銃砲で撃たれて倒れそうになっている家々で、見る限り、行く先にずっと戦でやられた家々の影がつながっているのが見えた。
このままだと九州は何一つ残さず、焼けてしまうだろう。
「このままだと九州は何一つ残さず、焼けてしまうだろう」
今、私が言った言葉を寸分違わずに将校がつぶやいた。薄気味悪いやつだと思い、目をカチンと合わせてみたが、相手は奥まったガチャ目を二三度瞬かせてから、くるりと背を向けて、サーベルをかちゃかちゃ鳴らしながら舳先のほうへと歩いていった。舳先から操舵室へと返ってくる将校を見ると、彼の目は尾根を炙る炎にとまっていた。火の粉まじりの赤く濁った光がごうごうと音を立てて、黒煙を吹いている。こんなひどいものは初めて見た。こんなに大きな火が出る戦というのは一体どんなものなのか?
私は景色が恐ろしいのと、私の心を読んだかのようにモノをつぶやいた将校の薄気味悪いのに嫌気が差してしまった。甲板に大人しく座っている平の隊士たちはまんじりとも動かず、炎に縁取られた九州の山を眺めているが、彼らを八代ではなく、ここに下ろしてもいいような気がしてきた。
「ここで下ろされちゃ困る」
また将校が言った。もはや疑いない。間違いなく私の心を読んでいる。嫌な将校だと思って、目をそらした先では九州がごうごうと焼けている。稜線の上の傾いだ建物にも火がついたらしく、黒煙が渦を巻いているのが見えた。将校はもう十分戦場の火を見たと思ったのだろう、目を閉じて、また行ったり来たりを始めた。
夜空を見上げると、小さな星から順々に見えなくなってきた。九州の焼けた煙が空に満ち始め、星を一つ、また一つと煤のなかに隠してしまっているのだ。ついに一等星が隠れ、そして、満月に少し齢の足りない月までもが見えなくなってしまった。
光は山の向こうの炎だけとなり、船は赤みがかった深い闇のなかに落ちてしまったようだった。銀線の軍帽をかぶった隊士たちの頭が輪郭を失い、あの気味の悪い将校もいつの間にか見えなくなり、機関長を呼んでも返事がない。
私は九州の山が焼ける様がきゅうに恐ろしくなり、まるで心臓をきゅっとつかまれたように震えが止まらなくなり、涙が目からこぼれてきた。
すると、途端に九州を焼いていた火が消えた。光がなくなり、黒煙が重たげに下りてきて、尾根の影が煤に混じって消えてしまった。
機関も止まって、何も見えない暗闇の中で、潮に乗った舳先が海の水を切る音がひやりとするほど明瞭にきこえてきた。抜刀隊の隊士たちはまるで命のない置物のようにじっとしている。
すると、光のない世界に銀が閃いた。それは将校の懐中時計の鎖だった。
小さな恒星のような鎖の光が揺れながら、私に近づいてくる。
将校は私の目の前に立つと、それまで閉じていたまぶたを開けた。
そこに見えた。
全てを焼く、火の粉まじりの赤く濁った光。