婚約者が従妹を優先するので記憶喪失のふりをしてみた
数多くの作品から目に留めていただき、ありがとうございます。
「君なら一人でも大丈夫だろう?」
思い返せば、最初イード様にそう言われた時、一人なんて嫌、私をエスコートしてほしいと素直に言えばよかったのかも知れない。
私はデューガン伯爵家の長女ディオネ、王立学園に通う十六歳で二年に進級した。紅茶色の髪にマラカイトグリーンの瞳のごく平凡な令嬢。入学前に婚約が調ったイード様はオレイアス侯爵家の嫡男で一歳年上の三年生。
デューガン伯爵家とオレイアス侯爵家が事業提携を結ぶことになり、私たちの婚約は政略的な意味合いが濃かった。しかし初めて彼と会った時、私の目の前でなにかがパチン!と弾けた。
スラリとした長身に長い手足、煌めくハニーブロンドにサファイアブルーの瞳、彫刻のように整った顔に浮かぶ微笑みは神々しくて、私は思わずポカンと見惚れてしまった。温厚な性格で優しく紳士的、非の打ちどころがないまさしく王子様のような彼に私は恋に落ちた。
イード様の顔を見るとドキドキして、声をかけられるとそれだけで幸せな気分になる。ずっと彼の傍にいたい、彼となら幸せな家庭が築けると私は確信していた。
ルミナが侯爵家へ来るまでは……。
キューア子爵令嬢のルミナはイード様の従妹にあたる。ずっと子爵領で生活していたが王立学園入学を機に王都へ出てきて、寮には入らず、親戚であるオレイアス侯爵家のタウンハウスから通うことになった。
ルミナはピンクブロンドにアクアマリンの瞳は常に潤んだように揺らめき、庇護欲をそそる可愛らしい少女だ。幼い頃からイード様を兄のように慕っていた。今までは休暇の時しか会えなかったイード様と同じ邸で生活できることが嬉しくてはしゃいでいた。私という婚約者がいてもお構いなしでイード様に甘える様子は見ていて気持ちの良いものではない。
「ルミナは王都に知り合いもいないし、心細いと言うので付き添ってあげたいのだよ」
それは新入生歓迎パーティーの話だった。
在校生である私たちも参加する。本来は婚約者であるイード様は私をエスコートするのが筋だが、今期入学のために王都に出てきて間もない従妹のルミナが不安だと言うので、彼女をエスコートしたいと言ったのだ。
「君には友達もいるし、僕が付いていなくても大丈夫だろ?」
納得は出来なかったが、私は聞き分けの良いふりをした。
「そうですね、わかりました」
そう言ってしまったことを、後でどれ程後悔したか……。
ルミナはパーティー中、イード様から離れなかった。
愛らしいルミナとイード様のツーショットは絵になった。平凡な私なんかよりずっとお似合いなのは認めざるを得なかった。
二人が楽しそうにダンスをしているのを恨めしそうに見ていたのだろう、親友のヘンドリック侯爵令嬢のエイルと婚約者オブリン公爵令息のアイテール様がずっと私の傍にいてくれた。婚約者を放置するイード様にエイルはたいそうお冠だったが、私は関係のないアイテール様まで巻き込んでしまって心苦しかった。
そして学園生活が始まると、エイルの怒りは増すばかりになった。
イード様とルミナは一緒の馬車で登園する。そしてルミナは休み時間の度にイードを訪ね、もちろん昼休みも共に過ごす。それまでは私の定位置だった場所をすっかり奪われてしまった。
ルミナは家族同然だとイード様は言うけれど、ルミナの気持ちが違うのはハッキリしている。ルミナはあからさまに私にマウントを取っている。
「あなたみたいな地味な人がイードお兄様の婚約者なんて、釣り合わないと思わないの? いくら政略と言っても厚かましいわよ、なぜ辞退しなかったの? 今からでも遅くないわ、身を引きなさい」
イード様のいないところで私にチクチク嫌味を言う、家格も年齢も上の私に対して随分失礼な口の利き方だ。侯爵家に居候している親戚と言っても子爵令嬢であることには変わりないのに、なにか勘違いしているようだ。
「あなたがいなければ私が婚約するはずだったのに、伯父様も事業のために仕方なくそちらの無理を聞いたらしいじゃない」
本当は婚約を持ち掛けてきたのはオレイアス侯爵家だ。様々な事業や商会を手掛けて成功している資産家の我がデューガン伯爵家と縁を結びたかったのは、オレイアス侯爵家の方なのだ。
そんな事情を知らないのか、イード様は仕方なく婚約したと勘違いしているルミナが、私たちの仲を裂こうとしているのは見え見えだ。彼女のあざとい笑みを見るたびに嫌悪感で体が震えた。
そのことにイード様は気付いていないのか、それともわかっていてもルミナを優先するのか、ルミナがこちらの環境に慣れるまで辛抱してあげてほしいと言う。
あの日もそうだった。
「ルミナが体調を崩したんだ、朝から医者を呼んだりバタバタしていて遅れてしまい申し訳ない」
待ち合わせのカフェのテラス席に二時間遅れで現れたイード様が頭を下げた。
その日は小雨が降っていた。テラス席にも屋根があるので濡れはなしかったものの、体が冷えていくのを感じていた。侍女が室内に席を手配してくれたが、私は動く気になれなかった。
「ルミナが心細いと言って泣くから看病に戻らなきゃならない。君ならわかってくれるよね。この埋め合わせは必ずするから」
イード様は席に着くことなく帰って行った。
私は口を挟む機会も与えられずに取り残された。
ルミナは私とイード様が会う日に限って寝込むのだ。きっと埋め合わせの日も同じことになる。今日もイード様が私との約束より自分を優先させたことにルミナはほくそ笑んでいるだろう。
* * *
その夜から私は熱を出して寝込んだ。小雨のテラス席で二時間も待たされたせいで風邪をひいたのだ。夕食の最中に朦朧として倒れて、そのまま三日間も高熱にうなされた。
家族は病気で寝込んだことなどない私が倒れたことに驚き、心配して大騒ぎだったと後から侍女に聞いた。
ようやく熱が下がり目を覚ました翌日、エイルがお見舞いに来てくれた。彼女はそれまでも毎日来てくれていたそうだ。
「良かった、心配したのよ、三日間も高熱が続いていたんだから」
本当に心配してくれていたのだろう、涙ぐむエイルを見て私は言葉に詰まった。ずっと寝ていたから、まだ頭が回転していなかったせいもありうまく話せずに曖昧な笑みを浮かべた。
「ディオネ? 大丈夫?」
ボーっとしているように見えたのだろう、エイルは私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「まだ熱があるのかしら? 焦点が合っていないけど……私のことがわかる?」
その時、ちょうど侍女がイード様の訪問を告げた。
手ぶらで現れたイード様は青白い私の顔を見て、
「いつも元気な君が寝込んでいると聞いて、てっきりけ……まさか本当に熱を出していたなんて驚いたよ」
今、け…仮病と言いかけたわよね、ルミナじゃあるまいし。
「酷いですわイード様、ディオネが倒れてから四日も経った今頃いらっしゃるなんて、婚約者としてどうかと思いますわ」
エイルが軽蔑の視線を突き刺した。
「知らせを受けたらすぐに駆けつけるべきだと思います、ルミナ様が寝込んだ時は付きっきりで看病されているのですよね、ディオネのことはどうでもいいのですか?」
「それは……、健康が取り柄のディオネのことだから大したことはないかと……」
イード様はバツ悪そうに眉を下げた。しかしエイルは容赦しない。
「ディオネのことを大事に思ってらっしゃらないことがよくわかりましたわ。おじ様に婚約者として相応しくないと進言させていただきますわ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃありませんわ、そもそもディオネが風邪をひいたのもイード様が約束をすっぽかしたからでしょ。そのことも報告しますわ、ここのところずっと蔑ろにされていることも」
「蔑ろになどしていない、ディオネはしっかりした子だから一人でも大丈夫だと言ってくれていたし」
いいえ、そんなこと一言も言っていませんが。
「そうだとしても婚約者を置き去りにして従妹を優先するなんてありえません。最近のあなたの行動は目に余るものがあります。ディオネは優しいから強く言えなかっただけで、婚約者なら寂しい気持ちに気付くべきでしょ。だいたい、ルミナ様の病気は本当なのですか? ディオネと約束がある時に限って寝込むなんてわざとらしいですし、それに気付かないあなたはどうかしていますよ!」
よく言ってくれたわ、エイル! 爵位が同じだと強く言えるものなのね。
ヘンドリック侯爵家は歴史ある家柄で、エイルのお婆様は元王女、王位継承権はないものの王家の血が流れている。同じ侯爵家でもランクは上だからズケズケと言えるのよね。
私が口を挟むまでもなく、ちゃんと私の気持ちを代弁してくれるのはありがたい。伯爵家の私が侯爵令息に対して、婚約者に相応しくないなんて口が裂けても言えないもの。
「そんなにルミナ様が大切なら、ディオネとの婚約は解消して、ルミナ様にずっと付き添ってあげればいいのではありませんか?」
エイルの言葉に胸がチクリとした。
そうなのだ、イード様の気持ちがルミナに傾いていることに気付いていても、認めるのが怖かった。こんな扱いをされていても、まだイード様への恋心が燻ぶっていて消えないから苦しいのだ。
婚約解消をイード様は望んでいるだろう、私という邪魔者がいなくなれば、ルミナが言っていたように彼女と婚約できるのだから。しかし、
「ちょっと待ってくれ、僕はディオネとの婚約を解消するつもりなんかないよ」
「えっ?」
眉をひそめるエイル余所をよそに、イード様は予想に反して私の手を握り締めた。
「僕は君を愛しているんだよ、わかってくれているよね」
なにを言っているの???
この三カ月、何度も約束を反故にして、私を蔑ろにしておいて、愛している? 今までそんな言葉、一度も言ってくれたことないじゃない。
イード様は困惑してキョトンとしている私を真っ直ぐに見つめた。
眩しい!
その美貌を向けられると、つい、なんでも許してしまうわ。
「悪かったよ、君が本当に熱を出していたのなら看病したかった、次はそうする」
本当にそうしてくれるの? でも今回はもう治りそうだし、次って言われても私あまり風邪なんかひかない健康優良児だし……。
そうだ! このまま病気のふりをすればいいんだ、ルミナみたいに。それもなかなか治りそうにない病気……。私は熱が引いたばかりでまだ回らない頭で考えた。そして思い付いたのは……、後から考えると本当に浅はかで愚かだった。
「えーっと、あなたは誰ですか?」
それからは邸中が大騒ぎ、私は高熱で一時的な記憶喪失になったと診断された。
* * *
「僕のせいだ。雨の中、二時間も待たせてしまったから……、だから僕が責任を取るよ」
イード様は潤んだ瞳で私を見つめた。じゃあ、お言葉通り責任を取ってもらいましょう。今まで蔑ろにしていた分、ずっと私だけを大切にしてもらいましょうか。
「あなたが婚約者なのですか? じゃあ、私のことをよく知ってらっしゃるんですよね。なにもわからなくて心細い私の傍にいてくださる?」
上目遣いに懇願した。なかなかの名演技、私だってその気になれば可憐な少女を演じられるのよ。
「そうだね、君の記憶が戻るまで傍にいてフォローするよ。もし、記憶が戻らなくても、もう一度、愛してもらえるように尽くすよ」
もう一度って、初めから愛してなんかいなかったくせに……。でも、本当に愛してくれるのなら……私は淡い期待を抱いた。
宣言通り、イード様は翌日もそのまた翌日も学園帰りに花束を抱えて見舞ってくれた。ベッドの横で食事の介助までしてくれる。もう平熱だし咳き込むこともなくなったので風邪は全快なのだけど、過保護すぎるくらい気を遣ってくれる。
「ずっと妹の看病をしていたから慣れているんだよ」
「そう…」
危ない! そうでしたね、なんて口走ってしまうところだった。私は記憶喪失、イード様に病弱な妹がいたことなど覚えているはずがないのだ。
彼の妹イーリス様は幼い頃から病弱で三年前に亡くなっている。高位貴族令息のイード様に婚約者がまだいなかったのは、妹の看病をするためだったと聞いていた。
「風邪をこじらせて肺炎になってしまったんだよ、体力のないイーリスは看病の甲斐もなく儚くなってしまった。だから君が風邪で寝込んでいると知らせを聞いた時、すぐに駆け付けようとしたんだけど、ルミナが仮病に決まっているというから、つい」
ああ、ルミナの言葉を信じたんだ。
ルミナは自分がそうだから私も対抗して仮病を使ったと思ったのだろう。そこに気付いてほしいんだけどな。
「怒ったのかい?」
イード様が眉を下げながら私の顔を覗き込む。
近い!
そんな優しい眼差しを向けられると、
「おや、顔が赤いね、また熱が上がったのかな」
私の額に手を当てる、あなたのその近すぎる距離が熱を上げているのよ!
「だ、大丈夫です、お医者様ももう学園に行ってもいいとおっしゃってましたから」
「ダメだよ! 風邪は治りかけが肝心なんだよ、完全に治さなきゃまたぶり返すからね。もうしばらく安静にしておいた方がいいよ、それにこの食事、病人の胃には重すぎないかな、もっと消化の良いものを出すよう厨房に言っておくよ」
イード様はドロドロに甘やかしてくれる。
幸せだった。
彼が傍にいてくれる、私だけを見てくれる。
なにより、ルミナが体調を崩したと聞いても今は私を優先してくれることが嬉しかった。
でも、それは私が弱っているからだ――ふりだけど――イード様が大切にしてくれているのは、記憶喪失のふりをしている偽りの私だ。弱弱しく頼ると彼は優しくしてくれる。でも、それは本当の私じゃない、本当の私を愛してくれているわけではない。なにも思い出せなくて、見知らぬ人たちの中で怯えている私を護らなければならないと言う責任感からなのだ。
私が怯えているのは確かだ、それはこの嘘がバレてしまうことを恐れているからだ。
私は後悔し始めていた。
あの時、なんで咄嗟の思い付きで記憶喪失のふりなんてバカなことをしたんだろう。
* * *
「いつまで記憶喪失のふりを続けるつもりなの?」
イード様と一緒ではない時を見計らって、ルミナは私を空き教室に引き込んだ。
学園に復帰してから、イード様は毎朝迎えに来てくれる。一緒に登園して、休み時間も様子を見に来てくれて、お昼休みも共に過ごす。
それは私が望んでいたことだ。
ルミナに奪われていた私の場所が戻ってきたが、ルミナは当然気に入らない。以前のように体調を崩したと言っても、私が優先されることに怒りを覚えていることは彼女の吊り上がった目を見ればわかる。
「わかっているのよ、イードお兄様の気を引くために記憶を失ったフリをしているんでしょ、そんな卑怯なことをしてまでイードお兄様を独り占めしたいの!?」
その言葉、そっくり返したいわ。最初にそうしたのはあなたでしょ。でも、それを言うと記憶喪失の嘘を認めることになる。
「でもね、お兄様は責任を感じているだけであなたを愛している訳じゃないのよ、いつまでお兄様を縛り付けるつもりなの!」
彼女の言う通りなのはわかっている、いくら優しくしてもらえても、それは本当の私じゃない、彼の心を繋ぎとめるために自分を偽り続けるなんて間違っているとわかっている。
それに最近ちょっと怖さも感じていた。私を心配するあまりイード様に行動を制限されているような気がして……。私のことを気遣ってくれているのはわかるのよ、でも過保護すぎて窮屈に感じていた。
違和感を覚えていた。なにか違う気がしていた。
それにルミナに見破られているのだ、きっと親友のエイルも家族も薄々は気付いているだろう。でも私の気持ちを慮って黙っていてくれているのだろう。みんなを騙していることが今更ながら心苦しい。
終わりにしなければならない。でもどうすればいいのかわからない。嘘だと正直に明かせばきっと軽蔑されるだろう、婚約破棄確定だろうな。
突然、記憶が戻ったことにする? そうすればまた蔑ろにされる状態に戻るのかしら? 家のために婚約をつづけたままルミナを優先するのかしら?
「あなたになんか負けないわ、必ずイードお兄様を取り戻して見せるわ!」
ルミナはそう言って去って行ったけど、イード様はルミナのモノじゃないわ、私の婚約者なのよ。……今はまだ。
* * *
翌朝は迎えに行けないとイード様から連絡が入った。
そして、遅れて登園したイード様からルミナが階段から落ちて怪我をしたことを聞かされた。
「ルミナは骨折していて暫くは安静にしなければならないんだ」
あら、怪我はイード様の気を引くための嘘じゃなくて本当なのね。骨折だなんて、きっと怪我をしたふりをしようとしたけど失敗して本当に大怪我をしてしまったのね。
そして、信じられない提案をされた。
「僕は君の記憶が戻るまで寄り添うと決めたけど、ルミナも放って置けなくて困っているんだ。そこで考えたんだけど、君は婚約者だからいずれは侯爵夫人の務めをしてもらわなければならないだろ、少し早くなるけど、行儀見習いのために侯爵家で生活してくれないかな、母上も今から執務を覚えてもらえたら助かると言っているし、君が侯爵家に来てくれれば、ルミナの看病をしながら、君と一緒にいる時間も作れるだろ」
私は暫し言葉を失った。
なにを言っているの? 結婚は私が卒業してからだから、まだ二年近くある。その間、ずっと侯爵家で生活しろというの? しかもルミナのいる邸で。
「ちょっと待ってください。ルミナ様はお医者様にかかっているのでしょ? 侍女もいるのですし、イード様が看病する必要はないのではありませんか?」
「重症なんだよ、もしかしたら一生歩けなくなるかも知れないんだ。ルミナはずっと泣いていて、傍についていてあげなきゃならないんだ」
だからあなたが看病するの? 婚約者が他の女性に寄り添う姿を見るために私は邸へ行かなければならないの?
眩暈を覚えた。
「ベッドから出られないルミナを見ていると、妹のイーリスを思い出すんだ。幼い頃から病弱ですぐ熱を出して寝込んでいた。侍女には任せられないから僕が看病していたんだ。僕が傍にいると安心すると言ってくれてね、母上も僕の献身は真似できないと感謝されていたよ。でも看病の甲斐なくイーリスは儚くなった。もっとしてあげられることはなかったか、もっと気を付けてあげていればよかったと後悔したんだ。だから二度と後悔したくない、ルミナが歩けるようになるまで全力でサポートしてあげたいんだ」
「ルミナ様を選ぶのね」
「そうじゃないよ、……記憶喪失になる前の君なら、僕の気持ちを理解してくれていたはずなんだけどな」
そうね、嫌でも我慢していたかも知れない。でも、今は違う。
「歩けるようになるまでって、いつまでなんですか? もし、一生歩けなければ、ずっと寄り添い続けるのですか?」
「……そうだね、不自由な身体じゃ結婚も難しいかも知れないし……我が家で起きた事故だから責任をとならなければならない。でも心配しなくていいよ、結婚は君とする、正妻になるのは君だから」
正妻……その言葉で理解した、ルミナにも情けをかけるつもりなんだ。
私の中でなにかが崩れ落ちる音が聞こえた。
私は結婚する前から愛人が居座る家に嫁ぐことになるかしら?
結局、イード様は私だけを選んではくれないのだ。
記憶喪失のふりをして、自分を偽って彼の気を引いても、彼は私を選んではくれない。
なんのためにこんな愚かなことをしたんだろう。
「わかりました」
「よかった! 君ならそう言ってくれると信じていたよ」
イード様は輝く笑顔で私の手を握ったけど、私は彼の目をまともに見ることが出来なかった。
「でも、両親にも相談しなければなりませんから」
「そうだね、僕も一緒に」
「いいえ、私は一人でも大丈夫ですから」
* * *
私は家族に記憶喪失なんて嘘だったことを打ち明けて平謝りした。
そして、なぜそんなことをしたのかも両親に説明した。
「気付いていたよ、でもなんで記憶喪失のフリなんかしているのだろう、なにか訳があるのだろうとは思っていたが、そんな理由だったとはな」
父は大きな溜息を漏らした。
父も母も気付いていたなんて意外だった。
「気付いていたの?」
「当たり前だろ、親なんだから」
「お父様もお母様も、私なんかに興味はないと思っていたから」
「バカなことを言うな、大事な娘なのに」
「そうね、あなたにそう思われても仕方ないかもね。下に四人も手のかかる弟妹がいるでしょ、ついしっかりした長女だからと安心して放置しすぎたかも知れないわ。ごめんなさいね、寂しい思いをさせていたのね」
母は涙を浮かべながら謝ってくれた。叱られると思っていたから予想外の言葉に私の目頭も熱くなった。
「それにしても、浅はかなことをしたもんだ」
「ええ、反省しているわ。イード様をお慕いしているから繋ぎ留めたかったのよ。でも彼から愛されることはないとわかったの。結婚する前から愛人がいる家に嫁ぎたくはないわ」
「それは本当なのか? イード様が怪我をさせたわけではないのだろ? 責任を取る必要があるのか?」
「私にはイード様の考えが理解できないわ。それにルミナ様が愛人の座で満足するはずない、きっと私を追い出しにかかるでしょう」
これ以上、ルミナとイード様を取り合いしても、泥沼に陥るだけで明るい未来は欠片も見えない。
「わかった、なんとかしよう。政略結婚と言っても、お前が不幸になるような結婚を望んでいるわけではない」
それから父の行動は早かった。
私は記憶喪失の治療と称して、医療先進国の隣国へ渡ることになった。いつ帰れるかわからないので婚約は白紙に戻してもらった。
イード様は最後まで猛反対したけれど、父がオレイアス侯爵を説得して、家同士の決定として決着させてくれた。
* * *
「そんなことだろうと思っていたわ」
エイルにもすべてを打ち明けた。やはりエイルも気付いていたが様子を見守っていてくれたのだ。
「そこまでイード様に執着している女が居座っている家に嫁ぐなんて地獄でしょ。本妻を迎える前から妾がいるなんて、侯爵夫妻がよく許しているわね、醜聞でしかないのにね」
「あくまで親戚を預かっているというスタンスで通すようだわ」
「結局イード様はルミナとあなた、両方を手に入れようとしているのね、そんな不誠実な男と結婚しても幸せにはなれないわ、逃げるのが正解よ」
「私って殿方を見る目がなかったのね、麗しい見た目の虜になってしまって……でも彼は優しかったのよ、彼が好きだったの」
涙が零れた。でもこの恋を終わらせなければならない。
「大丈夫、きっと隣国へ行けば新しい出会いがあるわよ」
「いやいや、失恋したばかりで、当分はそんな気になれないわよ」
その後、私はイード様と会うことはなかった。さよならも告げずに一人で隣国へ旅立った。だって、会えば決心が揺らいでしまいそうだったから……こんなことになっても、まだイード様が好きだった。今もイード様の顔を見るとドキドキして、声をかけられるとそれだけで幸せな気分になるあの感覚が忘れられない。ずっと彼の傍にいたかった。
ルミナに負けて逃げ出すようで悔しかった。
私だけを選んでほしかった。
* * *
あれから二年、私は一度も母国に帰らず隣国の学園で卒業を迎えようとしていた。記憶喪失? そんなものはこの国へ来た時点でもう有耶無耶になっていた、私はただの留学生だった。
エイルは卒業したらすぐにアイテール様と挙式する予定だから、新婚旅行でこの国を訪れると手紙で知らせてくれた。実現すれば二年ぶりの再会となるからとても楽しみだ。
手紙のやり取りはずっとしていて、イード様の近況も書かれていた。
イード様は先日結婚されたそうだ。相手はルミナかと思ったがそうではなかった。
『深窓の公爵令嬢よ。生まれつき目が不自由で、ほとんど外には出ずに邸に籠っていた方だから、あなたは知らないでしょう』
そしてルミナは。
『ルミナは子爵領に帰されたわ。骨折した足は完治していたのに歩けないふりをしていたことが露見したのよ。イード様はもちろん侯爵夫妻も激怒されたようだわ。侯爵家を謀ったのだもの追い出されるくらいで済んでよかったんじゃない』
そうか……、イード様は看病する必要がなくなったルミナを追い出して、一生、献身的に支える相手を選ばれたのね。
結婚を諦めていた公爵令嬢もご両親の公爵夫妻も大喜びだそうで、支度金も莫大な金額が用意されたらしい。しかしイード様はお金目当てではないだろう。彼は弱い人を一途に支えて、周囲から〝優しい方ね、普通はなかなか出来ないこと〟と賞賛されることに喜びを感じるタイプの人なのだ、今ならわかるわ。
あの頃に感じていた違和感の正体はこれだった。
彼は優しいと言われる自分自身酔っていた、そんな自分自身を愛しているのだ。私は最初から最後まで私自身が愛されることなどなかったのだ。
エイルに結婚式に参加できない謝罪の手紙をしたためた。そして、私の近況報告も……。
二年前、母国の王立学園新入生歓迎パーティーで、イード様が婚約者の私ではなくルミナを優先した苦い記憶から、パーティーは苦手になってあまり参加しなくなっていたけれど、克服させてくれる人が私にも現れたと打ち明けた。
キアン・スノトラは学園で知り合った辺境伯令息。キアンはイード様とは正反対で、外見も黒髪に群青の瞳でクールに見える精悍な顔つき、優しいほほえみや甘い言葉はなく、口数が少なく不器用な人だけど誠実さは伝わってきた。
顔を見るだけでドキドキする、声をかけられるとそれだけで幸せな気分になる、なんて甘い恋ではなかったけど、いつの間にかイード様のことは頭から消えて、キアンで埋め尽くされていた。
ちなみに元婚約者との間で、私がバカなことをした過去も打ち明けている。
そして卒業パーティーを前にプロポーズされた。
もう両親の承諾も得て、我が家にも打診済みだとか、根回しは万全だった。
『彼はそのままの私を愛してくれているわ。二年前は迷惑をかけてしまったけれど、卒業パーティーはキアンがエスコートしてくれるの。私を一人で放置したりしないから安心して』
おしまい
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