小説 日航機「もく星」号遭難とその後
伊豆大島は現在航空スポーツ愛好者にとっては、関東地域の近場飛行の目的地になっている。いわば目先のもっとも安全な島であり、大島飛行場は庭先のようなものとなっている。なぜ1952年代はそれほど飛行困難な航空路だったのか疑問に思い筆を執った。私はアマチュアパイロットで大島飛行場を仲間と数回訪問し、また三原山を見下ろす高度から旋回して火口を恐る恐る観察したこともある。
小説 日航機「もく星」号遭難とその後
日航機「もく星」号は昭和27年4月9日朝7時30分頃、曇り空の下、羽田空港の南北方向滑走路をほぼ南に向かって滑走し、その後ゆっくり離陸し、一路大阪の伊丹空港に向かった。東京湾を上昇しながら浦賀水道上上空に出て、館山と三浦岬との中間上空を通り、次第に高度を上げて、大島上空を通り本州沿いに西南西に航路を取る予定である。マーチン202型機(機種名)はゆっくり高度を上げていっても、13分後には悠々と大島三原山の2477フィート(755M、比較例筑波山:2874フィート)を飛び越して遠州灘の沖合いをブーンブーンと共鳴音を響かせながら関西方面に向かう予定であった。
羽田空港と大島間は直線距離で50マイル、マーチン202型機は時速300マイルで飛ぶので、50マイル/300マイル=1/6時間として約10分後に大島上空に着く。実際には上昇時は速度が7割程度になるので、この遅れを勘案して13分から15分後には確実に大島上空に居ることになる。
3月の終わりから4月に掛けて、日本列島には温帯低気圧が盛んにやって来る。それは冬の北方寒気が弱まる季節になると、中国大陸東南側で、南の海上の気団が次第に暖まることで、昔から台湾沖に低気圧群が次々に発生する。低気圧群は時間の順番に琉球列島を覆いながら通過し、勢力を強めて日本列島を通り、北東のアリュウシャン列島沖の北太平洋に抜けて行く。これらは東アジアの海洋民族では「台湾坊主」と呼ばれ、琉球列島の沖縄では島言葉で「スーマンボースー」と言う。「台湾坊主」はこの海洋列島住民にとっては、お馴染みの強風と寒いぬか雨をもたらす、初夏先の香ばしい季節の到来である。
台風・暴風馴れしている琉球・沖縄の糸満漁民や島の漁師や海上運送で生計を立てる業の人々は、「スーマンボースー」をそれほど恐れはしないが、要注意風雨とされ、無茶な船出や浜遊びは控えている。「スーマンボースー」による雨風で船の沈没や漁船の遭難は過去に起こっていない。しかし「台湾坊主」は次々と発生するので、先発生とその後発生のものが、日本本州のド真ん中で、合流し2倍勢力の温帯低気圧に成ることがある。
1952年4月9日のグリニッチ(GREENWICH)標準時間21:30(日本標準時間07:30)に、羽田空港発の日航機「もく星」号はこのような、温帯低気圧の影響下を出発した。その地域の地上や上空にいる気象観察者が周囲を見渡すと、低い雲で遠くが見通せない視界不良で、霧雨が雨粒に変わり、肌寒い空模様であった。
グリニッチ標準時間はZURUR TIME と略称し、日本標準時間はJAPAN STANDARD TIMEでJSTと略称する。航空用語では聞き取り難い数字は無線通信中には雑音と紛らわしいので、特別な読み方を民間国際航空条約で定めている。例えば、数字3のTHREE は「トゥリー」と、9のNINE は「ナイナー」と発音する。日航機「もく星」号の正式なコールサインは、機体番号N93043だから、ノーベンバー(Nの呼称)ナイナー トゥリー ゼロ フォァ トゥリーとなる。
戦後日本の航空分野再開では、多くの生き残った旧パイロット中のまだ卵であった2、3人が、成立間もない航空局に公務員として呼ばれた。彼等は旧航空機乗員養成所の卒業生として「戦闘隊」や「特攻隊」を目指したが、遅れて来た(軍国)少年であり、飛行機を取り上げられた二十歳前の青年であった。彼らが中心となって、1948年:昭和23年から1952年:昭和27年にかけて米、英の航空法が研究・翻訳された。これら翻訳資料を基にしてサンフランシスコ平和条約が1952年:昭和27年4月28日に発効するやいなや、その年7月15日に国会で航空法が制定された。日本では敗戦(1945年)以前には、民間人や民間企業が航空機を運航することがなく、運航が予想もされなかったので、空の安全規則としての「航空法」は存在しなかった。しかし当時の先進国フランス、英国、アメリカ、ドイツには既に曲がりなりにも「航空法」が存在していた。
1951年:昭和26年8月に国営の日本航空株式会社が設立され、10月25日、1番機には地球の兄弟である巨大惑星の名前を借りて、米国籍の機体N93043(機体固有名称)を「もく星」と命名し、その年10月25日から東京―大阪に就航した。続いて同じ米国籍のN93049を「すい星」、N93041を「きん星」、N93061を「か星」、N93060を「ど星」と命名した。羽田空港は1952年:昭和27年7月1日に返還され、同年10月まで、「もく星」以外の兄弟4機が国内6大都市間に就航した。明るい未来を目指してN93043「もく星」号もこのような時代背景を担って離陸した。
国際標準時間はイギリスロンドンのテームズ河畔にあるグリニッチの経度の東経0度とした00:00から経度に応じて地球を無理に24分割(実際は360度で24分割は無理)して定められている。この設定だけは、国家間の権力闘争というより、国際間を飛ぶ航空機の安全性を第1目的に設定された唯一の平和国際取り決めである。グリニッチの東経0度とした00:00に対して、日本は東に位置し、太陽が一番先に昇るので、イギリスロンドンより9時間早く、09:00である。日本人が昼間必死に働いている時、飲んべーのロンドン市民でもベッドで寝入っている時間である。地球上を飛行中の全ての航空機が飛行時間をこのグリニッチ標準時で発表してセットすることで、同時刻には互いに相手が何処にいるか判断し、空中衝突を避けている。
55年後の2007年4月9日に、べンチャー企業のオーナー石井正が台北を訪問し、啓徳空港の食堂で88歳の老人に会った。べンチャー企業と言っても石井は65才で、ベンチャー仲間では長老格である、日本のベンチャー世代はこの「もく星」号遭難事件の後に生まれた40代、50代が主役である。
台湾テレビのニュースでたまたま日本関係のニュースが流れた。垂直尾翼に日章旗を描いた昔のプロペラ旅客機が映し出されている。漢字を拾うと、何か古い物語風のニュースで「木星号」という漢字と大島、三原山、日本航空の文字と1952年4月9日が表示された。石井の前のテーブルの老人は身震いして立ち上がろうとしたが、付き添いの娘らしい中年の女性が支えて助けようとしている。老人は、「アーもう55年もたったのか」と小さい日本語で呟いき叫んでいる。この老人こそ遭難した「もく星」号の乗客の一人で、元日本人戦闘機パイロットの長田祥司である。 ⑥
その日の夕方、都市設計デザイナー坂本洋介が上海の豪華飯店のレストランでワインを飲んでいる時、前のテーブルの席でチャイナ服を着た一人の背が高く痩せたい高齢の女性が日本人のビジネスマンと何やら真剣に話し込んでいる。内容は、アメリカの航空関係公文書が今日公開されたが、日本の古い航空機事故の調査報告書だという。2人とも真剣で顔が引き締まった表情である、この高齢の中国婦人こそ、「もく星」号遭難から生き延びたスチュワーデスのコウチュウである。
さてマーチン202型機は大型の星型ガソリンエンジンを2基装備している、しかし高度獲得機能は低く、通常飛行は富士山より少し高い5,500M前後であり、例えば羽田から富山湾に向って、北アルプス越えをするにはなかなか困難な機体性能である。5,500Mというのは、大気の対流や風、低気圧が元気に暴れる空気のド真中であり、航空機が春の中緯度低気圧(台湾坊主)の絶好の餌食になる飛行高度である。しかし13分後に低い2477フィート(755M)程度の大島三原山を飛び越すには十分な上昇力を備えており、性能的には問題にならない。
通常夜間照明に点燈される滑走路燈は白色光の長い長い長方形の明かり群であり、夜間や霧や曇りの日に離隔陸する航空機に滑走路の方向と位置を示す。この日の朝は雲が羽田沖に降りて霧となり、上空は雲で覆われていた。駐機場から滑走路に至る緩いカーブの誘導路には黄色いランプの列が管のように並んで滑走路まで続いている。マーチン93043は足元の黄色いランプの列の管の中をゆっくりと通って行った。
行く先で白色光の長い長方形の明かりに囲まれた滑走路に入り、マーチン93043は先き細りした白色光の長い長い長方形の明かり群の中を思い切り走りだして、どこまで行っても果てしないように見える長い長方形の明かり群を後方に流していつの間にか地上を離れて行く。機内から後ろを振り返ると今度は逆に後ろ向きに先細りした白色光の長い長方形が次第に小さくなっていく。霧雨と曇り空の下にマーチン93043は飛び去っていった。
離陸時のマーチン93043の二つのエンジンは、機体が滑走して浮き上がり上空30M(羽田沖の海上)程度にまで全出力100%で回転しプロペラを回している、この状態を長く続けるとエンジンが焼き付けてしまうので、その後出力を少し落とした90%程度に設定して、そのまま地上管制から指示された高度まで上昇する。指定高度になると巡航速度に調整されるので、エンジン出力は更に低い70%から80%程度に設定される。船や自動車のエンジンと違うのは、飛行機のエンジンは離陸時に毎回全出力100%を必ず実行させられ、常に過酷な労働を強いられている機械となっている。
今回の気象では1歩先が見えないほどひどい視程ではなく、滑走路先の数百M先の海面が見えたので、離陸は許可されマーチン93043は離陸した。今日の航空管制権が厚木にあるとは言え、羽田の滑走路は厚木から見える訳ではない、直接の離陸管制は羽田のタワー(観測塔)から米国人による管制官が指揮した。その傍には研修中の日本人管制官中村徹がぴったりと着いていた。中村徹もまた遅れて来た(軍国)少年として、生き残った旧パイロットの卵であった、空を飛びたいが敗戦国民には禁止されていた、せめて飛行機のそばに居たい一心で見習い航空管制官の仕事にかじり就いたのである。
さて、厚木の航空管制は、駐機場にいる「もく星」号が発した「羽田から大阪伊丹まで飛びたい」という要求に対して、何時離陸させるか、何処に向って離陸させるか、どの程度の上昇率で高度幾らまで上昇させるか、航路をどのように設定するかを決定し、「もく星」号と羽田のタワーに通知する。この決定を羽田のタワーにいる管制官ギブソンが受信し、この決定に従い管制官ギブソンが無線で、「もく星」号:マーチン93043に再度通知する。
管制官ギブソンは駐機場位置から途中の誘導路を指示して、「もく星」号を離陸用滑走路まで案内し、当該滑走路の離陸位置に着くとそこで待たせる。そこで厚木管制から決められた離陸時間まで待機させて、マーチン93043に離陸許可を与える。但し離陸位置に着いたマーチン93043に急に不調が発生したり、滑走路上に異常が発生した場合は、双眼鏡で観察している管制官ギブソンが離陸を中止させたりできる。しかし他の航空機との空間位置関係は厚木が完全に管理・掌握しているので、管制官ギブソンは決められた離陸時間を変更することは全く許されないし、他の航空機との相互位置関係(空中衝突を避けるための判断)情報は与えられていない。
羽田を離陸した「もく星」号は、視界不良のため厚木基地の空路広域管制センターにレーダー誘導を要請した、特に航路上には比較的高い2477フィート(755M)の大島三原山があるので、そこを通過するまでの誘導を頼んだ。また航空交通管制の通信音声と混同しないように、レーダー要請用の電波周波数・チャンネルを使用して交信した。「もく星」号と厚木基地との交信は、羽田米国人管制官ギブソンと研修中の日本人管制官中村徹とがモニター(傍受)している。交信はすべて早口の英語である。
「もく星」号から厚木レーダーサイトへ、
―こちらN93043 マーチン202 JAL「もく星」号 厚木レーダー オーバー(どうぞ応答願います、の意)。
―こちら厚木レーダー、N93043 マーチン202 JAL「もく星」号 ゴーアヘッド(続けて下さいの意)。
―ラージャー(交信確立確認、続けます、の意)こちらマーチン93043(N93043マーチン202 JAL「もく星」号の略称を使用) 厚木レーダーへ 羽田を22:30(グリニッチ時間)に離陸、現在羽田の南南東15マイル地点、高度1,500フィート、速度250マイル、 大島に向けて、1分間に400フィートで2千フィートまで上昇中 オーバー(今回送話終わり、今度は君の番だの意)。
―ラージャーこちら厚木レーダー マーチン93043、ゴーアヘッド(何をして欲しいか)続けて応答せよ オーバー
―ラージャーこちらマーチン93043、 厚木レーダーへ 航路上に厚い雲があり、大島の三原山通過までのレーダー誘導を頼むオーバー。
―ラージャーこちら厚木レーダー マーチン93043へ、 レーダー誘導 了解 トランスポンダーを1,101にセットして、IDボタンを2回押せ オーバー。
―ラージャーこちらマーチン93043、 厚木レーダーへ トランスポンダーを1,101にセットし、IDボタンを2回押した オーバー。
―ラージャーこちら厚木レーダー マーチン93043、 1,101でスコークIDを確認した、貴機体は今大島北北西35マイルにある、そのまま高度2000フィートまで上昇せよ、以後の上昇は後で通知する、 オーバー。
気象レーダーでは富士山頂からマイクロ波を発射すると、途中で雲にあたり、雲の高さと厚さ(濃さ)に応じて電波が跳ね返ってくる。この帰ってきた電波の強弱を映像として電子スクリーン画面で見ることで、雲の位置と高さと広がりが判定できる。戦争中に、夜間や曇りの日に襲ってくる敵機を捕捉する場合も基本的には気象レーダーと同じ方法である。しかし積極的に航空管制官に把握してもらい、飛行アドバイスを受ける民間航空機では、管制レーダーの電波を受けると、別の周波数で管制官側のレーダーに積極的に応答する装置のトランスポンダーを装備している。
この応答時に、現在のコンピュータによる電子メールで自己アドレス山田等を付記するように、識別番号をその都度スコークID 1,101と指示されたように応答している。霧や雲の中を飛行機が飛んでいても、応答した機影が輝く太い点となって、地図と重なって表示され、電子スクリーン画面に現れるようになっている。すると管制官はレーダー誘導を要求した機体が雲の中でも何処にいるか正確に判断できる。
米人パイロットが、しばしば正式名称のN93043マーチン202 JAL「もく星」号をマーチン93043と略称するのは、国籍のN(アメリカの国際記号でJAは日本)は不要、何故なら世界の飛行機はアメリカ製で「N」(読み方:ノーベンバー)を言う必要はなし、必要な製造会社名マーチン社と登録機体番号93043とで充分である。リース先や使用者が誰であろうが構わないとの自信と自惚れ、機体が特定されればいいと誰もが信じて疑わなかったからである。
このようにしてJAL「もく星」号は、厚木レーダーに誘導のため捕捉された、機長ジョンは安心して、副操縦士に「君舵を頼む」と言い、インターコムでスチュ―ワデスのコウチュウにコーヒーを頼んだ。機体は雨混じりの雲の中を多少の心地よい揺れを伴ないながら一路大島上空に向った。乗客一同は雲中飛行で窓外が灰色の雲であっにもかかわらず何の不安も抱かず、自分の座席に身を委ね、殆どは早朝出発の早起きのために、ウトウトと平和な眠気に襲われていた。
英語に不慣れな研修中の日本人管制官中村徹は、一言も聞き逃すまいと必死の努力でこれら英語による管制交信を聞いていた。その時少々厚木との最後の通信が気なった。
即ち「こちら厚木レーダー マーチン93043へ、レーダー誘導中、羽田離陸後大島に向け2,000フィートまで上昇せよ、その後2,000フィートを維持して飛行せよ、次の上昇高度は追って指示するオーバー」。「ラージャーこちらマーチン93043、 厚木レーダーへ 了解 羽田離陸後2,000フィートまで大島に向け上昇する、その後の指示を待つ オーバー」。管制官中村徹は知っている、三原山は2477フィート(755M)ある、高度計器の誤差に安全値を含めて、早めに高度を3,000フィートまで取らないとぶっつかる恐れがある。厚木も当然この状況を知っていることだろうと気になったが、少し様子を見ようと自分を落ち着かせた。
後年になって、日航機ハイジャックのダッカ事件で、時の総理大臣鈴木は、「人の命は地球より重い」と言った、しかし人の命は相対的なものである。毛沢東は日航機「もく星」号の搭乗員37人全員を簡単に殺害しようとした。国民党の航空隊設立を阻止するためである。
「もく星」号には国民党航空隊設立準備メンバー6人の日本人が搭乗していた、これに対して中国人民解放軍の決死隊の女性スパイが機長を含む乗客全員に対して墜落死を企てた。機長ジョンと副操縦士と乗客に眠り薬を飲ませるだけでよかった。確かに飲まない乗客もいたが、機長と副操縦士は確かに飲んだ。後は三原山に接近する時を待てばよかった。決死隊の女性スパイはなんと、当機のスチュ-ワーデスであった。
この事件は3ヶ月前から計画された破戒工作であった。この背が高く、細面美人の美人スチュ-ワーデスは機体が三原山に衝突する直前に非常口を空けて超小型のパラシュートを素早く身に付けて5「もく星」号から飛び降り、無事着地し夜陰にまみれて逃走していた。
国民党航空隊設立準備メンバー6人の日本人は、日本各地の戦時中の飛行学校の卒業生で、中国大陸、台湾、沖縄、ビルマなどで敗戦を迎え、飛行機乗りとしては、空で燃焼仕切ることなく、屈辱の敗戦を迎えた20才から25才前後の青年達であった。
中国大陸において、国民党の蒋介石は毛沢東の共産軍との地上戦での敗色を予見し、台湾島へ退避したが、台湾には航空部隊らしきものすらなかった、しかし彼は日本軍が行なった重慶爆撃を真似て、内陸の共産軍を空から叩く構想を練っていた。国民党軍隊内から選りすぐった軍人を集め、戦闘機パイロットを急ぎ養成することにした。
当時アメリカは対中国戦争の深みに嵌ることを恐れて、毛沢東の共産軍と直接ことを構えるつもりがなかった。またアメリカの現・元軍人パイロット達が直接、国民党軍人に航空機操縦教育を行なうことも、ドイツと日本が敗れてやっと平和になった世界の目から咎められることになるので、避けたかった。
美人スチュ-ワーデスは旧満州生まれの22才、日本人の父と中国人の母親との間に生まれた女で、理知的であり、語学に秀でていた。当時の中国には、毛沢東の共産軍と生活をともにして、「中国の赤い星」のレポートで毛沢東を広く世界に知らしめたジャーナリストのエドガースノーや朱徳の生涯「偉大なる道」の著者アンドレスメドレーが滞在していた。
スチュ-ワーデスの父は旧満州鉄道の技師、母は旧満州国の中国人役人であった、名前を中国名をコウチュウ、日本名を中田美子と名のった。彼女は日本語と中国語と北京語と英語とロシア語を自由に操った。
中国名コウチュウ、日本名中田美子は国内動乱中に多感な思春期を迎え、その中で唯一の希望を求めて西側ジャーナリストの英文本を読みあさった。読書を通じて感想文を送るうちに密にアグネス・スメドレーに会い、彼女から20世紀後半に来るべき新アジア観の展望と予想と指導理論を学び、近未来への生き抜く強靭な魂の教育を直接受けていた。
コウチュウ自身の母親が生きた、混迷し、殺戮と侵略に犯された我が中国を救うのは、唯一人民軍の創設者・指導者である毛沢東であるとの、確固たる信念を心の内に徐々に構築していった。日本敗戦後1945年11月に父は敗残民間人として日本の舞鶴に上陸帰国したが、母親は新中国の再生を望んで満州に残ることになった。15才のコウチュウは父とともに日本行きを望んだ。
早熟の美人少女の頭脳と心に何が芽生えていたか誰も知らなかった、各人が生きるだけに精一杯の時代には一人の少女の思いなどにかまける余裕などなかった。このようにして、新アジア平和を目指す少女の胸に、来るべき時に備え、孤独で聖域となった思考の中で、余りに純粋な中国人民軍への挺身思想が育まれていった。
1949年10月に毛沢東は内陸部で蒋介石を完全に破り、中華人民共和国が成立した、その戦いでは、何百万人が命を落とし、人命の重さは実に1枚の木の葉程度であった。翌年の1950年にはソビエトが後を押す北朝鮮と、アメリカが支持した李承晩政権の南朝鮮とが戦争を起こし朝鮮戦争が勃発した。同一民族間で血を血で洗う骨肉の戦いが始まり、数十万人が殺しあった。1952年の「もく星」号遭難は朝鮮戦争最中に起きた、朝鮮半島停戦の前年である。人の命はイデオロギーの下では、相変わらずハガキ1枚の値段程度だと世界の政治家と軍人達から思われていた。
新中国、中華人民共和国を生存させるためには、世界戦略上特に対アメリカ戦略に対抗している中国人民軍にとっては、「もく星」号の機体価値と搭乗者の人命の全てが、木の葉1枚程度のものであった。
航空隊設立準備メンバーの一人は、大阪生まれで、旧松本航空訓練所の出身で名前を、長田祥司といった。長田祥司と航空隊設立メンバー5人は残存特攻隊員として、日本敗戦とともにその人生は一度死んだ若者達である。敗戦を迎え無念にも生き延びて、その精神的な思想的なエネルギーの方向を大戦後アジアの再起にその身を捧げると一途に思い込んでいた。
長田祥司は大阪天神の昆布卸業者の長男である、早稲田大の仏文学科に進んだ、昭和18年3月に学徒召集で、まず水戸霞ヶ浦近くの水戸航空機乗員訓練所に入隊した。戦争中ではあったが、フランスの新進作家サン・テクジュペリの真新しい航空小説は日本にも入っていた。まだ翻訳はなく長田はヨチヨチのフランス語理解力で、三省堂の仏和辞書を片手に興奮しながら読み下していた。
軍事召集時には、一般に健康診断が実施される、長田祥司はその時代に最も重要視された結核検査をゆうゆうパスし、5体健康であった。更に視力、聴力、平行感覚、肺活量、筋力が戦時中の青年としては、正常であり、外部から五感に向けて与えられた刺激には、敏感でこれらに対する反応速度が良かった。両親は一家が毎日を生き延びることに精一杯で、息子の気持ちに思いをはせる余裕など無かった。長田は誰に言われるまでも無く、これいいことにして迷わず召集先に航空機乗員訓練所を希望した。
航空機操縦士には五感の反射神経の敏捷性が求められている。耳はエンジンの回転音を聞いて、エンジンの燃焼爆発正常性を判断し、鼻で機内の臭いを嗅ぎ取り、温度上昇や異常発熱を早く知覚して火災予防とし、目で遠方から自機に接近する他機の早期発見と計器が時々刻々と指示す正確な指針と数値を認識し、平衡感覚で上昇気流と下降気流を感じ取る能力、これらに対する手足の応答速度と正確さが重要である。
民間航空機は上空に行くと互いの衝突防止と自機の位置確認と安全飛行のために航空路を飛ぶようになっており、航空交通管制員と目的地と途中飛行経過の報告と通過地点確認と天候の状況交換、未確認飛行体との遭遇の有無などに無線通信を行うことになっている。飛行中は静かな室内で対話による無線交信を行うものではなく、常時騒音となっているエンジン音のド真中で無線通信による対話を余儀なくされている。
そこで、耳は不快な多くの雑音の中から、自機に宛てられた呼びかけ通信内容を正確に聞き取る責任がある。無線通信による対話は、一人の航空交通管制員と担当空域を飛行中の複数の航空機と同一周波数で平行してお行われている。今回も厚木基地の一人の航空交通管制員はN03043のJAL「もく星」号とだけでなく、空域にいるヘリコプターや他の軍用機とも交信している。航空交通管制室内には複数の航空交通管制官が勤めているが、交信しているのはそのうちの一人に限られている。
これは教室の先生が30数名の生徒に「読みたい人、手を上げて」と話し掛け、同時に30数名がこの呼びかけを聞き、瞳ちゃんが真っ先に「ハイ」と挙手すれば、先生が「では瞳ちゃん次読んで下さい」と指示するようなものである。すると瞳ちゃんが立ち上がり、例えばイソップ物語等を読み上げる。他の生徒は同時に先生の指示を聞き、また瞳ちゃんの音読も聞いており、今は瞳ちゃんの番で、次は誰だろう、自分かなと思案しながら、授業が進展して行く。希望者が挙手して自分が指名されたら、先生に反応して行動するようにしている。
一人の航空交通管制官と飛行している複数の航空機との呼びかけと応答の関係は正にこのように、小学校のクラスの授業のようなものである。一人の航空交通管制官とN03043のJAL「もく星」号や、ヘリコプターや(現在では自家用機を含む)や軍用機との交信を皆が同じチャンネルで同時に聞き、他の航空機や相手機が何処にいて、どのように上昇、降下、右旋回、左旋回し、何処に向かって、高度幾らで、速度等の飛行状況を聞き取り、互いの距離を判断し安全運航を継続している。
上空では、航空機の速度は速く、遠くにいる時には地上の自動車同士のように目で相手を視認することが殆どできない。航空交通管制官と各航空機との交信内容を聞くことで、互いの位置・距離・その後の空間的座標関係を予想して飛ぶことで安全を確保している。
狭い配膳室でコウチュウは身震いした、長く厳しいスパイ訓練を受け、硬い信念で今日まで辿り付いたとは言え、多くの人命をその手で死に追いやるには少なからぬ胸苦しさを抱き感じた。しかし。新生中国は生まて2年少しである、この中国を又も上空から爆撃するような蒋介石空軍を育てられてはかなわない、中国人民は日本空軍による重慶爆撃でどれほどの悲しみを味わったか忘れてはいけない。「やるのだ!」、「実行するのだ!」と今にも弱気になりそうな自分を叱咤激励した。
「そうだ10億人の新生中華人民共和国を救うために、やらねばならない!」。マーチン202の双発のピストンエンジンは快音を響かせ、子守り歌のようなゆるい唸り音と、エンジン相互の共鳴による鈍いグーン、グーンという振動と低音が機体全体を震わせながら大島上空に向かっていた。
コウチュウはキッチンで、機長のカップにコーヒーを副操縦士のカップにはコー茶をそれぞれ注いだ、乗客には好み申し込みがあった数に応じて、その分のコーヒーとコー茶を準備し、自らのためには1杯の冷や水をカップに注いだ。そして最後に化粧香水ビンの形に肌身離さず持ちつづけた睡眠薬を1滴ずつ自分以外のカップに注いでいった。この睡眠薬は古い漢方薬で、通常の飲料として飲んでも自宅で昼間に寛いで飲めば、健康な昼寝になるとして北京では愛用されている常備薬である。
乗客の中に、神戸製鋼所の営業マン浜野昭夫がいた、神戸製鋼所はその名の通り、神戸市東灘区の海浜埋立地に旧くからある製鉄所で主に鋼材を生産している。鋼材は硬い鉄材で、特に軍用の艦船、戦車、大型クレーンなど特殊車両用の鉄材である。朝鮮戦争の激しい消耗戦で、軍用車両は増産を強いられその材料として徹夜の生産が行なわれていた。浜野は生産した鋼材を焼け残った軍需工場に手配する仕事をしていた。鋼材生産工場は日本敗戦で国内の工場は殆ど廃墟となっていたが、ここではその一部が残り生産をいち早く再開できた。またアジアの各地に残った造船所、戦車工場、重機工場に向けて鋼材発送、これもまた限られた運送ルートを探して配送の手配を構築していた。
要するに神戸製鋼所は朝鮮戦争特需に浸り、かくして浜野は敗戦後のサラリーマンとしてはいち早く成功した一人となった。家には妻と息子と2人の娘がいたので、阪神御影駅の近くに2階建ての1戸建の持ち家を購入した。庭には当時は目新しく珍しい西洋風の芝生を植えて小学校6年の息子と、2人の小学生の娘はそこで平和な毎日を送っている。浜野は爆撃で焼け残った古いピアノを何処からか入手し、修理してチャンとした正確な音階が出るようにし、弾けるようにした、そして子供には早くから音楽教育を与えた。
飛行中の「もく星」号は、デイーゼル大型客船のエンジンのように、2台の発動機による低音振動とプロペラ回転から来る軽い高い細かい振動とを機内に響かせている。高い細かい振動は木造建物の細い木穴や継ぎ目から、隠れた蟻を引き出すような振動と音である。 マーチン202型機は大型機輸送機の部類に属し、エンジンから操縦席にあるアクセル(スロットル)装置までは相当離れており、スロットルを増加方向に操作すると少し送れて、エンジン音が大きくなり、更に少し遅れて座席背中に加速されて押される感じが伝わる。緩い一定上昇状態にエンジンが90%出力に設定された状態では、比較的に力強い振動と騒音が搭乗者全員の体と耳に響いている。
機長ジョンはアメリカオクラホマ州タルサ市にあるスパルタ航空技術大学校の卒業生である。この学校は古くからのアメリカ航空歴史を担う学校で、郊外のジョーンズ空港に本拠を置き、第2次大戦後多くの民間航空技術者や経営者を輩出している。ちなみに1990年代から現在までに巨大化したアメリカンエアラインでは、その本拠地となる整備工場をこのジョーンズ空港から車で1時間以内の、定期航空便が発着するタルサ国際空港に隣接して設けている。
ジョンは1950年6月に始まった朝鮮戦争にF86ジェット戦闘機のパイロットとして参戦した。正確には南の李承晩プラス米国軍対、北の金日成プラス中国人民軍及びソ連の重火器の戦いに、中国志願兵が参戦した1951年10月に参戦した。中国空軍はソ連提供のミグM-15で飛来し、ジョンはF86ジェットセイバー戦闘機を駆ってこれらを向かえ打った。米・中軍はお互い操縦士の顔が認識できるほど、接近戦での機銃掃射を展開した。F86ジェット戦闘機セーバーは、日本を去ったマッカーサーが朝鮮の戦場にその配属をアイゼンハウワー大統領に直訴して出動が早まった最新鋭戦闘機である。
半島の戦場では、F86ジェットの直前にはP80ジェット戦闘機であった。しかしP80は第2次大戦後半で、旧日本海軍・陸軍航空隊及びドイツ空軍を撃破した優秀機であったが、中国人が操縦するミグM-15ジェット戦闘機には敵わなかった。ミグM-15は大戦後の世界制覇を目指す成長著しいソ連が製造し、後退翼を持つ、音速近い速度性能を備えていた、対して重く遅い米国のP80を悉く撃墜した。この時不敵のアメリカ空軍も初めて空戦での苦渋・悔しさを味わった。
米軍がP80を最新のF86に交換する間に、少なからぬ戦友をこの戦いで失い、若いジョンは中国人パイロットやアジア人パイロットに言い知れぬ憎しみを抱いている。しかしジョンは朝鮮半島の停戦を待たずに戦線を離れエア・アメリカの契約パイロットになった。
一見民間航空のように聞こえるがエア・アメリカはれっきとしたCIAがアジアに展開・経営する米軍特殊航空隊である。名目上は民間のノースウェスト航空がこのN93043 マーチン202を所有していたが、朝鮮戦争が始まるとCIAのエア・アメリカがノースウェスト航空に代りJAL機を運航していたのである。
ここでアメリカンエアラインとエア・アメリカと名称は似ているが、これらは互いに無関係で政治的、資本的、人脈的になんら繋がるものではない。この朝鮮半島でのジェット機同志の航空史上・世界史上初めての空中戦は、ヨーロッパの映画や芝居になった、第一次大戦のどかな低速でのろまな空中戦とは全く異なる、人類がスピードを殺戮に使用した絶望的な戦争の始まりとなった。
時刻は日本時間で07:45になった、管制官中村徹は少し気なってきた、マーチン93043は2,000フィートで水平飛行を続けている、そろそろ3,000フィートに上昇しないと危ないと心配になってきた。傍受用に設置されているレーダーモニター画面には、2477フィート(755M)の三原山と僅かに動いているマーチン93043を示す太い輝点が並んで映っている。高度計器の誤差に安全値を含めた3,000フィートが必要なのに、「どうした厚木、上昇指示が遅いぞ、早く指示を出せ、どうする気だ」と研修生管制官中村徹は呟いた。
マーチン93043の機長ジョンの戦友にイタリア系アメリカ人のアポロがおり、彼もまた朝鮮半島の空を苦渋の内に後にして帰国して去り、ニュージャージー州のテータボロー空港で飛行機操縦学校を経営している。飛行機操縦を習いに日本から来た訓練生を見るとアジア人というだけで、ジョンと同様にアポロも一瞬敵だった中国人パイロットの顔を思い浮かべた。入学して来た自分の客であっても、ユー アー チャイニーズ ファイター と冗談とも本気ともなく叫び出してしまう。日本人練習生の場合はアジア人ではあるが中国人ではないので、気にせず聞き流して、私はジャパニーズだよと笑って言い返して澄ましている。
アメリカの飛行学校の殆どが比較的に小規模か個人経営であり、そのオーナーが飛行教官であり、免許を与える試験官でもある。アポロは朝鮮戦争後軍隊を退役したが、ジェット戦闘パイロットとして軍への過去の貢献があり、米国の航空局FAAから飛行教官免状と操縦試験官免状を付与された。空軍の推薦により民間航空を管理する国の航空局FAAからこれらの免許証を受けたのである。実際にアポロの航空機に関する、知識と技術と技能は米国の航空局FAAが、市民一般に課する試験内容を十分に満たして余りがあった。
アポロは以前に、マーチン93043の機長ジョンに若い人向けの飛行学校を始めたので、収入は少ないが平穏に生活ができるので一緒にやらないかと連絡した。これに対しジョンは結婚予定があり、金が必要なので、馴染み親しんだ空域、アジアの日本の空で暫らく旅客輸送機のパイロットになり稼ぎたいと返事した。
「もく星」号墜落のニュースはその後テータボロー空港のアポロに届いた、アポロは心で叫んだ、「戦争はもう沢山だ、ジョンよ何故死に急ぐのだ!」と。
「もく星」号調査公文書公開の年の2007年、アポロは年取り老いたが、幸いにも息子が後継者となり、彼の飛行学校はいまでもテータボロー空港の西北の片隅で営業している。テータボロー空港はハドソン川を挟むニューヨークアップタウンの対岸にあり、車でジョウジワシントンブリッッジから15分の位置にある。まあニューヨークの郊外、住宅地の近くであり、今では多くの日本人や中国人、韓国人、アラブ諸国のビジネスマンが週末に小型飛行機で飛ぶために遊びにきている。
アポロはジョンのことや憎かった中国人パイロットの顔を、アジア人の顔を見る機会が多くなったこの頃では、55年前のことでもあり、もはやアジア人を憎く思い出すこともなくなった。85才になると人生の意味がわかるようになった。
もう遅いかもしれない、しかし、年月の彼方で行なわれた空中戦はどうでもいいのに、ただジョンのマーチンN93043の事故だけが今でも思い出すと悲しく悔しい。せめて身近な子や孫が平穏で小さな幸せで毎日が送れたら、神に感謝しようと、今日もクラブハウスにある大きな揺り椅子に座って飛行場を眺めている。
アポロとジョンが学んだスパルタ航空技術大学校は、航空整備士の養成を主に行っている、その一環に操縦士訓練コースを設けている。空産業は設備産業であり、敷地と工作機械と実験道具と実際の航空機と莫大な航空技術とを要するもので、米国大学の航空学部や航空技術大学校では主に設計学士と整備士を養成している。パイロット・操縦士は営業用の航空機を運航するだけの役割であり、設計・整備士に較べるとそれほど大きな設備や装置や地上環境を必要とする技術ではないからか、独立した専門の操縦士育成の航空大学や大学校はアメリカには少ない。
この三原山遭難から半年後日航は、昭和27年10月に、自主運航を目指して2人の日本人操縦士を、オクラホマ州タルサ市にあるスパルタン民間飛行学校に送り訓練を受けさせた。二人は2ヶ月という短期間で、一般操縦士免許の上の事業用操縦士の免許を取得した。
奇しくもこの SPARUTAN SCHOOL OF AERONAUTICS
123 CESSNS DRIVE –JANES AIR PORT TULSA. OK 74132 USA は、
アポロとジョンが学んだスパルタ航空技術大学校である。
一方近くにあるタルサ空港は、現在では定期航空用空港とアメリカンエアラインの巨大な整備工場とが同居した 広大な空港である。整備工場を見学者にまとめてガイドする案内人は、この工場はボーイング社のシアトル工場にも負けない広さと設備を要し、どのような大型ジェットでも造れる能力があると語った。確かに幾棟もの屋内には無数の最新工作機械が並び、日本製も混ざっていた。
「もく星」号の乗客に、売れない弁護士で仏教哲学者の遠藤誠がいた、彼は座席に埋もれて妄想していた。年を取り生殖機能を失った女性は人間ではない、単なる人間の姿をした家政婦という生き者ロボットである。炊事、洗濯、家の掃除、風呂焚き、男の召使、雑用係りである。年を取り老いても元気な男性はどうだ、家の外で金儲けの仕事に邁進し、美食と美酒に酔い、カラ元気に任せて若々しい女性を口説いて毎日生き続けるのか。家に帰れば年期が入った妻を家政婦としてこき使い、怒鳴ったり、雑言と罵声を浴びせて苛め快感に浸るのが人生かと自問自答していた。
では年を取り老いて外での金儲けの仕事を失った男性はどうだ、炊事、選択、家の掃除、風呂焚き、小さな雑用さえできない、しかし老男性はかっての仕事で稼いで得たお金を多少所有している。その金でたまには美食と美酒に酔うことができる、他にすることもなく、毎日小さな趣味と少々の美食と美酒に酔うことができる。その次に何がくるだろうか、ひたすら年月とともに体力の劣化と体細胞の老化を運命として受け入れ老いつつ生きるだけとなる。
老いても外で更なる上位の金儲けの仕事を所有して、その分野で著名になった男性はどうだ、益々仕事に邁進し、更なる美食と美酒に酔い、カラ元気に任せて若くはつらつした中年でも綺麗な女性と恋をして毎日生き続けることができるのか。いや年を取り長く著名になると、外で人目に着き自由な行動が出来なくなり、好きな女性と高級レストランで食事したり、著名ホテルのロビーを歩くと直ぐにニュース記者やカメラマンに見つかり記事にされ、晒し者にされてしまう。以上の男女見極めの見解や見方や発想は奈落へ落ちる下降スパイラルへと繋がっていると推論していた。
翻って考察してみよう、年を取り生殖機能を失った女性をやさしいお年よりの女性に、炊事を料理に、洗濯・家の掃除を生け花とお茶(茶道)に、風呂焚きを心地よい居間に、男の召使・雑用係りを健康の指針・誘導者に置き換えて、プログラムを動かしてみるとこれ不思議、この発想は多くの個人が豊かで安心してその老後を楽しく生きていける生活空間へと通じる道となる。細かなエンジン音と左右2基のエンジンが同調する鈍い低音を聞いて、また先ほどの紅茶に入っていた眠り薬のせいで、遠藤はここちよい睡魔に襲われていた。高度な人間の云々よりも今は生物体としての睡眠を味わいたかった、不眠症の彼は久しぶりの寝気を感じて今最高に幸せであった。
時刻は21:50GMT(07:50JST)になった、研修管制官中村徹は本気で気なってきた、マーチン93043は今だ2,000フィートで水平飛行を続けている、これはほんとに危ないぞと心配になってきた。傍受用に設置されているレーダーモニター画面には、2477フィート(755M)の三原山と僅かに動いているマーチン93043を示す太い輝点が画面で1cmにまで接近して映っている。米人管制官ギブソンに進言すべきだと研修管制官中村徹は、心に誓った。
しかし今の日本はアメリカに無条件降伏した後であり、一言も反論が許されない、アン コンディショナル シュレンダー (unconditional surrender)状態なのだ。しかし、危ない、時間が無い、どうしよう!。この時マーチン93043と乗員・乗客37名の命の危険性を知っていたのは、ただ一人の日本人中村徹、研修管制官だけであった。
遠藤誠は夢現の中でもまた考え続けた、米国大統領のアイゼンハワーは、1952年頃勃興するソビエトを恐れて、鉄のカーテンの奥にある軍事飛行場の数と配置とミサイルサイトと長距離爆撃機数とレーダー施設の能力と分布と設置数、及び世界中にばら蒔かれた人間臭い無数のスパイの分布状況等を、冷戦という戦場で、莫大な予算を費やしてCIAを介して知ろうとした。一方のソビエトは周辺国を支配し拡大し、世界の共産化を押し進めようとしていた。最先端の重化学・機械技術を潜水艦と航空母艦と重戦車と、大型爆撃機と巨大大砲と原子爆弾製造に、国民を動員して全国力を投入していた。このような政治思考と指導理念では庶民人間が見えなくなる、これらは大量殺戮という地獄への完璧な落下スパイラルへと続いているものである。
これも翻って考察してみよう、アイゼンハワーが知ろうとした敵軍事飛行場の数と配置とを地下資源に、ミサイルサイトと長距離爆撃機数とレーダー施設の能力と分布とを、宇宙探索ロケットと発射基地に、人間臭い無数のスパイを各種学会の開催と参加人数の分布状況等に、ソビエトの世界の共産化をロシアの知恵と技術を衛星国への援助に、最先端の重化学・機械技術をバイオテクノロジーに、潜水艦と航空母艦と重戦車とを深層地下・深層海底探索ロボットに、大型爆撃機と巨大大砲と原子爆弾製造とをヘリウムガスの巨大飛行船と安全な再使用型宇宙船と核融合型発電所とにそれぞれ置き換えて、プログラムを動かしてみよう。これも不思議、このような理念は多くの国家が異なる文化を交換しながら、興味尽きない民族間の交流を永遠に継続できる宇宙における人間の未来ドラマへと通じる楽しいものとなる。
しかし21:50(07:50)頃、厚木基地からは、ナパーム弾を満載し、朝鮮の戦場へ向うF86が息席咳切って次々と離陸していた。厚木管制センターと空港タワーでは全員がこれら重荷を背負って半島の戦場へ向かうF86ジェット戦闘機群に神経を集中していた。厚木基地の滑走路の方向はほぼ南北であり、その南方向の延長戦上に大島が位置している。これらF86ジェットは、厚木基地からの離陸直線上昇中はどうしても三原山の上空を通ることになる。離陸可能ぎりぎりまで燃料と爆弾を満載したF86ジェットは旋回しながら上昇することは無理である。一定の燃料を使い切るまで直線上昇し、少しでも身軽になったときから西方に向けた右旋回に入るようにしている。直線上昇中は三原山の上空を通る必要があった。
これに対して「もく星」号は民間機であり、貨物とて少なく、人間の物理重量など知れている、危険が迫ればいくらでもUターンや360度旋回して、三原山ごときは回避できる、勝手にやってくれとの軽い判断であった。しかし当日の大島上空の雲は厚く暗く、完全なる雲中飛行条件下であり、「もく星」のパイロットが雲間にかすかに三原山を目視して避けられる状況ではなかった。
乗客の一人に、青森県から兵庫県加古川市に向う永鉄五郎がいた。1945年11月の始めに、青森県弘前市の隣の浪岡町に、満州から旧軍人の永鉄五郎陸軍主計が引き上げてきた。敗戦国の若き旧高級将校である。彼は戦中にはここ田舎の誇りであったが、敗戦このかた今では誰も振り向く者はいない。むしろお前等が戦争を起こして・戦って、皆を苦しめて、戦で負けて貧乏になったのだと責められているようである。大陸から帰国した永が親戚の農家の庭に何かを埋めていた。立会人は永の幼い娘と親戚であり友人である隣に住む新婚の大田夫婦である。
永は満州から帰る時、所属部隊の財務部が管理していた宝石類と金塊2本を布袋に詰めて隠して持っていた。そのため占領軍、米軍からの追及を恐れていた、極東軍事調査団は旧満州軍の高級将校を個人単位で追跡し、中国人への虐待行為、職権乱用による不法所得、特に金銀の所持、現地司令部や経理部、満州国管理機構からの財産の持ち出しの有無を徹底的に調べていた。永は今回兵庫県加古川市に住む大陸時代の上司を訪ねる旅である。故郷の浪岡町に埋めた宝石類と金塊2本の処分を上司だった高橋将軍に相談するためである。
この時永はまだ貧しく航空再会間もない日航機に乗るほどの金銭的な余裕はなかった、しかし埋めた宝のことを思うと今から大金持ちになった気分になり、東京より先の関西方面に旧国鉄の2等車で行くには、何故か宝石類と金塊2本に悪い気がして、有り金叩いて豪華に飛行機に乗ることにした。埋めた宝は誰にも知られていない、あの時の親戚の若夫婦は新婚生活と農園開発に夢中で、あれが本物の宝石類と金塊2本だったとは信じていない、もう忘れている。あれは自分と7年振りに会う高橋将軍と二人のものだ、誰にも渡さないぞと内心確信していた。
55年前に新婚だった大田夫婦は2007年の今では、年老い85、6歳になった、成人した3人の娘があり、一人は関西に他の2人は関東に嫁いでいる。最近になって永のかっての幼い娘、今は初老の婦人が、突然浪岡町の老大田夫婦を尋ねて来たという、「昔父がそちらの屋敷に埋めた預け物を回収したいので、このあたりを掘らして欲しい」との要請をしてきたようである。
お盆休みで里帰りした3人の娘に、このことを老大田夫婦が話したそうだ。中年おばさんになった3人娘は、きょとんとして、「そんなこと嘘でしょう、人の屋敷をほじくり返さないでよ」と両親と会話したという。しかし老大田夫婦は高齢化し病弱になった今、間も無く他界が避けられなくなり、そうなると家屋敷の整理と解体が予想される、3人の娘はその際一応土台の掘り返し時には注意しようということにしたらしい。
「もく星」号は晴天なら神奈川県三浦半島を右手に見て、千葉県館山市街を左手前方に見ながら、一直線に大島に向っている。雲中の計器飛行により羽田のレーダー軌跡ではその通りに正確に飛行している。ただ羽田の管制官中村徹が気になったのは、厚木管制からのその後の上昇指令がないままであり、大島上空通過に必要な大きい上昇率を許可されないことであった。大島に向っている「もく星」号の上空に厚木基地から南の洋上向けて発進する戦闘機用の空路があるので、上空が空くまで「もく星」号には低空飛行(2,000フィート)を余儀なくされていると理解した。間も無く大きい上昇率を許可されるだろうと祈る気持ちで期待した。
現在沖縄の嘉手納基地から西方向に米軍機が発進すると、この米軍機は那覇空港に離発着する旅客航空機の民間航空路と丁度交差する、そこで旅客航空機は衝突防止のために低空飛行を要請される場合がある。時には逆に急上昇、極めて大きい上昇率を要求されることがある。那覇空港から北方向即ち、九州・大阪・東京方面に向って離陸した旅客航空機は、時々低上昇率で沖縄本島西沖海洋上を飛行するように指示される。しかし沖縄の西海岸沿いの東支那海上は海面だけであり、何ら山等との衝突の危険性は全く無い。
第2次大戦後、日本の敗戦後、昭和22年1月に学徒援護会が設立され、東京・九段の旧近衛師団兵舎跡に学生会館(宿舎)が設置された。戦争で学徒動員された学生が生き延びて、大学を目指して帰国してきた。関東の各大学には焼き尽くされて寮がなく、勉学に飢えた学生に生活の場として重宝がられ、いとおしまれていた。
今はその跡地近くに日本武道館が建っていて、学生会館(宿舎)跡は広い駐車場となっている。武道館で有名歌手の音楽コンサートがあると、駐車場には多くの大型バスが忙しく出入りしている。桜で有名な千鳥が淵の御城側石垣の内側に当たるが、今では何ら学生会館(宿舎)の歴史を伝える碑などはない。
ここを根城にした帰国学徒の若き学生に西脇正泰がいた。西脇は当時19歳で戦時中に動員された時仙台の東北大学の医学部予科に在籍していた。早熟の文学青年であるが医者を生涯の職業・仕事に目指し、傍ら文学を究めたいと高い望みを抱いていた。動員された先は国内で鹿児島県の鹿屋飛行場で、彼の役務は特攻隊員の身の世話役雑用係りである。体格が一見がっちりして大柄であったが、色白ひ弱で今にも肺結核になりそうな体質であり、航空機操縦士には向いていなかった。
死に地に飛び立つ同世代の多くの戦闘機操縦士を見送った。しかし、暑く長い夏の日に突如として戦争は終わった、しかも屈辱の敗戦として。西脇は関西の尼崎市橘の出身で両親は戦後元の所に戻って暮していたが、彼は熱気・熱血のあまり関西に帰郷せず、混乱の東京に降り立った。勿論東北大に戻る気はなかった、今更医学部に進む気にもなれなかった。
西脇は東北大学医学部予科の在籍のまま、旧近衛師団兵舎跡の学生会館(宿舎)に不法滞留している。当時は帰国学生の心情に配慮して、本人の過去の大学・予備校帰属さえが明確であれば、また関東一円の大学・大学校・高専の在学生に限らず、紹介者があれば、学生委員会の決定で居住が認められた。
学生会館(宿舎)は旧厚生省の管轄財産であったが、完全なる学生自治区画として公的にも世間からも公認されていた。西脇正泰は乾いた心に、フランスの小説家ロマンロランの「ジャンクリストフ」や、「戦いを越えて」、「魅せられたる魂」の小説に心酔していた。
九段下にある復興が早かった神田古本屋を漁り、戦災を免れたロマンロランものを片っ端らから買い集めた、昼間に土木作業の肉体労働で稼いだ小遣いを食事代と古本代に注いだ、それが生きがいであった。その後心の友を求めて、何時も買い入れている古本屋のオヤジに頼んで、ついに本屋の壁に「ロマンロラン友の会会員募集中」なる紙1枚のビラを貼ってもらっていた。
募集ビラ:「ロマンロラン友の会会員募集中」を見て、ある日赤レンガ建ての旧近衛師団兵舎跡の学生会館(宿舎)に訊ねて来たのが、後のマーチン93043の乗務員、中田美子中国名コウチュウである。服装は質素ではあるが若く美しい女性が現れて、後になり宿舎中で噂になったのは言うまでもない。西脇にとって「魅せられたる魂」の主人公アンネットに引かれた理想主義者の女性が、新しいアジアを目指す中田美子となった。中田美子、中国名コウチュウは当時22歳である。
この募集ビラにより、男女10名前後が集い、今で言うNPOの如き平和研究会、その名はずばり「ロマンロラン友の会」が創設された。この会は初期段階で2,3回の会合を学生会館(宿舎)の狭い面会室、会議室らしき部屋で持たれたが、その後は神田の本屋街にある喫茶店「白十字」で行なわれた。その後神田の「ロマンロラン友の会」は発展して日本「ロマンロラン友の会」となり、戦後の混乱を脱しつつある本国フランスの「ロマンロラン友の会」と文通による交流を持つようになった。
フランスの「ロマンロラン友の会」は大戦中ヒットラーに対するレジスタンス運動経験者が主流を占め、正しく平和実践思想家集団であった。日本「ロマンロラン友の会」は、定期刊行物の「古本屋便り」で、全国に知られることになり、各地から賛同者・参加者が集まった。結果的に相次いで関西、名古屋、札幌、福岡などに「ロマンロラン友の会」が設立され、メンバーは主に旧帝国大学と私大東京6大学の若い卒業生と、次いで一般社会人と現役学生が中心であった。「ロマンロラン友の会」は更に組織が大きくなり、それと共に誰が創設者か知られることなく、各地で自立し、読書会、平和研究会、文学者の良心の会等と文化活動が増々拡大していった。
1950年前後に日本と古いヨーロッパはたっと比較的に平和を享受できたが、一方の中国、朝鮮半島,東西ドイツ等は大戦後の勢力図が未確定で米ソの対立が激しくなり、局地戦争が激しく継続していた。中田美子中国名コウチュウは年下の西脇正泰が自分に寄せる恋愛感情を気持ち良く受け止めながら、深入りせず、日本人は敗れて知った平和に浸っていたので、コウチュウも同様に暫し心を許していた。
しかし、中国に残った母親からは来るべき決死の行為に向けて、厳粛で冷徹な訓練要綱と国(蒋介石派)・共(毛派)の正確な戦線状況が常に帰国船などの各種ルートで、人知れず送られて来ていた。そなたが「ロマンロラン友の会」の会員なら、いかなる恋愛をしようとももしくは真の恋愛をしようとするならば、ヒットラーと戦ったフランスのレジスタンス運動家のように逞しくあれと、励まされていた。
「もく星」号は晴天飛行のように、羽田のレーダー軌跡によると、計器飛行は正確でパイロットの腕は確かである。今だに羽田の研修管制官中村徹が気になったのは、厚木管制からの上昇指令がまだ届かないことであった。大島に向っている「もく星」号の上空に厚木基地から発進した朝鮮半島の戦場に向うF86ジェットセイバー戦闘機がまだ飛行していることをやむなく理解した。
しかし最早「アン コンディショナル シュレンダー」にこだわってはいられない、研修管制官中村徹は決心して、ギブソン管制官にたどたどしい英語で進言した、「もく星号は三原山と衝突の危険性があります、もう厚木の指令を待てません!、時間がありません、あと2分後に厚木管制から大きい上昇率が与えられない場合は、もく星号に対して一旦360度ターン(旋回)の緊急指令を、羽田の管制官が独断で発しましょう」。
ギブソン管制官も事の重大さに気付き、研修管制官中村徹の提案を即座に聞き入れた、そして「360度ターン(旋回)の緊急指令」発信の準備体制に入った。
ほどなく西脇正泰は栄養失調のため、危なく肺結核になりかけて、両親に呼ばれて尼崎に帰り、地元で神戸大学の教育学部に編入した。「もく星」号墜落のニュースを神戸三宮の古本屋のラジオで聞いたが、ほのかな恋心を抱いた中田美子が当事者であるとは知る由もなかった。この西脇正泰が日本「ロマンロラン友の会」の第1番会員であった。
米国のマーチン航空機(製造会社)は、第2次大戦後いち早く、西側世界の民間航空路線市場に売り込む旅客機を模索していた。当初戦中の爆撃機B-26をモデルに、40名乗り、双発のガソリンエンジン、気圧調整装置(気密室)なしをマーチン2‐0‐2型として売り出した。販売は好調で民間航空運送企業のペンシルバニア、イースターン、ユナイテド、ノースウエスト航空など主な航空運送企業から注文を受けた。もっとも多く注文したノースウエスト航空は、高高度・高速飛行を求めて、気圧調整装置(気密室)有りの機体を要求してきたので、このマーチン2‐0‐2型を改良し、馬力を大幅にアップしたマーチン3‐0‐3型の開発に投資ししていった。
ノースウエスト航空では1948年にマーチン2‐0‐2型機がミネソタ州で嵐の中に巻き込まれて遭難し37名が死亡した。創業者グレン・マーチン一族の放漫経営によりマーチン飛行機は、カーチスライト航空機から来た若い経営者の手に渡った。その後マーチン2‐0‐2型を、ビジネス成功とハリウッド女優を次々に妻にして高名なったハーワードヒューズが、TWA用に12機注文した。
マーチン2‐0‐2型を改良した開発中のマーチン4‐0‐4型は朝鮮戦争の物価上昇による煽りで、受注価格が据え置きのままで、製造コストが急上昇し、再度経営危機になった。マーチン社は次の経営者は鉄道車両製造業出身であり、初めて航空機製造とは別分野の支配下に置かれた。創業者グレン・マーチン一はその2年後に平均寿命で死亡したがマーチン飛行機の名称は近年のロッキード社との合併後もロッキードマーチン飛行機として残されている。
その後マーチン4‐0‐4型は製造にこぎ着き発売され、1960-1970-1980年代に世界の航空界で活用された。マーチン2‐0‐2型は歌手フランクシナトラに好まれて彼の自家用機としてアメリカ国中に音楽を乗せて飛行した。さて、ノースウエスト航空は多くのマーチン2‐0‐2型を所有し、極東とアメリカとの輸送に就航させた、そのうちの1機が、日航機「もく星」号N93043である。
「もく星」号は大島に接近している、レーダー画面を見つめる羽田の管制官ギブソンと中村徹と周りの管制室関係者は緊張した、「もく星」号のコックピットでも機長と副操縦士には外の様子・島影は見えなくても、航法計算から三原山が直前に近づいたことを認識していた。ただ乗客は一般人であり、雲と霧の中では何も知らずに先ほどの睡眠薬により平和な寝気に身を任せていた。
その時日本の厚木基地から、朝鮮半島というアジア人同士の戦いに、遠くアメリカを離れて、多くの若い白人系パイロットがミグM15との空中戦に血を滾らせて、F86のジェットエンジンに馬乗りに跨がり、轟音を進軍ラッパに聞きながら出撃して行った。
空間を人間が移動する目的の飛行機では、操縦席が左右にあり、前に向って左が機長席、右が副操縦士席となり、双方で平行に動く操縦桿と左右の脚で踏むペダルとがある。航空機を正・副機長の何れかが交互に操縦するように出来ている。航空機は空気中を浮いて飛ぶので、充分な揚力を得るために、一定の速度が最低限必要で重要であり、速度計が機長正面の計器盤に一番見易い位置に配置されている。
地表から高く離れていることも重要であり、高度計が速度計の側にあり、又傾いたりのめり込んだりしていないか知るための姿勢計も近くにある。地面から離れていっているのか、降下しているのか知るための昇降計がある。これらの計器は地上動物の人間が空を飛ぶ鳥になるために機械計器(人工感覚装置)としてあつらえたものばかりである。これらはエンジンのないグライダーや熱気球で飛ぶ場合にも同様に必要な機械計器(人工感覚装置)となっている。
エンジンを使って空に上がり、一定の空中路を通って目的地に行くには、前記4機械計器(人工感覚装置)に加えてエンジン系統の計器として、エンジン回転系、燃料計、オイル計がある。機体はエンジンから発するエネルギーを消費して移動するので、エンジンの出力を制御する装置が重要でそのアクセル(スロットル)装置は正・副機長双方から容易に操作出来るように、正・副機長席の中間に配置されている。同様に着陸装置も正・副機長双方から容易に操作出来るように配置されている。
空中回廊を正常に通るために各種無線通信機があるので、これらは操作自体に緊急性が少ないので、副操縦士正面の比較的に空いている部分の計器盤に配置される。このような計器と制御装置の配置は、T型配置と呼ばれ、2人乗りの小型機から500人乗りの大型旅客航空機に到るまで、基本的に同じ配置構成となっている。操縦訓練は世界共通で、1個エンジンの小型機から2個エンジンの小型機、次第に大きく重量が大きくなり、低速機から高速機に移行するようになされる。
操縦士は、訓練期間中には計器類のT型配置を繰返し教え込まれ・覚え込まれて大型機・高速機に移行して行く。その結果、飛行中に例えば酸素欠乏により意識朦朧、急な体調不良、何らかの精神苦痛に襲われても、本能的に反射的に正常時と同じ反応・手順で計器類の認識と、制御装置の操作をできるように訓練されている。
航空機は所定の航空路を飛ぶようにしているから、地上の鉄道や川や湖等の目印が見えない曇りでも安全のためにそこを通らないといけない。曇り日でも決められた航空路を飛んでいるかどうかを地上にある誘導施設と一定時間毎に無線通信を行なって確かめている、そのために操縦士は無線通信士の資格を持ち無線従事者としても働いている。
無線通信は超短波(VHF)の120.00MHzから133.39MHzまでの周波数が国際条約で定められている。各国はこの範囲で適宜航空機と、地上誘導施設で互いに通知した周波数で交信する。このような周波数は各国、各空港、各、地上誘導施設で適宜設定され、一端決めると殆ど変更しない、決められた周波数は広報として、国際の航空関係者に配布してお互いがスムースに通信できるようになっている。空港の拡張や地上誘導施設の刷新などの際に、たまに変更される、その場合は前もって航空公報(NOTAM)で通知される。
さて、ただ一つ121.50MHzは国際的に緊急用周波数として取り決められている。例えば4発(4基のエンジン)航空機で、2発のエンジンに故障が発生し緊急に近くの空港に降りる場合や、機内食で食中毒が発生した場合のように、人命に係わる重大事故が発生した場合に飛行中の航空機から発する電波である。「もく星」号は、この緊急121.50MHzによる発信をしていなかった。正・副操縦士とも単なる雲中飛行程度の認識しかなく、緊急性を感じていなかったと言える。
雲中では上昇気流があり、その中に入ると機体が上下左右に揺すられる。上下動が激しいと、両翼がパタパタと音を発てて揺れる。搭乗者は体が座席から離れようとするので、地上の車のように足で床に踏ん張ろうとしても、両足とも浮き上がり、体中がフカフカしてどうしようもない。時にはフアーと体が浮く飛揚感を味わうが、その直後にドーンとお尻を座席に叩きつけられることになる。そうなると握っているはずの操縦桿が手から抜け落ち、両翼がガタガタ鳴り、慣れたパイロットでも生きた心地がしない。一方旧日本海軍の飛行機乗り達は、曇り日には視界不良で周囲が見渡せないと、雲中を雲の上までドンドン上昇して、雲の上に行こうとしたようである。
雲の上まで行着つく時間が大体5、6分であり、その間は計器飛行となる。視界不良では水平線や山並みが見えないので、飛行姿勢を判断するには、傾斜計と昇降計と高度計と速度計とを見ている。正常なら速度が遅くなり、昇降計が上昇を示し、高度計が次第に上がっていく。雲中でパイロットが混乱すると、傾斜計が傾き、昇降計が降下を示し、高度計が次第に落ちていき、速度計が早い速度を示すようになる、これは傾きながら降下している状態であり、近くに山があると衝突間違いない。天候不良時での、初心者の航空機事故は殆どがこのケースである。
旅客輸送の航空機が少ない時代には、ベテランパイロットは途中に雲や霧があれば勝手に、雲を突っ切って雲の上まで上昇できた、しかし旅客輸送の航空機が多くなると、他の飛行機と雲中衝突を起こす危険があるの、安全のため必ず、地上の航空管制官と通信して雲中の上昇・降下を要請し、許可を得る必要がある。この要請と許可交信は近くを飛んでいる他の航空機が同時に傍受しており、相手機がどこにいるか大凡見当がつくので、互いの距離を空けて安全に飛ぶことになる。
雲が多くなり、周囲が見えなくなると人も渡り鳥や回遊鯨等と同じように、基本的な地磁気を頼りに行き先を判断する。地磁気は地球が鉱物として冷却安定するようになり、以来発生し、一定の磁石方向を呈している。その後何に億年か経て生物が発生し、進化したので、全ての生物に植付けられた方向感覚の基準となっていると仮定されている。
生物としては最後に発生し進化した人間は生態としての地磁気の方向感覚を見失ったが、磁石を使用することを自ら再発見し学んでいる。航空機には必ずこの原始的で古典的な磁石の羅針盤を搭載している。地上で使う羅針盤は東西南北を描いた平たい円盤上に、平たい細長い磁石針が中心を軸に回転自在に支持されている。羅針盤を持った人間が何処を向こうとも、磁石針のS極は地球のN極を向くので、人は自分がどの方向を向いて歩いているのか即判断できる。
一方航空機は上向きになったり、つんのめったり、大きく左右に傾くので、このような平たい羅針盤では正しい磁力線方位を示せない、そこで、液体中にピンポン玉のような丸いボールを浮べて密封した形となっている。ボールの表面には地球儀のような経度メモリを表示し、ボールの中心を貫くように内部に長い磁石針が収められている。地磁気線(磁力線)は大気圏以下の高度では地球表面とほぼ平行であるので、この磁石ボールは航空機が傾いた姿勢であろうとも、地磁気線に従って北と南を示してくれる。渡り鳥や回遊鯨等もきっとこれと同様な器官を生態的に備えていると考えられる。
天気が良い日は飛行機も海上を行く船のように周囲の島影や景色を見ながら羅針盤を参照して目的地に向けて飛行できる、これは有視界飛行と呼ばれている。曇りや雨の日は周囲が見えないので、計器飛行をする。高度計と速度計と昇降形と姿勢表示形と傾き表示計とこの羅針盤とで計器飛行が行われる。近代では同時に上空を飛行する航空機が増えているので、衝突回避の安全を期してこれらの計器に加えて、航空管制用の計器が多く使用される。航法計器類というものには、所定電波基地局からの距離と方位を示すアナログ式計器とデジタル式計器、広域レーダ-への応答器、自機搭載のレーダー装置と重要な無線通信機などである。
計器飛行と言っても上空でのことで、機体が滑走路上にある場合は、その先が全く見えない濃霧や吹雪や激しい雨では飛行そのものが取り消される。着陸も同じで、機体が上空にあり目的地の滑走路が進入路方向から目前300M先が見えない場合は着陸が禁止される。そのような気象条件の場合は目的地飛行場から、各地の飛行場に予め飛行中止を連絡している、「向かってこないように」と、あるいは途中から天気が急変したときは「別の近くの飛行場に降りるように」と無線機で連絡している。
厚木基地から朝鮮半島に向けて、ナパーム弾を満載したF86ジェット戦闘機が相次いで発進していた。その数なんと20機、離陸方向はほぼ南方向、厚木から江ノ島・大島方向であり、「もく星」号と上空で交差する所である。30秒おきに発進するので、全機が発進終了するまで、20x30=600秒、即ち10分掛かる。これらが一列になって、厚木・江ノ島・大島のラインに並ぶと、「もく星」号の行く手上空には鉄の壁ができていて、「もく星」号は上昇できない、結果的にそのままの水平飛行では2,000フィート(660M)前後の高度だとすると、三原山に衝突することは分かっている。
「もく星」号の2人の操縦士には、重荷を背負った20機のF86ジェット戦闘機が帯状に彼らの上空に長い列として飛行していることが知らされていなかった。2人の操縦士はせいぜい5,6機だろうと軽く考えた、それは3分待てば、通り過ぎる、3分ならこのままの低い高度2,000フィート(660M)で飛んでいても大島まではまだ距離がある、彼等が通り過ごした後で、多少急上昇すれば755M程度の三原山は簡単にクリアできると考えた。
しかしF86ジェット戦闘機は20機だった、何時まで立っても厚木の管制官は上昇飛行の許可を送ってこなかった、2人の操縦士が機数は20機だと早目に分かっていれば、安全のため自己判断による回避が可能であった。
この場合の対応では、手順としてまたは自主的に、大島上空到着前に館山・大島・江ノ島間の三角形洋上上空で、水平360度旋回を試みて、相手の20機のF86ジェット戦闘機をやり過ごすことができた。雲中での計器飛行による待機のための水平360度旋回は、傾き15度で、ゆっくりやるように国際協定で定めている、従って1周するのにほぼ4分かかる、20機のF86ジェット戦闘機をやり過ごすには3週すれば充分である。当時羽田の旅客機の発着数は1時間に1機程度であり、羽田の滑走路延長線上の海上で4x3=12分の空間占有は充分に可能であった。
しかし、2人の操縦士は濃い霧と、厚木に対する信頼の思い込みと、大島手前は広い海との安心感で、何時の間にか既に大島上空にあることを瞬時忘れていた。もはや上空でこれら戦闘機をやり過ごすこともできない位置に来ていた、急上昇して上下空間距離を保つこともできないと悟ったときには時遅しであった。
コウチュウは祖国中華人民共和国に思いを馳せて、またやっと平和なった日本の庶民の生活を見て、心が激しく揺動いた、機長と副操縦士用に睡眠薬を入れたコーヒーと紅茶は、結局はトイレに流して、機長と副操縦士には配らなかった。「雲中飛行で計器飛行中ですから、雲の晴れ間に出て、上空の水平飛行に移ってホットしてから飲み物を出しします」と、2人に告げて説明した。
殆どの乗客は、永や浜野や弁護士遠藤と同じく睡眠薬入りのコーヒーと紅茶のお陰で眠気を感じ、妻のこと,仕事のこと、これから会うひとのこと、蒋介石空軍のこと、訓練用機体のこと等を思い浮かべていたが、安らかな眠りに誘われていた。結果的に「もく星」号は三原山に激突して、乗客と機体もろとも山腹に散ったが、乗客は逆にコウチュウのお陰で、死の恐怖、死の恐れ、肉体の苦痛を受けることなく静かに死ぬことができた。せめてもの慰めである。
1953年6月に休戦協定が成立した朝鮮戦争には、直接的な日本人犠牲者がいた。彼らはアメリカ軍から協力を求められて日本海に木造魚雷掃海艇で出動した。その時の乗り組み員が浮遊魚雷に触れて、何名か死亡したと記録にある。海上保安庁発足前の、海上警察隊の隊員だったとのことである。第二次大戦で生き延びた木造の魚雷掃海艇はマッカーサーから焼却命令を受けずに残っていたが、何故かその後に隊員達は艇とともに呼び出され、結果的に、日本人が朝鮮戦争の犠牲になった。
しかし、朝鮮半島に赴く重装備した20機のF86ジェット戦闘機に上空を阻まれ、上昇出来ずに遭難した「もく星」号とその搭乗者と乗組員30数名は紛れもなく朝鮮戦争の犠牲者である。アジアで一度戦火が上がれば、日本領土内ではないと傍観することは出来ない、必ず何処かで日本人は戦火に巻き込まれる危険に晒され、悲しい犠牲者を出すことになる。「もく星」号遭難事件は私達にそのような、警告を今日なお発していることで、亡くなった犠牲者は現代の我々の脳裏に生き続けている。
「もく星」号遭難から生き延びた長田祥司は事件後台湾島に現れ、2度目には命を失った5名の代わりに一人で蒋介石空軍の創設に邁進し、形ある部隊に育てた。その後、1960年代に民間航空チャイナエアラインとは別の遠東航空の設立に身を捧げた。この遠東航空は1970年代には台湾の経済発展・技術発展とともに、経営の好成績を納め、現在では底知れぬ力量の民間航空企業としてアジアの空の一角を占めている。
しかし歴史は皮肉なものでその後1981年、向田邦子を含む多くの犠牲者を出した航空機遭難事故で遠東航空は、今も苦しんでいる。
「もく星」号は昭和27年4月9日朝8時15分前に大島三原山に激突して37名の乗客、搭乗員が全員死亡し、今日2007年4月9日現在日本民間航空史の彼方に追いやられているように見える。しかし、「もく星」号遭難の悲しみを抱く心の痛みと遭難の背後にあった極東アジア史の重みは、意識しようとしまいとも我々日本国民の脳裏と心の中に今も生き続けている。
しかし隣の朝鮮民族にとっては朝鮮戦争(1950年6月24日開戦~1953年7月27日停戦)の真っ最中であり、米軍も日本何かに構っていられない時代であった。欲を言えば航空管制官見習いの中村が、マイクを米軍士官から奪って、「もく星」号のコース変更を誘導すれば、避け得たものであった。
あなたが台北や台南を旅した時、何時か台湾空軍創設の父、老長田祥司と遭遇するかも知れない、またあなたが北京や上海や南京や重慶を旅した時、何時か古き良き時代の知性と美を備えた老貴婦人コウチュウに会うであろう。
また国内の田園風景のある都市で、ほろ酔い機嫌になると、今では聞きなれない英語“アン コンディショナル シュレンダー (unconditional surrender)”という言葉を発する80歳前後の好爺がいたら、かっての真面目な青年の航空管制官中村徹に違いない。
その時は犠牲になったマーチンN93043日航機「もく星」号の搭乗者の方々のことを思い出して欲しい。
アンコンディショナル シュレンダー
(unconditional surrender)
アンコンディショナル シュレンダー
(unconditional surrender) 終
2010年また極東アジアに重苦しい空気が襲うとしている。私たち市井の者は平凡で平和でありたい。もちろん日本の科学技術を必要とする国があれば率先して協力することに吝かではない。この小説の中の登場人物たちのように平和を乱したり争いを起こす協力は止めておこう。
2017年4月末またも韓国・朝鮮・日本に戦争が起きそうだ、今度は兵器の質がはるかに進歩している。米・中は余り干渉せず、韓国・朝鮮・日本だけが戦争になる、三原山旅客機事故程度ではない。これら3国が焦土になり人口も1/3になる。若者たちよ君らが71年前の戦災孤児になり、食い物がなく苦しむよ、よく考えて行動しましょう。
昭和27年(1952)4月9日の日航機「もく星」号の事故は、朝鮮戦争の犠牲者と考えられるので、今日(2018年)の南北会談には、66年ぶりに深い思いが湧き上がって来る。当時の乗客殆どが日本指導者諸氏であった、その遺族の息子たちも今や企業の第一線から退職し、孫や子を相手の人生後半を送っている。平和であってもアジア全体の幸せを創って行こう。