元勇者が左遷された書類審査部、パワハラ部長を“書類の不備”で処刑しました
王立魔法騎士団「書類審査部」には、部訓がある。
『書類は剣よりも強し』。
この部訓を作ったのはガルド・ベッカム部長だ。就任初日に自分で作って自分で額縁に入れて壁に飾った。既存の部訓はなかったので誰も止めなかった。
エルナ・ヴァレットはその額縁を毎朝見ながら思う。
剣の方が強い。絶対に。
「エルナ」
「なに」
「額縁、また傾いてるよ」
「毎朝傾いてる」
「誰も直さないの?」
「直すと部長が『私が飾った角度が正しい』と言うから誰も触らない」
「部長、額縁にも主権を主張するんだ」
「書類審査部に存在する全てのものに主権を主張する人だから」
「怖い」
「わかってる」
リリア・クロスフォードが干し芋を取り出した。朝の八時に。
「今日、元勇者が来るんでしょ」
「人事から通知が来てた」
「どんな人?」
「わからない。ただ」
「ただ?」
「魔王を倒した人間が、何らかの理由で称号を剥奪されて、書類審査部に来る」
「普通じゃないね」
「普通じゃない」
「エルナはどう思う?」
エルナは額縁を見た。傾いた額縁を。『書類は剣よりも強し』という文字を。
「……何があったにしても」とエルナは言った。
「ここは書類の世界だ。それだけは確かだと思う」
「それって慰めてるの? 脅してるの?」
「事実を述べた」
◇
扉が開いた瞬間、書類審査部の空気が変わった。
変わり方が、普通ではなかった。
背の高い青年が入ってきた。体格がよく、姿勢が良く、目が静かだった。静かすぎた。あの種類の静けさを、エルナは知っていた。嵐の前の静けさとか、抜き身の剣を鞘に収めたときの静けさとか、そういう類の静けさだった。
書類審査部の全員が、一斉に彼を見た。
見てから、全員がそっと視線を外した。
本能的に。
「レオン・アッシュです。本日より配属になりました。よろしくお願いします」
声は穏やかだった。一礼した。丁寧だった。
ただ一礼した瞬間、右手が腰の辺りに行きかけて、途中で止まった。剣がない場所に手が行きかけた。本人も気づいて、そっと手を下ろした。
誰も何も言わなかった。
「エルナ」
「なに」
「今の見た?」
「見た」
「腰に手が行った」
「行った」
「本能的に剣を探した」
「探した」
「書類審査部で」
「書類審査部で」
「……今日、面白い日になるね」
「面白いじゃ済まない予感がする」
レオンが自席に着いた。
配属資料を受け取った。開いた。
三秒後、顔が微妙になった。
エルナはそれを横目で見ていた。見ていたつもりはなかったが、見ていた。
レオンが資料を閉じた。開いた。また閉じた。
そして隣の審査官に、ごく静かに言った。
「あの」
「はい」
「これは……全部、書くんですか」
「はい、書類審査部の標準様式なので」
「……何枚ありますか」
「一式で三十二枚です」
レオンが三秒固まった。
「……魔王城、地下一階から最上階まで、十二日でした」
「はあ」
「こちらは」
「早い方で一件三日です」
レオンが窓の外を見た。石壁しか見えない窓の外を、しばらく見た。
「エルナ」
「なに」
「レオンくん、今遠い目をしてる」
「見えてる」
「魔王城より書類の方が長いって、どういう世界なの」
「書類の世界」
「怖い」
「わかってる」
◇
問題は、午前十時に始まった。
ガルド部長が部長室から出てきた。
部長が出てくるとき、書類審査部には特有の空気が流れる。全員が気づくのに誰も動かない、微妙な緊張感。長年の条件反射だった。
ただ今日は違った。
部長の目が、まっすぐレオンに向いていた。
そして部長の顔が、どこか、昂揚していた。
「アッシュ」
「はい」とレオンが立った。
「昨日提出した書類を確認した」
「はい」
「様式A‐2になっている。A‐3が正しい」
「配属通知にA‐2と明記されておりましたが」
「記載ミスだ。A‐3が正しい。常識でわかるだろう」
「……把握しました。ただ、報告内容が三行になってしまうのですが」
部長の顔が止まった。
「三行?」
「討伐対象、手段、結果。以上の三点を記載しました」
「三行で、何が伝わる」
「事実が伝わります」
「事実だけあればいいと思っているのか!」とガルド部長の声が上がった。
「書類というのはな、様式があって、余白があって、押印欄があって、初めて書類なんだ! 三行など、メモだ! メモを書類と呼ぶな!」
「……了解しました。では何行にすれば」
「最低でも三十行!」
「三十行、確認します。ただ、追加する内容は」
「余白を活用しろ! 余白が汚い者に英雄を名乗る資格はない!」
部屋が、静止した。
「エルナ」
「なに」
「今、『余白が汚い者に英雄を名乗る資格はない』と言った」
「聞こえた」
「余白と英雄の資格、繋がってるの? この国では?」
「繋がっていない。少なくとも法的には」
「部長の中では繋がってるんだ」
「部長の中では繋がってるみたい」
「部長の中の法律、独自進化してるね」
「独自進化している」
「ある意味すごくない? 自分の中で法体系を完成させてるって、哲学者じゃない?」
「哲学者ではなく書類原理主義者だと思う」
「違いは?」
「哲学者は他人の意見を聞く」
「なるほど」
部長がこちらを見た。
「ヴァレット! 業務中に私語をするな!」
「申し訳ありません」とエルナは言った。
「クロスフォードもだ!」
「すみません」とリリアは言った。
部長はレオンに向き直った。
「アッシュ、いいか。書類というのはな、この国の根幹だ。魔王軍が何百万いようと、書類一枚で封じることができる。わかるか」
「……書類で、魔王軍を?」
「召喚禁止令だ。適切な様式で、適切な押印で、適切な提出先に出せば、魔物の召喚そのものを法的に禁じることができる。お前が剣で倒した魔王も、書類一枚で存在を消せた」
沈黙が五秒続いた。
「エルナ」
「なに」
「部長、今『書類一枚で魔王を消せた』と言った」
「聞こえた」
「それが本当なら、なんでレオンくんが命がけで魔王城に行ったの」
「書類が間に合わなかったのかもしれない」
「提出期限を守れなかった? 魔王軍に?」
「……書類審査部が忙しかった可能性がある」
「それはまずい」
「まずい」
「書類審査部のせいで魔王が存続してたってこと?」
「……そういう理論になる」
「部長、自部署を告発してない? 今」
「告発してない。してないと思う。たぶん」
「たぶん?」
「部長の理論は時々自己矛盾する」
レオンが静かに手を挙げた。
「部長」
「なんだ」
「一点確認させてください。書類で魔王を消せたとのことですが、その書類は様式A‐3ですか、A‐2ですか」
部長が固まった。
「……A‐3だ」
「魔王召喚禁止令の様式を教えていただければ、今後の参考にしたいのですが」
「……それは別の部署の管轄だ」
「そうですか。残念です」
レオンは着席した。静かに羊皮紙を取り出した。ペンを持った。ペンを、インク壺に向けた。
止まった。
インク壺を、見た。
警戒するような目で。毒沼を前にした戦士の目で。
「エルナ」
「なに」
「レオンくん、インク壺を警戒してる」
「見えてる」
「なんで」
「液体に見えるから、たぶん」
「黒い液体を毒と判断する癖があるのかな」
「戦場では正しい判断だったと思う」
「書類審査部では?」
「インクを毒と判断すると、報告書が書けない」
「詰んでない?」
「詰んでる」
レオンが意を決したようにペンをインク壺に入れた。引き上げた。ペン先を見た。黒いインクが滴っている。顔が少し、険しくなった。
それでも書き始めた。
エルナはそれを見ながら、胸の中に何かが発生したことを確認した。
感情の発生を確認した。
種類の特定は後回しにした。今は業務中だ。
◇
部長の説教は、昼前にもう一度来た。
「アッシュ!」
「はい」
「押印の位置が三ミリずれている!」
部屋全員が書類から顔を上げた。思わず、という感じで。
「……三ミリ、ですか」
「三ミリだ! 押印欄の中央に捺すのが規則だ! お前の印鑑は中央より三ミリ右にある!」
「……定規で測られましたか」
「当然だ! 私は全ての押印を計測している! 書類審査部の印鑑は全て私が管理する! ズレた印は書類の尊厳を損なう!」
「エルナ」
「なに」
「印鑑に尊厳がある」
「あるらしい」
「押印欄の中央から三ミリずれると尊厳が損なわれる」
「損なわれるらしい」
「じゃあ一ミリは?」
「わからない。おそらく損なわれる」
「〇・五ミリは?」
「損なわれるんだと思う」
「どこまで許容されるの」
「中央のみ」
「中央って何ミリの誤差まで中央なの」
「部長の定規が決める」
「部長の定規が最高法規なんだ」
「書類審査部においては」
「怖い国だね」
「ここは部署だよ」
「部長の中では国なんじゃないの」
「……否定できない」
レオンが部長を見ていた。穏やかな顔で。ただ目の奥が少し、冷静に、何かを計算しているような目だった。
「もう一度、捺し直します」と彼は言った。
「やり直しだ! A‐3で、三十行以上、押印は中央に!」
「押印に際して、位置の確認用に定規をお借りできますか」
部長が止まった。
「……なぜだ」
「部長が計測して三ミリのズレを発見されたので、同じ精度で計測したいと思いまして」
「自分で計測しろ」
「定規がなければ計測できません」
「目で見ればわかるだろう!」
「部長は定規で計測されているとのことでしたので、目視では不十分かと判断しました。部長の計測基準に合わせるためには、同じ道具が必要です」
沈黙が落ちた。
「エルナ」
「なに」
「レオンくん、今すごく正論を言った」
「聞こえた」
「詰めた」
「詰めた」
「剣を使わずに」
「書類の論理で」
「元勇者、書類の扱いが苦手なんじゃなかったの?」
「……戦い方が違うだけで、戦えないわけじゃなかった」
エルナは胸の中の何かが、また動いたことを確認した。
感情の発生、二回目。
種類:保留。
対応:業務終了後に検討。
再発防止策:特になし。
以上。
◇
午後、エルナは庶務棚を開いた。
目的は二つ。権限付与の申請書台帳と、配属通知の控えだ。
台帳を引く。レオン・アッシュ、未記入。申請書、未提出。配属八日目。
配属通知の控えを引く。様式欄:A‐2。部長署名入り。
エルナは二冊を持って席に戻った。
「どうだった?」とリリアが聞いた。
「権限付与、未提出。配属から八日」
「他には?」
「配属通知にA‐2と書いてある。部長のサイン付きで」
「つまり」
「部長が自分でA‐2と書いて、A‐2は間違いだと怒っている」
リリアが干し芋を置いた。
「エルナ」
「なに」
「部長、今朝なんて言ってた?」
「『書類は剣よりも強し』」
「部長の書類、間違ってる」
「間違ってる」
「書類が剣より強いなら、間違った書類を書いた部長は」
「……自分の剣で自分を刺している状態になる」
「剣より強いもので自分を刺してるんだ」
「……そういう計算になる」
「エルナ」
「なに」
「これ、どうする?」
エルナは台帳を見た。配属通知を見た。
感情の発生、三回目。
種類:怒り、三十パーセント。使命感、四十パーセント。残り三十パーセントは種類不明につき保留。
対応:書類の不備を正規の手続きで報告する。
以上。
「部長に報告する」とエルナは言った。
「それだけ?」
「それだけ。ただ」
「ただ?」
「報告する前に、一点確認したいことがある」
「何を?」
「部長が今朝、追放という言葉を使った。称号剥奪の詳細は非公開のはずなのに」
「……部長、関わってるかもしれないってこと?」
「書類が正しければ、答えは出る」
「エルナかっこいい」
「かっこよくない。書類の話をしてる」
「書類の話をしながらかっこいいのがエルナだよ」
「……仕事をしろ」
「してる。好感度の管理は重要な業務だよ」
「誰の好感度を」
「エルナの、レオンくんに対する好感度管理」
「管理を委託した覚えはない!!」
◇
午後二時。
部長が部長室から出てきた瞬間をエルナは待っていた。
「部長、少々よろしいですか」
「何だヴァレット。手短にしろ、私は今から全員の押印角度を計測する予定だ」
「計測より先にご報告があります」
「なんだ」
「二点あります。一点目。アッシュさんの権限付与申請書が未提出です。配属八日目で、規定の七日以内を超過しています」
「……それは確認する」
「二点目。アッシュさんへの配属通知に、様式A‐2と明記されています。部長のご署名入りで。本日午前にA‐2は誤りとご指摘されていましたが、通知書との整合を確認していただけますか」
部屋の全員が止まった。
部長の顔が、いつもの赤とは別の色になった。
「……それは記載ミスだ」
「ご署名入りの配属通知が、庶務棚に原本保管されています。記載ミスであれば訂正書類が必要ですが、様式はご用意しましょうか」
「……訂正書類?」
「訂正には理由書の添付が規定で求められます。こちらが様式です」
エルナは三枚の書類を差し出した。
「エルナ」
リリアの声が、部屋全体に届いた。
「なに」
「今エルナが出した書類、受け取ると全部部長が詰む内容だよね」
「……正規の手続き書類です」
「一枚目の権限付与申請書を出すと、八日間放置の記録が残る」
「……そうなります」
「二枚目の訂正書類を出すと、自分で書いた配属通知の記載ミスを公式に認めることになる」
「……そうなります」
「三枚目の理由書に正直に書いたら自爆、嘘を書いたら後でもっと詰む」
「……そうなります」
「部長、書類は剣より強いって言ってたよね」
「言っていた」
「今、書類で詰んでるね」
「……詰んでいます」
「書類で自分を詰ませた」
「……そうなります」
「書類は自分より強かったんだ、部長にとっても」
「リリア」とエルナは言った。
「なに?」
「それは言わなくて良かった」
「でも全員思ってたよ?」
「思っていても言わない場合がある!!」
部長が口を開いた。
「これは嫌がらせか! ヴァレット、お前は私の足を引っ張ろうとして」
「部長」
レオンの声だった。
静かだった。低かった。部屋の空気が変わった。
「称号剥奪の際、提出された報告書に私の規律違反が記載されていました。ただ、その規律違反とやらに、私には身に覚えがありません」
「……それは」
「部長は先ほど『追放』という言葉を使われました。称号剥奪の詳細は非公開のはずですが、なぜご存知なのでしょうか」
部長が、固まった。
「……私は知らない。伝聞だ」
「誰からの伝聞ですか」
「……忘れた」
「忘れた」
「……忘れた」
「伝聞で聞いた話を、配属されてきた初日から私に向けて使われていたのですね」
「……それは」
「印鑑の位置が三ミリずれていると、定規で計測して指摘できる方が、伝聞元を忘れるのですか」
静寂が、部屋を満たした。
誰も何も言わなかった。
部長の顔が、くるくると色を変えた。
「エルナ」
「なに」
「レオンくん、詰めてる」
「詰めてる」
「剣じゃなくて言葉で」
「言葉で」
「元勇者、論破もできるんだ」
「……できるみたい」
「エルナ、好感度上がった?」
「……業務中だ」
「業務後に確認する?」
「……後で処理する」
「処理って言い方、感情に対して使う言葉じゃないよ」
「私の中では使う」
「それがエルナだよね」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
◇
扉が開いた。
入ってきたのは、見慣れない顔だった。落ち着いた雰囲気の中年男性。胸元に人事部の紋章があった。
「失礼します。人事部のケイン参事官です。ガルド・ベッカム部長はいらっしゃいますか」
「……私だが」
「アッシュ・レオン氏の件です。称号剥奪審査に関して、人事部に複数の証言と書類が提出されました」
部長の顔が白くなった。
「……証言、とは」
「審査の際に提出された報告書の筆跡が、部長の別書類と一致しております。また、依頼者とされる貴族からの書簡も確認されています」
部屋が真空になった。
「部長」とケイン参事官は続けた。
「先ほど書類審査部の審査官から、配属通知と権限付与申請書の不備について人事部に連絡がありました。その内容と、今回の証言が複数の点で一致しております」
「エルナ」
「なに」
「エルナが出した書類じゃないよね、人事部への連絡」
「……まだ受け取ってもらってなかった」
「じゃあ誰が」
二人は同時にレオンを見た。
レオンは静かに立っていた。部長を見ていた。穏やかな顔で。
「アッシュさん」とケイン参事官が言った。
「人事部への通報、あなたですか」
「はい」とレオンは言った。
「三日前に書面で提出しました。書類審査部の様式で。提出先と様式番号と押印位置を確認した上で」
部屋全員が、息を呑んだ。
「エルナ」
「なに」
「レオンくん、最初から書類で戦ってた」
「……そう、みたい」
「剣で戦う人が書類で戦った」
「……うん」
「しかも、押印位置まで確認した上で」
「……部長に言われたから」
「部長の教えを使って部長を倒した」
「……そういうことに、なる」
「書類は剣より強いって、部長が教えてくれたんだね」
「……レオンさんは、最初からそのつもりだったと思う」
「エルナ」
「なに」
「好感度、確認した?」
「……保留中だった分も含めて、全部確認した」
「結果は?」
エルナは羊皮紙を見た。
「……業務に支障が出ないか、検討中」
「それ、好きってことだよ」
「……種類の特定を急ぐ必要が生じた」
「かわいい」
「かわいくない、実務的な話をしている!!」
ガルド・ベッカム部長は、ケイン参事官に連れられて部屋を出た。
出る直前に、壁の額縁を見た。
傾いた額縁を。
『書類は剣よりも強し』という文字を。
何かを言おうとしたが、何も言わなかった。
扉が閉まった。
◇
三週間後。
ガルド・ベッカム前部長は不正関与と職権濫用で騎士団を追われた。
依頼した貴族も別途処分された。
レオン・アッシュの称号剥奪審査は再審査が決定した。
書類審査部の壁から、傾いた額縁が外された。
代わりに、新しい代理部長が一枚の紙を貼った。
『書類は正しく書きましょう』と書いてあった。
エルナはそれを見て、今までで一番まともな部訓だと思った。
◇
その日の昼。
「エルナ」
「なに」
「レオンくんに声かけた?」
「かけてない」
「なんで」
「業務上の適切なタイミングを検討中」
「それいつ来るの」
「……未定」
「ずっと未定じゃない?」
「……経過観察中」
「感情を経過観察するの?」
「対処法が確定してから動く」
「それ一生動かないやつだよ」
「……そうかもしれない」
レオンが書類を持ってエルナの席に来た。
「ヴァレットさん、A‐3の記入方法を教えていただけますか」
「はい」
エルナは立ち上がった。書類を見た。丁寧に、順番に、記入欄を説明した。
レオンは真剣に聞いていた。メモを取っていた。インク壺を少し警戒しながら、それでもメモを取っていた。
途中、押印欄の説明をしたとき、レオンが小さく言った。
「中央に、ですね」
「そうです。定規があると確実です」
「……定規を申請しました」
「申請書の様式は合っていましたか」
「三回確認しました」
エルナは、笑いそうになった。笑わなかった。笑わなかったが、なった。
三十分後、レオンが書類を揃えて一礼した。
「ありがとうございました。わかりました」
「どういたしまして」
レオンがその場を離れかけて、止まった。
振り返った。
「ヴァレットさん」
「はい」
「書類の不備を指摘してくださったとき」
「……はい」
「書類だけでなく、その書類を書かされていた状況ごと、見てくださっていましたね」
エルナは答えられなかった。一秒。二秒。
「……書類の不備があれば、背景を確認するのが審査官の仕事です」
「そうかもしれません」とレオンは言った。
「ただ、状況ごと見てくれた人は、初めてでした」
それだけ言って、戻っていった。
静かに、何でもないことのように。
エルナは自分の席に座った。
羊皮紙を見た。
感情の発生を確認した。
種類:ほぼ確定。
対応:未定。ただし、もはや保留にできる気がしない。
再発防止策:おそらく不可能。
以上。
「エルナ」
「……なに」
「今、耳が赤い」
「……知ってる」
「種類、確定した?」
「……ほぼ」
「ほぼってなに」
「……認めると取り返しがつかない気がする」
「もう取り返しつかないよ」
「……知ってる」
リリアが手帳を閉じた。
にこにこしながら、ただ一言言った。
「エルナ、続編入ったね」
エルナは何も言わなかった。
言わなかったが、否定もしなかった。
◇
エルナ・ヴァレットは今日も何も悪くない。
ただ書類の不備を指摘しただけだし、正規の手続きをしただけだし、三十分指導しただけだ。
レオン・アッシュに「初めて」と言われたことは、業務記録には残らない。
感情の種類については、ほぼ確定している。
ただし、認定は、もう少しだけ後にする。
断じて、何も悪くない。
◇後日談◇
再審査の結果、レオン・アッシュの称号剥奪は不当と認定された。
称号の再付与については手続き中だが、本人は特に急いでいないようだった。
ある日、書類審査部に押印用の定規が支給された。
申請書を出したのは誰か、誰も確認していない。ただ申請書の筆跡を、エルナは一度だけ見た。
何も言わなかった。
口元については、記録しない。
リリア・クロスフォードは今日も元気で、ユウショルイの三周目をしていた。攻略本の余白に、ここ数日の出来事のメモが増えていた。
書類審査部の壁の部訓は、今日も『書類は正しく書きましょう』だ。傾いていない。




