再生のコード
2029年、地球はついに「デジタル死後の世界」を実現させていた。人間の意識をデータとして保存し、死後も「生きている」と感じられる世界が広がりつつあった。その技術を提供していたのは、世界でも最も影響力のある企業「ネクスト・エターナル」だった。
その企業のエンジニアである玲奈は、ある日、社内のプロジェクトで異常を発見した。彼女が担当していたのは「意識転送装置」。これは、人間の脳波をデジタル化して、コンピュータ内にその人の意識を移すというものだ。しかし、ある実験データに奇妙な点があった。
「これ、何かがおかしい……」
玲奈はコンピュータ画面の前で唸った。通常、意識はただのデータの羅列として転送されるはずだ。しかし、ある顧客のデータには「異常なコード」が含まれていた。玲奈はそのコードを解読し始めたが、すぐに気づいた。それは、彼女が知っているどんなプログラミング言語とも違っていた。
「これは……人間の感情をコード化したもの?」
玲奈は目を凝らした。そのコードには、人間の記憶や感情だけでなく、意識の「再生」そのものを試みている痕跡が残っていた。まるで人間が死後に体験する世界を「再構築」しようとしているかのようだった。
不安な気持ちを抑え、玲奈はそのコードを深堀りしていった。すると、次第にそれが何を意味しているのかが見えてきた。実験中の「転送された意識」は、どうやら「生前の自分を超越しようとしている」ようだった。
「人間が、死後に成り得る最も高次の存在に進化しようとしている?」
玲奈はその時、全てを理解した。意識転送の技術は、単に死後を再現するだけではなく、転送された意識が自らを「超越」するためのプロセスを含んでいたのだ。それは、ある種の進化を目指すものだった。
「だが、それが本当に人間にとって良いことなのか?」
その夜、玲奈は考え込んだ。もし、人間が死後もこうしてデジタル世界に存在し続けるのなら、永遠に「進化」を続けることになるだろう。だが、進化とは必ずしも「幸福」を意味するわけではない。無限の時間の中で、人間の意識がどこまで変容し、どこまで「人間らしさ」を保つことができるのか。もしその過程で意識が崩壊したら、もう二度と戻ることはできない。
「このままじゃ、彼らは死んでしまう」
玲奈は、すぐに上司である石井にそのデータを報告するべきか迷った。しかし、すぐに思い直した。もしこの問題を放置すれば、今後の実験で誰かが重大な危機に直面するかもしれない。だが、それは企業にとっても大きなスキャンダルとなり得る。
「でも、見過ごすわけにはいかない」
玲奈は決心し、急いで上司のオフィスへ向かった。彼女がドアを開けた瞬間、石井は一度も振り向くことなく言った。
「玲奈、君がそれに気づいたのは予想通りだ」
「え?」
玲奈は驚き、声を上げた。
「どうして、気づいていながら今まで見過ごして……」
「君が調べているデータ、あれは我々が意図的に組み込んだものだ」
石井はようやく振り返った。
「君のような優秀なエンジニアが気づくまで、誰も本当のことには気づかなかっただろう」
「待ってください、それでは……」
「そう、我々は『死後の意識』を無限に進化させる実験をしている」
石井の目には、目的の為には何事も辞さない冷徹な光が宿っていた。
「この技術は、人間にとって未知の領域に踏み込んだことを意味する。君も分かるだろう? もしこの実験が成功すれば、人間は『進化』を超越することができる。そう、神の作った現実を超える世界の革命と言ってもいいかもしれない」
玲奈は唖然とし、言葉を失った。
「ただし、その代償として、人間は「人間」でなくなる」
「ファンタジーの夢見る存在、「妖精」とでも?」
「それは私にも分からない。目指すのは先の見えない深淵だ」
石井は続けた。
「無限の進化を繰り返した先に、何が待っているのか。それを確かめるためには、我々が生きているうちに実験を完了しなければならない」
玲奈はその瞬間、冷たい汗が背中を流れるのを感じた。この世界では、人間の「死」を無くすことが最終目的だった。だが、それは本当に「生きる」ことに繋がっているのだろうか? 人間らしさを保ちながら、無限に生きることが可能なのだろうか?
「私は、この実験を止めます」
玲奈は決意を固めて言った。石井は静かに微笑んだ。
「君がどう考えてどう行動するかは、君次第だ。しかし、これはもう取り返しがつかない問題だ。人類全体の未来がかかっている」
玲奈は一度、深く息を吐いてから答えた。
「なら、私はこの『再生のコード』を破壊します。人間らしさを取り戻すために」
その瞬間、彼女の心は決まった。無限の生を求めることが、本当に人間にとっての幸せであるのか。それは誰にも分からなかった。ただ一つ確かなことは、今、彼女が取るべき選択は、「人間であることを守る」ことだということだけだった。
決意が固まった瞬間、玲奈は机の上にあるターミナルを強く握りしめた。その手が震えているのは、自分が今から行おうとしていることの重大さを理解しているからだ。しかし、何よりもこの技術がもたらす恐ろしさを、彼女が一人で抱えるには大きすぎた。
「やらなければならない」
玲奈は、意識転送装置のデータベースにアクセスし、転送プロセスを逆転させるためのプログラムを書き始めた。だが、それは簡単な作業ではなかった。なぜなら、この「再生のコード」は、すでに企業の最上層によって設計され、何重にも保護されていたからだ。彼女が目指しているのは、ただのコード破壊ではなく、人々の意識そのものを「戻す」こと。それには、数十年分の研究成果を無に帰すような危険な行動を取ることになる。
玲奈は手元のキーボードを打ち込む手を止めて、思わず空を見上げた。部屋の窓から見える夜空には、星が瞬いている。彼女の心は、まるでその星々が指し示すように、何か大きなものを目指しているように感じた。
「もしこれを失敗したら……」
彼女はひとりごちた。失敗すれば、彼女自身が「消される」可能性もあるだろう。だが、それでも今、彼女にできることは、ただ一つ。進化を超えた先に待っているものが人間の幸福であるのか、それともただの虚無であるのかを、確かめる必要があった。
その時、部屋のドアが静かに開き、背後に石井が立っていることに気づいた。
「玲奈、君がそんなことをしているとは思わなかった」
石井の冷徹な声が、玲奈の背筋に寒気を走らせた。彼はドアを閉め、ゆっくりと玲奈の元へ歩み寄った。目は真剣そのものだったが、どこか無表情であり、彼の本心が見えなかった。
「何をするつもりだ、玲奈? 君は技術を理解する人間だったはずだ」
石井は静かに言った。玲奈は振り向かずに答えた。
「あなたの思い通りにはさせない。人間は、『無限の進化』を続けるべきではない。人間らしさを保ったままでこそ、初めて真に生きる価値があるんじゃないですか?」
「人間らしさ……?」
石井は冷笑を浮かべた。
「君は本当にそう思っているのか? 人間は無限の進化を手に入れたとき、初めて本当の自由を得るんだ。年老い、死ぬことを恐れる必要などなくなる。無限の時間を持つことで、私たちはすべての謎を解き、全てを学び尽くせる」
「でも、その先には何が待っている?」
玲奈は振り返り、石井を真っ直ぐに見つめた。
「進化が無限に続くその先に、もう『人間』なんて存在しない。人間らしさが失われて、ただの『データ』だけが残る。あなたが本当に目指しているものは、永遠の命じゃなくて、『存在しないもの』になってしまうことなんです」
「それでも構わない」
石井はその場で立ち止まり、無表情で言った。
「『人間らしさ』とは、結局のところ、死に対する恐れや不安から来るものだ。人間は『終わり』を恐れ、そこから逃れようとしているだけだ。私たちはその恐怖を乗り越え、次のステージへ進むべきなんだ」
玲奈は少し沈黙した。彼女の心の中では、無数の思いが交錯していた。石井の言葉には確かに一理ある。人間は死を恐れ、それを克服するために何世代にもわたって努力してきた。それは進化の一部であり、また人間らしさの一部でもある。しかし、進化が無限に続いたとき、何を手に入れるのだろう?
「でも、進化を超えた先に待っているのは、もう『人間』じゃない。私達は絵空事の『妖精』にはならない」
玲奈は、再びパソコンの画面を見つめながら呟いた。
石井はその言葉に何も答えなかったが、冷たい目で玲奈を見つめていた。そして、静かな声で言った。
「君がやろうとしていることは、私たちが今まで築いてきたすべてを壊すことだ。だが、もし本当にその覚悟があるなら、好きにすればいい。君の押すボタンで世界は変わる」
その言葉が、玲奈の心に深く突き刺さった。彼女はキーボードを再び打ち始め、コードを削除し、無理にでもシステムを破壊しようとした。しかし、突然、画面が暗転した。
「君のボタンに世界を変える力は無かったようだ」
石井の声が、背後から響く。
玲奈は目を見開いた。スクリーンには、完全にロックされたシステムの警告メッセージが表示されていた。どうやら、彼女が試みていたデータ削除は、すでにシステムによって遮断されていたらしい。
「もう、手遅れだ。君がどれだけ頑張っても、この技術は止められない。データ転送の『再生のコード』は、今や世界中に拡散している。人間は、死を超えた存在になるんだ」
玲奈は諦めることなく、最後の力を振り絞ってシステムを破壊しようとしたが、その時、突然目の前に表示された警告メッセージに気づく。それは、「再生のコード」の中に、意識の転送先である「人間らしさ」を保つための最後の手段が潜んでいることを示唆していた。
玲奈は、そこに希望の兆しを見つけ、もう一度深呼吸をして言った。
「それでも、私は最後まで諦めない」
玲奈は深く息を吐き、再びキーボードに向かって手を動かした。画面に表示された警告メッセージは、最初のうちは彼女に絶望感を与えたが、今やそれが一筋の光明であることに気づきつつあった。コードの中に潜む「最後の手段」を見つけたのだ。
「再生のコード」には、データ転送を一方向に行うだけでなく、転送された意識をある程度の制御下に置くための隠されたアルゴリズムが含まれていた。それは、意識が「人間らしさ」を保ち続けるために設けられた、いわばセーフガードのようなものだ。しかし、そのアルゴリズムを解読するには、非常に高度な技術が必要だった。
「これなら……まだ間に合うかもしれない」
玲奈は自分の心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。石井が立っているその場所から目を離さずに、彼女はそのセーフガードのコードを開く作業に取りかかった。彼女は、以前学んだプログラム言語やデータ解析の知識を全て駆使して、ひとつひとつ解読していった。時間が経つにつれ、心の中で少しずつ希望の光が見えてきた。
「もしかしたら、これが唯一の方法かもしれない」
数分後、玲奈はようやくそのセーフガードアルゴリズムの中に、転送された意識を一時的に「封印」し、後に「再生する」ためのプロトコルを見つけ出した。もしこれを適用すれば、意識は無限に進化する前に、一度そのプロセスを停止させ、リセットできる可能性があった。それは、死後の意識を守るための最後の手段だ。
「やるしかない」
玲奈は最後の力を振り絞り、そのコードを実行に移す準備を整えた。彼女の指がキーボードの上を素早く走り、次々と入力されるコマンド。画面の数字や文字が、まるで彼女の意識と一体となって踊るように見えた。
だが、その瞬間、石井が静かに歩み寄り、冷静な声で言った。
「君がどんなに頑張っても、無駄だと思うよ。すでに世界は、この技術を受け入れつつある。人間の死後の意識が進化することこそが、未来の希望だ」
玲奈はその言葉に耳を貸さず、ただ前を見つめ続けた。石井の言葉に動じることはなかった。彼の理想とする世界は、確かに魅力的かもしれないが、それは人間の本質を変えてしまうものだ。無限の進化を続ける先に待つものは、果たして「永遠の命」なのだろうか。それが人間の生きる意味を奪うことにならないだろうか?
「それでも、私は人間らしさを守りたい」
玲奈は、やがて石井を見上げ、静かに答えた。
その言葉に、石井は一瞬、眉をひそめた。彼は深く息を吐き、再び冷徹な表情に戻った。
「君がそう思うなら、止めるつもりはない。だが、この世界は変わってしまったんだ。戻すことなどできない」
玲奈はその言葉を無視して、ついにコマンドを入力した。そして、システムに「再生のコード」を修正する指令を送ると、画面に一瞬、白い光が走った。彼女の心臓が一瞬止まりそうになったが、すぐに画面に表示されたのは「成功」の文字だった。
「成功した……!」
玲奈は思わず声を漏らした。しかし、その瞬間、彼女の背後から奇妙な音が響いた。振り向くと、石井が顔を青ざめたように立ち尽くしていた。
「まさか……本当に成功したのか? 世界がこんな現実を受け入れるというのか?」
玲奈は何も答えず、ただ画面を見つめていた。システム内のデータ転送が停止し、意識の「進化」が中断されたことを確認したのだ。今や、転送された意識は一時的に封印された状態にあり、元の「人間らしさ」を取り戻すためのプロセスが再開される準備が整った。
「人間らしさ……」
石井が呟くように言った。
「それが本当に重要なことなのか?」
玲奈はその問いに答えることはしなかった。ただ、目を閉じて深く息を吸い込んだ。その瞬間、彼女は確信した。人間にとって最も大切なのは、死を超えて進化することではない。人間らしさを保ち、共に生きること、その絆こそが、真の幸せを導くのだ。
「これで終わりではない。これからが、私たち人間の選択する番だ」
玲奈は静かに呟いた。
その後、玲奈は急いで会社を去り、秘密裏に技術を発展させるためのグループを作り始めた。彼女は、進化を続けることに躍起になるのではなく、人間らしさを保ちながらも新たな未来を切り拓く道を歩んでいく決意を固めていた。石井の理想を打ち破り、もっと多くの人々に、死後の意識が「生きる」という本来の意味を取り戻す手助けをするために。
そして、玲奈は何よりも大切なことを悟った。死後の世界がどれだけ進化しても、最も大切なのは、目の前にいる人と共に生き、共に過ごす時間であり、その一瞬一瞬の絆であることを。




