進歩①
午後の授業は数学から始まった。
なんてことはない。いつも通り前回の復習からはじまり、決まった範囲を終わらせるだけの普通の授業だ。僕らのクラスの数学を担当していたのは川合さんがブチぎれたことで有名なヒステリック斎藤だった。そのため毎回いつ見えない地雷が暴発するかという緊張感のある時間にはなるが、僕のような目立たない生徒はそもそも目も付けられない。
斎藤は黒板に向かって解説をしながらチョークを動かしていた。僕らは黙々とその内容をノートに写している。すると、ノートの上にくしゃくしゃに丸められた紙切れが転がってきた。僕はとっさに紙が投げ込まれた方角を見る。そこには見覚えのある緑髪が頭部だけちらちらと動いていた。清運さんだ。
一体、何しに来たのだろう?
丸められた紙の上には、こんなことが書かれていた。
『 海野ちゃんとは仲直りしました。
態度悪くてごめんなさい。 』
「…」
僕はその内容を再三読み返して、ふと首を傾げ、廊下側の清運さんを見る。彼女の頭頂部は相変わらずチラ見えしていたが、幸いなことに僕の位置が妨げになってその存在に気付いている人はいないようだった。いや、後ろの席の者からは丸見えかもしれないが、そこは我が数少ない友人の場所であり、彼はいつも通り穏やかな寝息を立てていた。
海野さんと仲直りをした。それは良い。大変結構な事だ。けれどその後の『態度悪くてごめんなさい』というのは、二人の雰囲気が一瞬下向きになったことを言っているのだろうか?
それで僕が不機嫌になってその場から消えた…と。
そう思っているのだろうか?
「…」
僕は背中に嫌な汗をかいていた。ひょっとすればあの時の僕の行動は、傍から見て、すごい嫌な奴に見えたんじゃなかろうかと心配する。いや、確かに、あの雰囲気に若干の気まずさを感じていたのは事実だ。少し前まで楽しく話していたのに、急に一人が不機嫌になった。不安になるのは当然だ。何とかしたいと思うのは当然だ。
あの場を立ち去ったのは二人だけの事情がかつてあったのだろうと慮った結果であって、そこに自分がいたら邪魔になると思ったからだ。思いやりはあったのだ。
しかしその一方で、そのような行動が繊細な人にどのように受け取られるかというと、それは何というか、想像しただけで胃が痛くなる。
僕は今だに視界の隅でうようよしている清運さんを見て、仕方ないと立ち上がった。
「先生!トイレに行かせてください!」
「!?」
立ち上がった結果、廊下で隠れている清運さんと目があった。彼女の眼は驚愕で大きく開かれていた。
「どうぞー」
興味なしと言った様子で許可は下りた。僕に注目が集まった時に清運さんの存在もバレるかと思ったが、僕の後ろで爆睡している奴に斎藤の視線が向いたので事なきを得たのだ。
「あ、あの…」
「ごめん」
一際静かな校舎を清運さんと並んで歩く。薄暗い階段を下りながら僕らは話をする。
「ごめんって、その」
「気を遣わせちゃったよね。ごめん。僕の悪い癖なんだ。自分の中でいろいろ完結させちゃって、上手く言葉にできてないみたい」
「…怒って、るんじゃ」
「怒ってないよ」
僕らは一階に降りて、渡り廊下を渡り、他のクラスを避けて特別棟へと向かった。目的地は美術室だ。
「あ。今って授業やってる?」
「いえ、無人でした」
「そっか。じゃあ、ちょっとだけお話してもいいかな。時間ある?」
「時間…あ、は、はい!私は、大丈夫ですが」
話すって、何を。
そう言いかけて、清運さんはその言葉を飲み込んだみたいだった。
僕は人に迷惑をかけてばかりいる。
「清運さん。その」
僕たちは美術室の長机を境に向かい合うように座った。彼女は不安そうに僕を見ている。
「海野さんとは仲直りできたの?」僕が言う。
「はい。喧嘩って程でも、無かったですけど」清運さんが言う。
「そっか。良かった…」
「ご迷惑おかけしました」
清運さんが深々と頭を下げる。あまりに神妙なその態度に、僕は思わず焦ってしまう。
「謝らないでよ!本当になんとも思ってないんだ。寧ろ僕こそ、あんなふうにその場を離れてごめん」
「いえ、私が面倒な奴だからいけないんです。そもそも、二人は善意で協力してくれてるのにあんな…」
「いや、むしろ最悪なのは僕だよ。勝手に自己完結してかっこつけて…」
「いえ、私が全部いけないんです」
「いや、僕が…」
「いえ、私が…」
「「…」」
しばらくして二人で黙り込む。なんだか清運さんが自己否定をするたびに、僕も自分を傷つけてる気分だった。
「一応だけど、僕は二人しかできない話があると思って、その場を離れたんだ。それだけなんだ。ただ、仲直りしてほしくって」
「なか、なおり…?」
「うん」
「…」
清運さん目が信じられないものでも見るみたいに見開かれている。僕には彼女が今考えていることが手に取るように分かる。
「ごめん。分かりにくかったよね…」
「――わ、」
「わ?」
「分かりませんよぉ~…」
へなへなと目尻に涙を溜め、溶けながらそう口にする清運さん。分かりにくいよね。普通わかんないよね。
ホント、ごめんね!
僕は心の中で地面に額をこすりつけながら大反省。今、罪悪感で心のHPゲージがゴリゴリと削られているのを感じる。
「ほんっとうにごめん」
僕は誠心誠意頭を下げる。彼女は繊細な心の女の子なのに、それはあまりにも配慮に欠けた行動だった。僕と友達になった時、あんなにも喜んでくれた人に対する仕打ちではなかった。僕はまだまだ頭が足りない。この反省はしっかりと胸にとどめ、繰り返さないようにしていかなければならないだろう。
教訓は、相手の気持ちをもっと考える、だ。
「…じゃあ、」
「じゃあ?」
机に頬をつけていた清運さんが、ゆるゆると僕を見る。
「まだ私達、友達ですか?」
「も、勿論。そっちが良いならだけど」
「よかった」
彼女の顔に笑顔が宿る。本当に、心から安心したとでも言うような、柔らかな表情だった。
「私たちも、仲直りですね」清運さんが言う。
「そうなるのかな」僕が言う。
「あの。下沢くんって。もしかして”言葉足らず”…なんですか?」
「うん。ホント、申し訳ないことに」
「そうなんですね」
眉を下げながらの僕の返答。彼女はそれを受取ると、何か思案するように口に手をやり黙り込む。そこには先ほどまでの弱弱しい姿はない。僕は留学してすぐの、美術室で見た横顔を思い出していた。
「ありがとうございます。下沢君」
「え?」
そしてまた優しい笑顔を浮かべて僕を見る。
「海野ちゃんが言っていた意味が、少しわかった気がします。
…今なら描けそうです」
「――」
その言葉を咀嚼するのにそう時間はかからなかった。
僕はすぐに立ち上がる。
「モデル、やるよ!」
「いえとりあえず教室に戻ってください」
授業、途中なんでしょう?とそのまま微笑まれては返す言葉もない。
僕はやり場のないやる気を抱えたまますごすごと教室を後にすることにした。
「下沢さん」
その背中に声がかけられる。
「放課後に待っています。…ご迷惑でなければ」
「うん。絶対行くよ」
出来るだけ静かに戸を閉める。
僕こそ清運さんに教えられた気分だった。
人間関係とはこういうものだ。
失敗して、相手を傷つけて、反省して、誠心誠意謝って――相手の事を知って。その繰り返し。その過程で、こいつはもう我慢ならんとなっても構わないし、こいつだけは留めておきたいと思っても、何でもいい。ただそれを繰り返す。繰り返すたびに学んでいく。
やっぱりこの関係を続ける意味はあったのだと僕は思う。勉強することばっかりだ。何をするにしたって。
僕は自分の教室の前。眠そうな顔で立たされている悪友の姿を視界に収めながら、そんな事を思った。




