しもさわ君と三人の変人
僕は平均以下の人間だ。
これは自虐などではなく、単なる事実だ。
人が三日かければできることが僕の手にかかれば四日かかり、人が当たり前に持つ心の発達から、いつも取り残されてばかりいる。父と母がそんな僕の異常に気が付かなかったのは、両親も”僕と同じ”だからだ。妹も同じ。兄も同じ。
本来時間をかけて淘汰されるような遺伝子が、何の因果か現代日本まで生き残ってしまった。この国では、劣った人間でも生き残ることが出来てしまう。
僕ーー下沢ミルの存在は、そんな現代社会の在り方が生み出した悲劇といえる。
なんて、そんな風に自分の劣りっぷりに目を向ければ、正直死にたくなるような毎日だけど。
そんな自己肯定感が床に寝転がった僕のような人間にも、一つだけ誇れるものがあった。まったく幸いというかなんというか、僕はメンタルがめちゃくちゃ強かった。
いやメンタルそのものが強いというより、その立ち直りが以上に速い。ある日ぽっきり心が折れても、涙に枕を濡らしても、次の日には「あー、今日も学校かー」なんて言いながら起き上がってしまう。ともすればこの力は、打ちのめされることばかりだった下沢家が遺伝子レベルで身に着けた才能と、そう言えるのかもしれなかった。
そう思えば恨むばかりだった生まれにも、一筋の誇りのようなものが芽生えてくる。僕は生きるために生まれてきたのだ!
僕は確かに平均以下の人間だけれど。
人より少し努力すれば、人並みになることは出来る。
それは生きるうえで大層億劫な事だけれど、生まれてきた以上は、生きてきた以上は、自分が出せる最大限を出したいと思ってしまうのが人の性だ。
そんなわけでまあそこそこの具合で頑張って、そこそこの人間として生きていき、そこそこの人間として死ぬ。道中少し親孝行でも出来たら文句はない。
それが僕の人生だ。
それが僕の人生だ…けれど。
けれど、こうも思ってしまう。
もし僕が、初めから違う人なら、その僕は一体どんな人生を歩んだのだろうか、と。
生まれた時から何かを持っていて、自分は希少な存在だという自信があって、大抵のことに卑屈になることもなく、目の前にある困難は全部努力で解決できる類のもので、失敗と成功に裏付けされた自己を育ててきた。そんな僕なら。
そんな僕は、一体何を考えていきているのだろう。生きてきたのだろう。
どんな幸せを追い求めて、あるいはどんな物事を幸せとして定義していたのだろう。
あり得ないもしもを懸想する。
そして同時に思案する。
そのもしもを体現してきたような彼女たちはどうだろう?
生まれながらに人と違う、三人の変人。
僕は平凡極まる人生のその一瞬に、彼女たちが歩んできた道のりを、これから歩む未来を、その道中の景色を、その一端を、知ることになる。
◇◇◇
有崎純玲は変人である。
彼女はまず人と群れる事を良しとしない。周りが全て馬鹿に見えているからだ。賢い彼女は、自分以下の相手と会話することにメリットを見いだせず、基本的に一人でいる。いつも長い黒髪をたなびかせ、己の道をまい進するその姿はまさに一匹狼。何物にも媚びることないその態度や、凛とした美貌も相まって男女問わず人目を引く。キャラクター通り頭もいい。しかも中学時代に所属していた陸上部では、二年生にして国体制覇を成し遂げたという。短距離か、長距離かはよく知らない。いずれにせよ、神はいくつかの特色を与えて、彼女を作った。世の理不尽ココに極まれりだ。
そんな有崎さんと僕は向かい合って、17時を過ぎようとする放課後の教室で話をしている。その時ふと、こんなことを聞いてみた。
「有崎さんは、なんでクラス委員になったの?」僕が言った。
「推薦で大学に行きたいから」有崎さんが言った。
分かりやすく、簡潔な返答だった。つまり彼女は高校一年の春にして大学受験時のプランを立て、それを実行に移しているらしい。大学なんて東大以外知らない僕とは雲泥の差だ。
「そういうあなたは?」
「僕?」僕はうーんと唸って、持っていたシャーペンを回してみる。何故と言われると、確かに有崎さんのような立派なワケは持っていない。
「何となく。中学でもやってたから」
「フーン」
おお、いかにも興味を失った人の目だ…。
有崎さんはそれきりこの話題を広げるのはやめたらしい。手元に広げられた紙を見て、シャーペンの先で机をコツコツ叩いた。A4サイズの画用紙には、今度クラス対抗で行うレクリエーションの種目候補が箇条書きで並べられていた。止め跳ねが強調された彼女らしい、凛々しい字だった。実は裏側にも汚い字で同じ内容が書いてあるのだが、見るに堪えなかったらしく、途中から有崎さんが書記になった。恥ずかしい話であった。
このレクリエーション決めは、僕と有崎さんがクラス委員として初めて取り組む仕事であった。というのも、クラス委員に僕が立候補したのも、その五分後に彼女が立候補したのも、つい半月前に起こったことだったからだ。有崎さんが手を挙げた際の男子のどよめきっぷりと、射抜く様な視線は今でも忘れられない。というか、未だにちょっと怖い。
画用紙は机を挟んで向き合う僕たちの真ん中に置かれており、集中しようと身を乗り出すと、当然、彼女の大きな瞳と近づくことになってドキリとする。万が一もないのだから期待するだけ無駄なのに、緊張してしまうのは男の性だ。有崎さんはそんな僕の様子に気づきもせず、淡々と進行する。
「案に上がったのは、ドッジボール、大繩、鬼ごっこ、かくれんぼ...これ本当に高校生が考えたのよね?」眉を顰めて有崎さんが言う。
「そ、そりゃあ去年まで中学生だったし...」僕が言う。
最初に紙に書きだされたのは僕が考えた案だった。
一応言い訳をさせてもらうとすれば、考えたのは今日で、しかも授業中だった。つまりここに書かれた案は全然フルパワーじゃない。頑張ればもっとすごいものを思いついた。例えば?ケイドロとか。
「ドロケイじゃなくて?」有崎さんが目を丸めていった。
「…」
「…」
「それで有崎さんの案は…」
ええっと、と言いながら視線を画用紙の下部へ滑らせていく。クリケット、ボッチェ、ビアポン、ネヴァーハブアイエヴァー…。
「…」
「どれも少ない準備と人数で出来る遊びよ。特にビアポンは言語の壁すら凌駕すると言われているわ」
ふぁさっとドラマチックに黒髪をたなびかせる。
「クリケットはともかく、他のは皆なじみがないんじゃないかな」困り眉で僕が言った。
「そうかしら?」
「うん。僕が言うのもあれだけど」
「良いと思ったのだけれど…」と、画用紙を手に持ちながら有崎さんが言う。まだ納得はしていないみたいだ。意識が高い。というか痛い。
「というか、馴染みが無いと良くないなんて先生言っていたかしら」ふと顔を上げて有崎さんが言う。た、確かに…。いやいや、でもそういわれると、うーん。
「もう、ドッジボール大会で良くない?」僕が言った。
有崎さんの目がちょっと鋭くなった。
馬鹿を見る目だった。
「…これ、来週にクラス委員同士で集まって案を発表して、多数決で決めるのよね」有崎さんが言った。
「あ、そうだね」僕が言った。
「隣はまだやってるかしら。先生は、皆今日指示を貰った言っていたけれど、とりあえずどんな様子か見に行きましょう」
「そ、そうですね」
机に置いていた鞄を肩にかけて、僕らは立ち上がる。背を向ける有崎さん。なんか、明らかに目が合わなくなったな…。こういうの真面目やるの好きそうだし、あの案だってどこかずれていたけど、有崎さんなりに本気で考えたというのは伝わってきた。僕だってふざけていたわけではなかったけど、本気で考えたかと言われると、うーんって感じだ。
まじめにやってないのは僕だけだった。
ひょっとしなくても嫌われたかもしれない。
これはいきなりやらかしたみたいだ。
有崎さんの黒髪を目で追いながら、そう思った。と、その時だった。聞き馴染みのない音楽が、くぐもりながら教室に響いた。その発信源はすぐに分かった。有崎さんの鞄からだ。
「ちょっと、」と言いながら有崎さんは教室を出る。
僕は肩掛け鞄を持ったまま、携帯をいじることもなく、無人の教室に立ち尽くしていた。
「…申し訳ないのだけれど」教室の入り口から顔をのぞかせて、有崎さんが言う。
「急用が入って、家に帰らなくてはいけなくなったわ」
「わかった。こっちは任せて。ちゃんと持ってく」
「申し訳ないわ」
そう言い残した有崎さんの表情はみじんも申し訳なさそうじゃ無かった。
けれど走っていく後姿を見て、何か大事な事が後ろに控えていることは見て取れた。もしかしたらキューティな魔法少女にでも変身して、悪い悪魔を倒しに行くのかもしれない。
綺麗で、凛々しくて、まじめで、ちょっとズレてて、怒りっぽい。
でもそれ以上に。
「変な人だ」
心の底から、そう思った。
◇◇◇
川合海野は変人である。
彼女と会う人は皆、同じことを言うから間違いない。奇天烈な行動、活発な態度、そして――ちょっと引くぐらいの博愛主義。入学早々にして「ちょっとそれはどうなの?」と言いたくなるような思春期高校生の行動にも理解を示し、「きっと何かつらいことがあったんだよ」などと真剣に慮る姿勢は善人よりむしろ、変人の域に達すると言える。
そして彼女はそんな性格だからこそ、クラス内のどのグループにも属していなかった。理由は単純。彼女と接する誰もが、彼女と仲の良いという実感を――自分は彼女にとって特別だという実感を得られなかったからである。
彼女の博愛主義はちょっと度が過ぎていて、おそらく皆同じに見えているのではないだろうか。そんな事を大真面目に推察する生徒もいた。彼女は優しい。誰よりも優しく、コミュニケーション能力に問題があるわけでもなかった。けれど何物をも特別視しないその姿勢は、どちらかというと見切りをつけた社会人に近く、友情や愛情といった個人間の感情に特別性を求める高校生にとっては、馴染みのないものだったらしい。
何より、彼女自体がその状態を一切気にしていないものだから、その水の張られたコップに油を一滴たらしたような違和感のある状態が、今日まで何の滞りもなく成立している…らしい。
隣のクラスの話だ。
「あれ、下沢君じゃん。おっはー!」川合さんが言う。
「おいっす」僕が言う。
隣のクラスって入りにくい。それが入学して間もなければなおさらだ。僕が様子を窺うように隣のクラス(僕は1-4に所属している)、1-3組の様子を覗き見ると、教室の隅で携帯をいじっていた川合さんと目があった。
どっからどうみても怪しい僕に、嫌な顔一つせず川合さんは話しかけてくれる。非常に優しい。ぶっちゃけ好きだ。
「昨日ぶりだね!」花が咲くような笑顔。
「昨日ぶり。今日も走ったの?」僕が言う。
「走ったよー、そりゃもう。今朝は気合が入って十キロ制覇よ!」有崎さんが言う。胸を張り、力こぶを作る姿はいかにも活発な印象を僕に与えた。見ているだけでこっちまで笑顔になるような、そんな笑顔だ。
さて、平均以下の名をほしいままにする僕がどうしてこんな入学早々話題になるような美少女と知り合いなのかというと、それにはちょっとした物語がある。物語があるのだけれど、ここでは割愛する。要は早朝のランニングコースが一緒だったのだ。高校に入学する前から知った顔であったから、入学式の時に友人と「学年の可愛い女子めぐり」なんて言う最低な事をしているときにその顔を見つけた時は驚いた。
以来 (といっても半月も経っていないけれど)、僕と彼女は顔を合わせれば会釈する程度の関係に落ち着いたのであった。
「どしたの?誰かに用事?」
「うん。川合さんに…これ、レクリエーションの種目決め」
知ってる?と知らない体で声をかける。教室には川合さん一人しかいなかった。
「…あ、下沢君!クラス委員だったの?なんか意外」
「よく言われる」ちょっと無礼な所も魅力である。
「えー。でも、知ってる人がいて良かったよ…正直ちょっと緊張してたし、とにかく入って入って!」
川合さんに手招きされて、校庭側の席に案内される。所謂主人公席というやつだ。皆にとって望ましい場所なのに、位置関係的にちょっと近寄りづらいその席は、彼女に相応しく思えた。
「川合さん、一人なの?」僕が言う。
「あー、ついさっき帰っちゃって」川合さんが言う。
「そうなんだ…、3組のクラス委員って誰なの?」
「森君と木下さん。知ってる?」
「全然知らない…って、あれ?川合さんは?」
「私クラス委員じゃないよ」
「君クラス委員じゃないの!?」
衝撃の事実に大きな声が出てしまう。で、では川合さん君は何者…。
「森君、バスケ部でもうレギュラーに抜擢されたんだって。で、放課後は部活でいそがしくって、山下さんはしばらく何か用事があるとかで、放課後は来られないんだって」
「…」
山下さん、終わった女だ。
「それで、頼まれて引き受けたの?」
「うん。私放課後に何かすることないし」
そんなの世の高校生はだいたいそうだ。
彼女は本当にそれを信じているのだろうか?
「山下さんってどんな人?」
「女の子だよ。髪は…短いかな。ショートボブってやつ」
「ふーん」
僕は斜め下を見て、川合さんの話を聞いている。
「…あの、私本当に大丈夫だからね?」川合さんがのぞき込むように言う。その表情はどこか困っているようにも見えた。どうやら不機嫌が顔に出ていたらしい。
「別に。でも山下さんって、もしかして嫌な奴なんじゃないの?」僕は言う。
「嫌な奴じゃないよ。山下さんとは、何ならクラスで一番仲もいいの。私、本当にそういうのって気にならないの。嫌でも好きでもないの。勿論、用事があったら断ってたよ。その程度の気持ちしかないの」
だから心配しないで。迷惑だから。
言外にそういわれている雰囲気を感じ取って、僕はひるんでしまった。彼女がクラスで浮いている理由も、山下さんと最も仲がいいという理由も、何となくわかってしまった。
…まあ、本人が気にしていないならいいか。
僕には関係の無いことだし。
やることもあるし。
「じゃあ、気を取り直して、私が考えた案を発表します!」川合さんがそう言って、自分の机の上に置かれたルーズリーフの紙を持ち上げる。
栗色の髪をたなびかせながら胸を張り、シャーペンで差された紙の中央にはでかでかとした文字で"ドッジボール大会!!"と書かれていた。候補ですらなかった。
「…おお!ちなみにこれは何で?」顎に手をやり、身をかがませながら僕は言う。
「一番楽しいから」川合さんが言う。
分かりやすい。簡潔な答えだ。有崎さんが聞いたら頭を抱えるに違いない。
「ちなみに、他の候補は?」
「ないけど」
ははーん。さてはこの人、引き受けたはいいけど真面目にやるかは別ってタイプだな?
僕は勝手に積み上げていた山下さんへの溜飲が勝手に流れていくのを感じていた。
「そっちのは?」川合さんが言う。彼女はそれと同時に自分の席に座り、きらきらとした目でこちらを見ていた。そう期待されると自分のアンサーに自信が持てなくなるのでやめてほしい。
僕は川合さんの前の席の椅子を勝手に拝借し、そこに腰かける。古い木製の椅子なので、引きずるだけでギギギと嫌な音が鳴る。僕は手に持っていたA4の紙を持ちだし、机の上に置いた。
その内容を見ようと、川合さんが机に身を乗り出す。
「ぎっしりだね」
「うん」
「この…後半のカタカナの羅列は、何?」
「知らない」
姿勢を戻した川合さんと向き合い、二人して首をひねる。
「あ、そういえばそっちのクラス委員って…」
「僕と、有崎さん」
「え!」目を丸くして、口元を抑える川合さん。
「有崎さんって、あの美人の!?」
「…まあ、そうかも」どうやら隣のクラスにまで彼女の美貌は轟いているようだ。
「あの、入学して半月で二桁の男子を振ったって、あの!?」どうやら隣のクラスにまで彼女の勇名は轟いているようだ。
「なんか、すごい、有名だよね」
「またそんなクールぶっちゃって!有崎さん、こっちの女子にもファンいるんだから!きっとみんな羨ましがるよー」本当に思っているのかいないのか、コノコノーとか言いながら、川合さんは肘で僕をつついた。そういうスキンシップは緊張するからやめてほしかった。
「あれ?でも、有崎さんは?」
「ついさっきまで一緒にいたんだけど、急用らしくて帰っちゃったんだ」
「ありゃ、それは残念。ついてないね、下沢君も」
その言葉には黙って肩をすくめるしかない。実際、彼女は仕事は僕の三倍きちんとやってくれたし、文句なんてあるはずもない。けれど、有崎さんはただでさえ目立つし、僕のこと完全に見下してるし、美人すぎて緊張するしで、勝手に疲れてしまう。勿論、全部僕の責任だが、もし彼女が相方になると分かっていたら、僕はクラス委員になんて立候補しなかっただろう。
僕は椅子に浅く腰かけて、あの頃に戻れたら…と、遠い目をした。
「てか、候補ってこんなにないといけないの?私一個でいいと思ってたよ…」有崎さんが言う。
「いや、これはウチが出しすぎだよ。実をいうと、僕と有崎さんじゃ思考のレベルが違いすぎて、絞り込めなかったんだ。自分の考えを完全にを読んでるAIと会話して、ずっと四手先の未来で否定されてる気分だったよ」
「何それ」
眉を曲げて首をかしげる川合さん。冗談が通じなかった。
僕のギャグは面白くない。
「とにかく、こんな感じで案がまとまってなかったから、他のクラスはどんなもんなのかなって」
「あ、それで来たんだ」
「うん。もう見せてもらっちゃったけど」
案のまとまり具合と方向性が知りたかったのだけど。
「むしろ私がご助力いただきたい状況だね、これわ!」
「適当におもいつくこと書いておけばいいんじゃない?」
「ネヴァーハブアイエヴァー貰っていい?」
「それで良いならいいですよ!?」
まさかの、大人気であった。
いったい何なんだ、ネヴァーハブアイエヴァー。
彼女が紙に色々書き足すのを見届けて、ふと時計を見るともう18時を回っていた。まだ日は落ち込んではいないけれど、次第に夕日があたりを包むだろう。
「そろそろ帰ろっか」川合さんが言う。
「そうだね」
僕は紙以外机上に広げていなかったので、必然、筆記用具やら何やらを散らかしていた川合さんを待つことになる。
「よし、準備オッケー!じゃ、帰ろう帰ろう!」
「うん…あ、」
「ん?どしたの?」
威勢よく歩いていく川合さんの背を見て、僕はハッと思い出した。自身の肩掛け鞄に感じるずしりとした重み。今日が図書館の本の返却期限だったのだ。
「ごめん、俺本返さなきゃ」
「ありゃ残念。それじゃ、またね」
「うん。また」
「…あ、私も今思い出した。有崎さんの事なんだけど」
廊下でちょうど別れようとしたその時だった。僕は声にひかれて、川合さんの方を見る。有崎さんがどうしたって?振り返ったその先で、川合さんと目が合うと、彼女は口元に手をやって、眉根を寄せた。何か深刻な事を考えているような表情だ。僕は無言でしばらく待っていたのだけど、帰ってきたのはあいまいな笑顔だけだった。
「何でもない。ごめんね、忘れて」
「…?じゃあね」
手を振ってわかれる。廊下を小走りで図書室へ向かいながら、川合さんが最後に浮かべた曖昧な表情の真意を探ろうとするけれど、答えは出なかった。考えが及ぶほど、彼女について僕が知っている情報は少なかった。それは川合さんについても、有崎さんについてもそうだった。
僕は彼女が浮かべた曖昧な笑みをもう一度思い返す。
そして足跡の反響のみが聞こえる廊下を行きながら、誰に言うでもなく呟いた。
「変な人」
夕焼け空が西から広がっていた。
◇◇◇
清運朱莉は天才である。天才すぎて、いっそ変だ。彼女が何の分野において天才なのかというと諸説あるが、一般に彼女の噂を耳にする際、とりわけ聞こえてくるのは絵画の話だった。油絵を専攻する彼女の絵は、美大進学をあきらめた美術部顧問が見るのを躊躇するほど素晴らしく、なまじ才能の「ある・なし」を知るものほど、脳に焼き付く様なパワーがあるらしい。
入学当初(今もだが)、僕は無二の友人と例の「学年の可愛い女子めぐり」とかいう下劣な品性を体現したようなイベントをこなしていた際に彼女の姿を発見し、ついでにその絵を目にしたことがある。素人目にも素晴らしい出来で、僕はその豊富な語彙を尽くして「絵、うっま」と思った。それ以外はよくわからなかったけれど、とにかくなんか、オーラがあった。凄い。多分、すごいのだろう。
そんな彼女が天才と言われるのは絵画の世界だけではなかった。曰く、書道の大会でアジアを制したとか、司法試験一発合格だとか、大学教授に代わって講義をしているだとか、医学にも精通しているだとか、覚えたてのデッキ回しでカードゲーム大会で優勝したとか。噂が広がりすぎて最早何がデマかも分からないが、そんな彼女を人々は現代のダ・ヴィンチと勝手に呼んだ。本人がどう思っているのかは分からないが、もしかしたら自分の概念がいつの間にか肥大している事なんて、知りもしないのかもしれない。というのも、彼女は学校に来ても基本美術室に籠りっぱなしで、入学後間もない今既に、立派な美術室登校(?)を決め込んでいるからだった。
その緑がかった髪は当然染めているらしい。長髪ながらも綺麗に手入れされた有崎さんとは違う、のばしっぱと言った感じの長髪に、常に視界の邪魔にならないよう、長い前髪をまとめるヘアピンが彼女の特徴だった。生徒指導が何も言わないのは、彼女の立場がデリケートかつ複雑だからだ。次代の流れというやつだ。
そんな状況を耳にしても、僕ら生徒から不満が出る事はなかった。あまりにできすぎた人間というのは、多少であればそういうものとして受け入れられる。自分より優れている者にかみつくのは、無駄だと感じる者の方が多かった。
そんなある意味でわが校一のアンタッチャブルな清運さんが、正面玄関付近の自販機の前で倒れていた。
図書館で本を返した直後の事だった。
「えぇー」
その姿を目にしたときに思わず漏れたのは驚きではなく忌避感であった。
正直今日はもういいよというような。
もうおなかいっぱいなので明日でもいいですか?と聞きたくなるような、そんな感じ。
「う、うーん」うなりごえが聞こえる。無論、清運さんからだ。
僕は悩む。
これ、声をかけるべきなのかな。いくらギャグっぽい感じで両手を放り出して仰向けで倒れているとはいえ、大事かもしれないし。ここで見て見ぬふりをしたところで、旅行前に戸締りをN回
「あの、大丈夫ですか?」
「…」
返事はない。
大丈夫、大丈夫だ。彼女は何かギャグ的なあれで寝ているだけ。それか芸術家だから、こうして大地の神的なあれと交信して天啓を授かろうとしているのかもしれない。もし本当にそんな奴なら、今すぐ僕は帰るべきだ。
僕はもう一歩踏み出し声をかけようとする。
「あのー、」
その時だった。
「…モデル捕獲」
「ん?」
そんな発言が足元から聞こえたと思ったら、僕の足に病的に細い腕が絡みついていた。試しにその場から動こうとするけれど、無理に動けばその細腕が砕けそうで動けない。
僕は未だに顔すら見せず、僕の足にしがみついている清運さんの頭に声をかける。
「清運さん?だよね?」僕が言う。
「…」返事はない。
「体調とか、大丈夫?もし何かあったなら、先生呼んでくるけど」
「それはやめてください!」
初めて声が聞こえた。そして初めて目があった。そこには見覚えがある、けれどあの時の印象とはずいぶん印象の違う表情を浮かべた清運さんの顔があった。その綺麗な顔には涙の跡が残り、目の下は腫れ上がっている。彼女の象徴的なヘアピンはどこかへ行き、長すぎる前髪は口元まで垂れ下がっていた。
その姿を見て。当然ぎょっとして。次に心配をする。一体彼女に何があったのだろう?と。だって僕が初めて見た時の清運さんは、一人黙々とキャンパスに向かうキリリとした横顔だ。有崎さんとはまた異なる別世界の大人っぽさを彼女からは感じていたというのに、今の彼女はどうだろう。
その姿はまるで、始業式の日に夏休みの宿題を全部忘れた子供のようだ。
「ど、どうしたの?何があったの?」僕が言う。とっさにかがんで視線を合わせると、清運さんは俯いて。
「…なんです」
「なんて?」
「スランプなんです!」
「スランプ?」
そう言った。
スランプというと、あれか?スポーツ選手とかが良くなる、あれ。
「それは大変だね…」僕は神妙な顔で頷いた。
しかし、僕にできる事は何もなさそうだった。
「じゃあ、今後とも頑張ってくださ」
そう言って立ち去ろうとした僕の腰には、依然としてずしりとした重しがぶら下がっている。これは一体どうしたものか。僕は自分が現在置かれている状況を第三者目線から冷静に推察してみる。放課後の、夕暮れに包まれる学校。人目に付く正面玄関の前で、僕は学校でも有名な清運朱莉にしがみつかれている。しかも彼女は泣きはらした末のしゃがれた声で、「助けてください…」なんて呟いている。
放課後とはいえ、今は当然ド平日。まだ学校にいる生徒だっているだろう。そんな人たちにこの状況を見られたら、一体どうなるのだろうか。
僕の学校生活は、終わる!
「と、とりあえず。その、話聞くから、そこで座ろう」
今にも泣きだしそうな清運さんの手を引き、正面玄関に隣接された、中庭のベンチに腰掛けた。
僕はなぜこんなことをしているのだろう。
「…それで、スランプって?」白々しくも僕は聞く。
「絵が描けなくなったんです」清運さんが言う。
まあ大体、言葉通りの意味が返ってきた。
そうか、スランプか。僕は経験ないけど、こういう芸術とか、スポーツとかを生業にしている人にはままあるらしい。心的要因外的要因。いろいろ考えられるけど、一言でいえばステータス、絶不調。
超高度な技術を持った人にとって、実はその技術はとんでもない複合的な要因によって支えられているものだから、あるピースが外れると途端に昨日までできたことが出来なくなってしまう…といったものらしい。しかも厄介なことにその外れたピースがなんであるのか、本人にすら分からない場合も多いと聞く。
しかもいつ終わるか分からない不透明さ。
その技術がその人にとって致命的であればあるほど、その影響は大きい。
そんな困った状態に、彼女は置かれているのだそうだ。
そりゃあ、大変な事だ。
自販機の前で仰向けになりたくもなる。
なるか?
「あそこで寝ていたのは、運命に任せていたんです」
「運命?」
「はい」
泣き腫らしている清運さんに、ハンカチを渡す。彼女はお礼を言ってそれを受け取り、そのままズビビと鼻を噛んだ。イカれているのだろうか。
「私は、生まれて初めてスランプになりました。そしてその原因も分かりません。ある日突然、目の前で描いているモノが、自分の絵だと思えなくなってしまったんです。これは大変な事でした。勿論いつ解決できるのかもわかりません。一月後には絵の締め切りなのですが、デッサンすら上手くけなくなってしまいました。かといって、腕をなまらせないためには毎日書き続けなければならない。でも、正直プレッシャーやら何やらが重なって、私は絵を描くのが今あまり好きじゃないんです」
僕は黙って話を聞いている。
「だからいっそ、全く違う絵を描こうと思いました。私はこの学校に来てから、思えばほとんどの人と触れあっていません。だから全く知らない、新しい人と知り合って、その人を絵に起こせば、何か変わるんじゃないかって、思ったんです。
加えてスランプになった原因が偶然の、ある種運命的なもので、私にそれがどうしようもできないなら、いっそその被写体すらも運命に任せようと」
僕はそこで、首をひねった。
「私は思い経ったらすぐに行動するタイプなのです。私は寝ました。人通りが最も多い正面玄関の、自動販売機の前で!そうしたら向こうから話しかけてくれると信じて。
そして気づきました。もう下校時刻はとうに過ぎていて、人がほとんどいないことを!
私は待って、待って、待って…あきらめかけたその時に、ようやく出会えたんです。それがあなたです。
名前も知らない人。これは運命です。これから百億を稼ぐ未来の画家の、絵のモデルになってはくれませんか?」
「…」
怒涛の勢いでまくしたてて、きらきらした顔でこちらを見上げる清運さん。早口すぎてよく聞き取れなかったうえに、聞き取れた箇所も何言ってるか分からなかった。というか、所々理解が出来ないところがあった。
「…め、」
「め?」清運さんが、ちょこんと首を傾げた。
「メモを取ってもいいかな?」
要約すると、つまりこうだろうか。
僕は鞄からメモ帳を取り出して、頭の中の情報を文字に起こす。
①清運さんがスランプになる。
②絵を描くことが億劫になる。
③気分転換に新しいことを取り入れようと考える。
④新しい知り合いを作って、その人をモデルに絵を描けば解決するはず(←?)
⑤早速誰かに声をかけてもらうために、人通りの多いところでぶっ倒れよう!(←?????)
「これであってる?」僕が言う。
「はい。過不足ないです」ぱちぱちと手を叩きながら清運さんが言う。
せめて不足はあってほしかった。④と⑤を実行するに至った具体的な背景は最早聞いても仕方がない。どうせ理解できない類の事だ、この手の変人の発想は。突拍子もないことをしていいのは変人の特権である。
「それで、このモデルが僕なの?」僕は眉の間を揉みながら言う。
「はい。そうです」清運さんはいたって真剣に頷く。
「君は僕に絵のモデルになってほしい」
「そうです。運命的です」
僕の手はまだ眉に当てられている。目も閉じている。
「…それ自体は、構わないんだけど」
「いいんですか?」清運さんは目を見開いた。
「…別に、いいんだけど」
そういいつつ、僕はううんと悩んでいる。本当に受け入れてもいいんだろうか、と。
一応了承したのは、断る理由が無いからだ。僕は部活には入っていないし、クラス委員の仕事がないときは、本当にやることがない。有名な人の絵のモデルになるなんてのは面白そうだし、優越感がある。悩んでいる原因は「よく知らない人について行っちゃいけません」という、子供の頃に学んだ忌避感からだ。
…けれど、僕はもう一度清運さんと目を合わせる。
その小さな体を見る。少なくとも力を入れれば折れそうな彼女の体は、大型犬よりよっぽど無害に見える。寧ろ彼女が出会ったばかりの僕を信用しようとしているのが違和感で、それが何かあるんじゃないかという疑念の根源だった。
だから僕は一度了承しておきながら、やんわり人選のやり直しを促すという、非常に中途半端な動きに出てみた。
「構わないけど…やっぱり、もっと向いている人がいると思うよ?僕は全然イケメンじゃないし、それに、よく知らない男にそういうの頼むのって、なんかどうかしてるってうか」
ジッとしてられないかも、と僕は笑って言う。
「知らない男に頼むのはどうかしている…」清運さんは僕の言葉を咀嚼している。そしてそれが意味するところを理解したうえで言う。
「ここは学校ですよ?」真っ直ぐな瞳が僕を射抜く。
うん。まあ、そうだ。
僕が間違っていた。今のは。
それに。清運さんは続ける。
「被写体に美醜の基準は設けていません。あなたは見たところ善良そうですし…大事なのは、もっと本質的なものです。絵はメタファーですから」
「めたふぁー?」
「表面的なものの表現において、その天井は射影機が誕生した時点でもう叩かれているのです」
確かな事実をなぞるように彼女は言う。
そこにはもう、つい先ほどまでの頼りなさげな少女の姿はなかった。確かな自分を持って世界を見つめる、強い強い少女の姿があった。
「だからあなたでいいのです」
そして僕は思う。ああ、この感じだと。
何か大きな力を持ったものの前に、二の句も告げず絡み取られていくこの感じ。
言っていることはいまいち理解できないのに、その発言をした本人からは確かな確信というか、自信を感じるこの語り。疑いをかけようにもその実力が前提としてある以上、迂闊に絡むことすらはばかられるような聖域感。それは僕が劣等感まみれの人生の中で、幾度となく体感してきたものだった。
ただ、この人の邪魔をしてはいけないと。
カスのような人生を送る自分たちは、路傍の石ころになって彼女たちを転ばせることだってあってはならないと、そういった感情。
多分、彼女と僕の間には一枚隔たれるような壁がある。その壁は彼女を包むようにドーム状の膜を張っていて、彼女はその中から僕を見ている。僕の声は届かないし、彼女に何の影響も与えない。やがて僕はそのドームの中に取り込まれて、自分の意志として、彼女に従いたくなる。その通りにすれば、正しい方に進める気がする。
清運朱莉は正しいことを言っている。少なくとも彼女の世界において、絶対的な真実を知っている。それが外の世界でどれだけ理解を得られようとかまわない。だってそれが真実なんだから。
それはカリスマというものだ。
持たざる者が持つものに総じて感じる、有無を言わさぬ敗北感。
僕たち平凡な思春期の高校生はそれを羨ましいと思う。
だって彼女の発言に裏打ちされるのは、確固たる自我、確かな自信、自分が何者であるかの理解…と言った、今まさにモラトリアムに突入しようとしている僕らが欲しくてやまないものだから。
「いいよ。空いてる時なら…」僕は言う。僕の心には、敗北感と優越感がごちゃ混ぜになった感情があった。
「勿論です。寧ろ、あなたとお話をして、知りたいと考えています。それが大切な事なんです」
清運さんはポケットから鉛筆を取り出して、片目をつぶり、僕との間の距離を測った。
「私。描きたいものを見つけた時は、ビビッ!と来るんです。ビビッと来て、その絵の完成図が頭に浮かんでくるんです。そして早くそれを完成させたくてたまらなくなる…あなたを一目見た時に、それが見えました。貴方を中心にして強い光が渦巻いている。そんな絵が見えたんです」
…清運さんの言う事は、依然としてよく分からなかったけれど。
多分、そんな事は重要ではないのだろう。
「とりあえず、今日は帰るよ。詳しい話は明日でもいい?昼休みの時間に教室に顔を出すよ」
「はい。ワタナベに話を通しておきます。本当にありがとうございます。このご恩は実益を持ってお返しします。」
ワタナベというと、美術部顧問か。流石に美術室登校の清運さんと言えども、先生とのかかわりはあるらしい。
そもそもちょっと突飛な所はあるけれど、話せばわかるって感じなのに、何故清運さんは学校の皆と反さないのだろう?絵に集中したいから?その辺も、聞く機会があるのだろうか。
「ところで、あの、名前は?」清運さんが言う。少し申し訳なさそうに。
「ああ」確かに、僕が彼女の事を一方的に知っていたから、そもそも名乗るのを忘れていた。
「下沢ミル。カタカナで、ミルって書くんだ」
「ミル…珍しい名前ですね」
「名前だけね」」
手を上げて今度こそ正面玄関へ向かう。清運さんはまだ美術室にいるらしく、去り際に深々と頭を下げられた。
何だか今日はどっと疲れた。ただでさえまた入学して半月のなれない時期だというのに、一日で知らない人種と関わりすぎた。こんな初期でこの調子なら、今後の学校生活は一体どうなってしまうのだろう?
…まあ、いいさ。何が起ころうと何と関わろうと、僕という人間は変わらない。
たとえ明日、クラス委員の相方から冷たいまなざしを浮かべられようと、朝のランニングで同い年の女子に追い越されようと、モデルだからと裸に剝かれようと。
この平均以下の人間が、何か重大な影響を…核心的な物語に触れる事なんてないのだから。
とりあえず今日はぐっすりと寝て、布団の中で十分反省したら、明日からも一日頑張ろう。
◇◇◇
…しかしこの時の僕はまだ気づいていなかった。あるいは、理解していなかった。彼女たちの変人性を。その異常と言える精神性を。それらが生み出す、大きな闇を。
無関係でなんて、居られるわけがなかった。だって彼女たちは一騎当千の変人たち。僕の引いた薄い一線なんて取っ払って、まるで台風の目の様に、僕個人をかき乱して吹き飛ばす。吹き飛ばされた先で見るのは、全くの知らない光景。
そして僕は知ることになる。
高潔すぎる秀才の、崩れそうなほどに柔い心の部分を。
誰よりも優しい八方美人の、根底に根差す嫌悪を。
自分の世界を作る画家の、あまりにも狭量なその生き方を。
それらを裏打つ心の闇を。
無関係ではいられない。逃げる事なんてできやしない。だって僕はもう出会ったしまったのだから。近づいてしまったのだから。その大きすぎる引力に巻き込まれ、渦中に導かれてしまったのだから。
僕は知ることになる。
彼女たちを知ることになる。
そしてその先でたどり着く、彼女たちの答えを知ることになる。
それがどれほどの事か、少なくともその時の僕はまだ、何も知らなかった。