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39.あなたが救ってくれた、あの日から

 俺は、昔から優秀な兄と比べられて育った。

 父は警視総監、母は医者、9歳上の兄・怜司(れいじ)は東大首席入学だった。

「怜司は東大を首席で合格したのだから、弟のお前にもできて当然だろう」

 そう両親に言われ続けてきたけれど、俺は兄に何から何まで劣っていた。

 頭の良さは勿論、運動神経、コミュニケーション能力、人気、容姿、歌、芸術。

 全てが、兄の方が上だった。

 俺と兄が喋ることは滅多にない。たまに兄の視線がこちらに向いたと思っても、彼の目は侮蔑、嘲笑に満ちている。

 最初は哀しいと、寂しいと感じていたが、今は何も感じない。

 それを辛いと、感じたこともない。


 そして、中学1年で貴月と仲良くなって。

 それなりに友達もできて。

 楽しいか、と言われれば楽しい。

 でも、俺は悩み事があった。

 日に日に増していく、両親からの期待、重圧。

 前から言われ続けてきた「兄にもできたのだから、弟のお前もできて当然だ」という言葉は、俺に重くのしかかってきた。

 どれだけ睡眠時間を削っても、どれだけ勉強しても、どれだけ努力したって、俺の成績は兄の成績を大きく下回る。

 兄は、勉強したところを見たことがない。隠れて勉強しているのだと思って部屋をのぞいてみたが、ずっと勉強していたためしがない。

 それなのにこの差なのだから、逆に笑えて来る。

 テストがある月は、毎日毎日寝る間も惜しんで勉強した。「こんな小さなテストでも勉強しないと無理なのか」と家族全員に嗤われたが、そんなことも気にせずとにかく勉強した。

 学年では、貴月に次いで2位だった。

 国語98点、英語97点、数学95点、物理91点、世界史100点。

 貴月には、物理で負けた。

 世界史は2点勝っていた。けれど、貴月は物理95点を取って、結局2点差で負けた。

 ……いや。貴月に負けても、俺は別によかった。ただ、兄との差を縮めて、両親の期待を裏切らないように必死だっただけだから。

 けれど。

 中学生の時の兄は、全て100点。

 成績も、オール5。

 ……いや、高校生もか。

 兄との決定的な差を見せつけられて、俺は落胆した。

 俺はこんなにも能力が低かったのか、と。

 俺よりも落胆したのは、両親だった。

 東大首席を兄に持つ弟が、平凡だった。

 これを知ったときの彼らは、ひどかった。

 母は泣いた。号泣して、号泣して、俺に泣きついて、「お願いだから、私たちを裏切らないでよ……っ!」と涙ながらに叫んだ。

 父は激昂した。激怒して、俺を詰った。「俺たちはお前のことを信じていたのに! 俺たちの信頼を裏切りやがって……!」

 ……そんなことを言うのなら、いっそ勘当すればいい。

 そう思っていた。

 早く、早く、この家から離れたい——この気持ちしか、なかった。

 詰られている俺を、ニヤニヤしながら見ている兄に対しても、なんの感情も湧かなかった。


 詰られた次の日。

 思わずため息が多くなってしまい、人から声を掛けてこられた時に反応が遅くなってしまう。

「——た。……うた。陽太!」

「んぇっ、あ……ごめん」

「ガチでお前、どうしたんだよー? 体調わりーのか?」

 心配そうな表情でそう言ってくれる友達に、俺は大丈夫、と笑顔で応じた。


「……はぁ、」

 何にも使われなくなった旧校舎の廊下の端で、壁に寄りかかり溜め息を吐く。

 今日は、いつもより疲れていた。

 ずっと母の叫び声と父の怒鳴り声が頭の奥に響いていて、寝ようとしても寝られない。

 ずるずると体を沈み込ませて、俺はうずくまった。

「……っう、」

 人気のない廊下をいいことに、俺は泣いた。

 ——その時だった。

「——どう、したの? 大丈夫……?」

 凛とした、美しい声だった。

 ぱっと顔を上げるとそこには、高等部の色のリボンをつけた美しい女性がいた。

「……っえ、え……?」

 俺が戸惑うと、その人は困ったように笑った。

「えぇと……うずくまってたから、心配になって思わず声かけちゃったんだけど。ああ、私は高等部2年の澄瀬碧音って言います。よろしくね」

 ふわっと微笑んで、その人——澄瀬先輩はそう言った。

「、あ、俺は、來山陽太……です」

 つっかえながらもなんとか名前を言うと、澄瀬先輩は突然しゃがんだ。

「それで……どうしたの? 何か、嫌なことでもあった?」

 澄瀬先輩は、俺を優しいまなざしで見つめる。

 そのまなざしが優しすぎて、俺はふっと目を逸らした。

「……別に、何もない……です。すみません、わざわざ」

「……ほんとに?」

「え?」

 弾かれたように顔を上げると、澄瀬先輩はとても心配そうな顔で俺を見ていた。

 彼女の表情からなぜか目が離せなくて、俺は澄瀬先輩の言葉を聞く。

「ごめんね。泣いてるところ……見ちゃったの。來山くんのことは、ちょっと聞いたことがあって。女の子たちが、來山くんかっこいいよねーって言ってたのを」

 申し訳なさそうにそう言って、澄瀬先輩は再度口を開く。

「前、中等部に用があって……あなたを見たの。とっても明るくて、誰からも好かれてるんだなって思った。それ……すごい、わよね。ああ、この子すっごく優しいんだな、すごい子なんだなって思ったの」

 優しい微笑みを浮かべた澄瀬先輩の言葉に、俺は返す言葉がなかった。

 俺は、澄瀬先輩に俺の悩みを全て打ち明けてはない。知ってもないだろう。

 ——なのに。

 なんで……なんで、こんなにも。

 涙が、あふれるんだろう。

 どこまでも優しい瞳に包まれながら、俺はぽろりぽろりと言葉を零した。

「昔からっ……優秀な兄に、比べられて……両親からの期待に応えようと、テスト頑張ったけど……2位で、兄には到底及ばなくて……母に泣きつかれて、裏切らないでって叫ばれて、父に信じてたのに裏切りやがってって怒鳴られて、もうっ、俺なんて、家から追い出せばいいのに……! 俺だって、あんな家から、逃げたい、のにっ……!」

 嗚咽を漏らしながら言い切ると、澄瀬先輩はうん、と頷いて、言った。

「頑張ったんだね。すごい……すごいよ、來山くんは」

「っ、」

「私は……私だけでも、“あなた”を見つめてるから。誰もが“あなた”じゃなくて、“お兄さんの弟”として見たとしても、私は“あなた”を見つめる。……もし家から逃げたいなら、うちに来たらいいよ。お母さんもお父さんも、あなたのことを受け入れてくれるから」

 その暖かで優しい言葉は、俺の凍てついた心を溶かしてくれた。

 太陽を逆転させた陽太、という名前を持つのに、俺の中身は限界まで凍り付いていた。

 だけど。

 その心を溶かしたのは、太陽じゃなくて。火でも、なくて。

 ——優しい、人だった。

「また悩み事があったら、遠慮なく来てね」

 澄瀬先輩はそう言って、にこっと笑った。

 その笑顔がひどく優しくて、俺の頬には涙の滴が伝った。

 ……ああ。

 もう俺は、俺を救ってくれたこの人を。

 好きに、なってしまったんだ。


 そこからは、成績が振るわなくても、どれだけ両親に嫌味を言われても、兄から侮蔑の視線を向けられても、なにも感じなかった。

 そんなある日。

 俺のクラスに、転校生が来た。

「……澄瀬、月飛……です。今日から、このクラスに入ることになりました。よろしく、お願いします」

 澄瀬先輩と同じ苗字ということに興味を持って、彼に話し掛けてみた。

「澄瀬ってさぁ、あの高等部の澄瀬碧音先輩の……親戚?」

 軽い気持ちで、話し掛けただけだった。

「へっ? あ、いえ……弟、です」

「……弟?」

「あ、はい……あの、義弟です」

「……義、弟?」

「はい、えっと……僕は碧音さんのご両親に養子としてもらわれて」

「……養、子……?」

 さすがにもう頭がパンクして、俺は一瞬ふらりとよろめいた。

 澄瀬先輩の、義弟。

 ……家族。

 羨ましい。

 そう思った。


 そこから、月飛とは仲良くなった。

 小動物みたいに懐いてくれる月飛は可愛かったし、彼は優しくて頭も良く、友達になってよかったと思える人だった。 

 貴月とも仲良くなって、クラス全員に可愛がられる月飛を見て、俺も誇らしかった。

 ……最初は。


 最初は、ほんの少しだけ魔が差した程度だった。

 どんどん澄瀬先輩と仲良くなっていく月飛に嫉妬して、シャーペンを抜き取った。

 案の定焦ったように探していて、俺は内心ほくそ笑んだ。

 月飛は、俺がとったなんて考えなかった。

 そりゃそうだろう。一番信用していた友達から、盗まれるなんて。

 俺は、月飛のシャーペンなんて見たことがない。色を知っていたのも、盗んだからだ。

 気づくかな、と思って言ったけど、月飛は全く気付かなかった。

 一緒に探すことになって、澄瀬先輩と話すきっかけを得た。

 「仲良しさんなんですね」と言う月飛は普通に可愛かったけど、それよりも澄瀬先輩と仲がよさそうに話す月飛を見て、彼を妬む気持ちがどんどん加速していった。


 けれど。

 結局、俺は月飛とずっと一緒にいたいと思うようになっていた。

 教科書を盗んだ日からは、眠れない日々が続いた。

 罪悪感に駆られて、叫びだしたかった。

 文化祭では、澄瀬先輩と月飛がもっともっと仲良くなっていくのを間近で見つめた。

 月飛への友情と、澄瀬先輩への恋心。

 俺は……どちらを、取ればいいのだろう。


 だから、俺は月飛の方から俺から離れてもらうようにした。

 月飛がカラオケに行くと聞いて、月飛が帰るだろう道に友達を呼び出して、わざわざ月飛が来るのを待って、悪口を言った。

 本心も、嘘も混じった悪口。

 俺の悪口を笑って聞く友達もどうかとは思ったけど、それよりも聞こえるように悪口を言っている自分に吐き気が催した。

 最悪だ。最低、クズ、カスだ。

 俺はこんなに性格が悪かったんだ、と知って、俺は自分を見放した。

 澄瀬先輩からかけられた、「來山くんはすごいね」という言葉は嘘だったんだ、と気づいた。


 なあ、月飛。

 俺さ。月飛と仲良くなって、一緒に遊んでさ。

 すっごい、楽しかった。

 けどさ。

 俺は、月飛に勝手に嫉妬して。

 最低なこと、した。

 ごめんなんて言っても、許されないってことはわかってる。

 これさえも我儘で、傲慢で、強く出させなくする最悪な行為だっていうことも分かってる。それは、兄と両親にそれをされたことのある俺が一番知ってる。

 でも、謝らなければいけない。謝らなきゃ、罪を犯したっていうことをはっきり実感できない。

 ごめん。

 本当に、ごめん。

 こんなことになるなら、最初から月飛に近付かなければよかった。

 それが、俺も月飛も傷つかない、誰も嫌な思いをしない最善の道だったのに。

 俺は、バカなことをした。

 最悪だ。自分がバカなことをして、相手を傷つけるなんて。

 月飛。

 ごめん。こんな俺が、月飛に近付いて。友達になって。

 ありがとう。こんな俺と、友達になってくれて。


 澄瀬先輩。

 ありがとう。

 そして、ごめんなさい。

 俺は、ずっとあなたに助けられたことを忘れません。

 そして、それを裏切ったことも。

 あなたのことが、あの時からずっと好きでした。

 どれだけ目を逸らそうとしても、どれだけ人がいても、あなたから目が離せなくて。

 あなたが笑えば、俺も笑ったように思えて。

 あなたが泣けば、俺も泣いたように思えて。

 俺の心の大半は、あなたが占めていました。

 どこまでも優しくて、どこまでも美しくて、どこまでも眩しくて。

 到底俺とは釣り合わない人だったけど、それでもよかった。

 “俺”を見ていてくれる、と語ったその瞳は、ずっと優しくて、綺麗で、輝いていた。

 月飛が義弟になってからも、それはずっとだった。

 いつも友達と笑い合って、楽しそうな表情を見て嬉しくなった。

 たまに俺を見つけて、声を掛けてくれる時があって。

 その時俺は、どくんどくんと太鼓のように心臓がうるさかったけど。

 でも、とても嬉しくて、思わずガッツポーズをしそうになった。

 澄瀬先輩は。

 俺にとっての、太陽だった。

 ……優しい両親がいて、温かい家庭だって言うのは、少し羨ましいと思った。

 自分のことを第一に考えて、愛してくれる両親がほしかった。

 けど、だから。あの、優しい澄瀬先輩がいる。

 そう考えれば、気にならなかった。

 ——澄瀬先輩。

 あなたは、俺のこと。

 “俺”として、見てくれた。

 そんな人は、初めてでした。

 あなたが、好きでした。

 ごめんなさい。俺なんかが、あなたのことを好きになってしまって。

 ありがとう。俺なんかを、救ってくれて。

 俺の心を、溶かしてくれて。

 あなたからかけられた言葉、向けられた瞳、忘れられない記憶です。

 ……記憶に、あなたを追加できてよかった。

 あなたがいなければ、俺はきっと死んでいた。

 あの時本当は、俺は死のうと思ってたから。

 俺が死んだって、どうせ誰も悲しまないから。

 逆に、あの家族は喜ぶだろうから。

 けれど。

 あなたの瞳が、「私が悲しむ」と言っているように思えて。

 俺は、()()()()生きることが出来た。

 本当に、ありがとう。


 月飛。

 澄瀬先輩。 

 さよなら。

ここまで読んでくださっていること、本当に感謝しかありません!

明かされた陽太の過去、心。

彼の想いを、心に留めてくれればうれしいです。

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