第99節『第一の交渉』
第99節『第一の交渉』
地鳴りのような声が耳を震わせてから、どれほどの時が過ぎただろうか。
否、それはほんの一瞬のことだったに違いない。だが源次には、永遠にも等しい時間が流れたように感じられた。
目の前には鬼神のごとき武将、本多忠勝。
(無理だ……勝てない……帰れない……)
声にならぬ声が、心の底で繰り返し木霊した。足は鉛のように重く、膝は震えて今にも崩れ落ちそうだ。
井伊谷の人々の顔が、脳裏に次々と浮かぶ。そして直虎――。だが、その姿でさえ、恐怖の濁流に呑まれて霞んでいく。
握りしめた拳は力を失い、爪が掌から離れかける。そのとき――。
指先が、懐の小さな膨らみに触れた。
「……っ!」
匂い袋。直虎から渡された、あの香の袋だ。
袋越しに伝わる布の柔らかさ。かすかに漂う香木の甘やかな香り。その一瞬で、崩れ落ちかけていた源次の心が、現実に引き戻された。
脳裏に、彼女の声が雷鳴のように蘇る。
――生きて帰れ。
(そうだ……俺は、死にに来たんじゃない。生き抜いて、帰るために来たんだ!)
胸の奥で、凍りついていた何かが砕け散った。恐怖が、怒りにも似た熱へと変わる。
(この程度の威圧で屈するなら、どうして家康公と渡り合える! 直虎様の想いを、ここで潰させるものか!)
源次は唇を噛み、血の味を舌に感じた。その苦みすら、決意を確かにする印となる。
重い口が、ようやく開いた。
「……お言葉を返すようで、恐縮ですが」
震えていた声は、しかし確かな意志を宿していた。
徳川兵たちが一斉に息をのむ。供の若武者たちは絶望したように源次を振り返る。「源次殿……何を……!」という目だ。
だが、源次は視線を逸らさず、真っ直ぐに忠勝を見据えた。
「まずは、貴殿のお名前を伺いたい。井伊家の命運を預かる我が身、名も知れぬ番人風情と話すわけには参りませぬので」
一瞬。世界が静まり返った。
徳川兵たちが色めき立ち、口々に叫ぶ。
「無礼者!」「命知らずが!」「討ち取れ!」
槍が構えられ、刃が鈍い光を放つ。
だが、忠勝は動かなかった。静かに、右手を上げる。その動作一つで、周囲の兵士たちは凍りついたように動きを止めた。
やがて、低く響く声。
「……ほう。俺を、番人風情と申すか」
漆黒の面頬の奥で、唇が僅かに吊り上がった。怒気ではない。興味。
「面白い」
その一言に、周囲の兵士たちは顔を見合わせた。
(……きた!)
源次の胸の奥で、歴史研究家としての血が沸騰した。
(古文書に記されていた通りだ! あの『三河物語』に書かれていた逸話――『忠勝、常人を測る物差しを好まず。己の威圧に臆さぬ者には、むしろ興味を示した』――あれは真実だったのか!)
これは賭けだった。歴史書の一節に己の命を賭ける、狂気の沙汰にも等しい賭け。だが、その賭けに勝ったのだ。
「よかろう。俺の名は、本多平八郎忠勝」
その声は、大地が鳴動するかのように響いた。
源次は待ってましたとばかりに、深く頭を下げた。
「それはご高名。……して、本多殿。我らは貴殿ではなく、貴殿の主君にお会いしに参った。道を開けてはいただけませぬか」
不遜でありながら、堂々とした物言い。臆せず、恐れず、真正面から要求を突きつける胆力。
忠勝は黙って源次の顔を見つめた。
やがて彼の口端が再びわずかに上がった。
「……ふん。いい度胸だ」
一歩、横に退いた。その瞬間、城門がさらに大きく開き、重厚な扉の奥に、城中へと続く石畳の道が姿を現した。
「通れ」
ただ一言。だがそれは、門を越える許しであると同時に、忠勝という壁を越えた証でもあった。
源次は深く息を吐き、背筋を伸ばして歩みを進めた。
供の若武者たちも慌ててその後を追う。彼らの足取りはまだ震えていたが、源次の背にすがるようにして、必死に進んだ。
――こうして源次は、最初の、そして最大の関門を突破した。
鬼神の洗礼を受け、それに屈せず、知恵と胆力で立ち向かい、認められたのだ。
(歴史は、書物の中にあるだけじゃない。今、俺は、その歴史のど真ん中に立っている!)
その先に待つのは、徳川家康との謁見。源次は、自らが仕掛けたこの「第一の交渉」に勝利したことで、胸の内に確かな手応えと、歴史の当事者であることの凄まじい興奮を感じていた。