第98節『門前の洗礼』
第98節『門前の洗礼』
岡崎で一夜を明かした翌朝、空は鈍色に曇り、城下町の喧騒はまだ静けさの中に沈んでいた。
源次は供の若武者たちを率い、井伊家の使者として岡崎城の大手門へと進んだ。昨夜、宿で感じた三河武士団の異様な結束力。その中心にある牙城は、威圧感を放ちながら一行を待ち構えていた。
眼前にそびえるのは、巨大な木材と鉄で補強された二重の門。黒々とした扉は、まるで大地そのものを切り出してきたかのように重厚で、高く積まれた石垣は人を威圧する壁となっていた。
「……これが、岡崎城の大手門……」
供の一人が呟いた声は、すぐに飲み込まれてかき消えた。城門の前に立つと、誰もが小さく見える。武を誇る者でも、ここに立てば己の矮小さを痛感せざるを得なかった。
源次は深く息を吸い、声を張った。
「我ら、遠州井伊谷より参上したる使者一行。井伊家よりの大使、源次ただ今ここに!」
その堂々たる名乗りに、門番の足軽は驚きの表情を浮かべ、慌てて城内へと駆け込んでいった。
待ちの時間が、じわじわと緊張を高めていく。
供の若武者たちは、槍の柄を握りしめる手に汗をにじませ、口を開けば声が震えるのを恐れるかのように黙り込んでいた。
やがて、城内から低く、重々しい軋みの音が響き渡った。
「……っ!」
若武者たちは一斉に背筋を伸ばす。ギシリ、ギシリと、城門の扉が押し開かれる音が、まるで地鳴りのように響いた。
暗がりの中から現れたのは、ただ一人の武将。
その瞬間、空気が変わった。まるで周囲の風がすべて止まり、鳥も虫も息を潜めたかのように、音が消え失せる。
まず目に入ったのは、漆黒の鎧。黒鉄の板金は艶やかに磨かれ、朝の淡い光を吸い込んでなお深淵の闇のような光沢を放っていた。その背には鹿角を模した兜。身の丈は六尺を優に超え、門前に立つだけで、巨岩のような存在感が押し寄せ、見る者の膝を砕かんばかりの圧を放っていた。
肩に担がれた一振りの長槍。その穂先は青白く光り、陽光に照らされてなお凍てつく冷気を帯びている。
源次の記憶が叫ぶ。――蜻蛉切。戦国最強の槍。本多忠勝の代名詞。
「……本物か……!」
源次の喉から、思わず声が漏れた。歴史書の行間でしか知らなかった名将が、今こうして目の前に現れている。その威容は、文字や伝承が伝えきれぬほどの迫力を伴って迫ってきた。
供の若武者たちはすでに気圧され、後ずさりしていた。その顔は蒼白に染まり、唇は震えて声にならない。
忠勝は一歩、門前へと踏み出した。その足音は、大地を揺るがすかのように響き渡る。
その目は鋭く、獲物を射抜く鷹の眼光。一行を一瞥するだけで、全員の心臓を掴み取ったかのようだった。
やて、地響きのような声が轟く。
「……井伊の者が……何の用だ」
その声は、ただの問いかけではなかった。空気を震わせ、骨に響く音圧を伴い、まるで全軍を叩き潰す太鼓の一撃のごとき衝撃だった。
「ひっ……!」
若武者の一人が腰を抜かし、膝から崩れ落ちそうになった。もう一人は必死に耐えながらも、肩が痙攣している。
源次は、その場に立ち尽くし、全身が凍りつくのを感じていた。
心臓が一瞬止まったかのように動かず、呼吸すらできなくなる。視線を向けられただけで、体が鉛のように重くなり、声を出すことすら許されない。
(……っ……)
必死に声を絞ろうとするが、喉が閉ざされる。本多忠勝の眼光は、物理的な力を持っているかのように源次を押し潰していた。
知略も、言葉も、策も、この男の前では無力に思えた。ただ立っているだけで、一個の軍勢に匹敵する存在――それが徳川の最強武将だった。
忠勝は何も言わず、ただ源次を見据えている。
その沈黙は、言葉以上に雄弁だった。
――お前は、この俺と渡り合う覚悟があるのか。
無言の問いが、刃より鋭く突き刺さる。
源次は震える唇を噛みしめ、声にならぬ息を吐いた。
ここで怯めば、すべてが終わる。井伊家は門前払いで潰える。
目の前に立つのは、歴史が選んだ「徳川最強の壁」。
源次は、ただその一点を胸に刻み、己を奮い立たせようとした。
しかし、その一歩が踏み出せるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。