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第97節『三河武士団』

第97節『三河武士団』

 岡崎の国力に圧倒された翌日、源次たちはその強さの源泉を探るべく、武家屋敷が並ぶ裏通りへと足を踏み入れた。

 途端に、空気の質が変わる。

 表の通りには、魚を焼く香ばしい匂いや、商人たちの掛け声が溢れていた。だが、裏へ入ったとたん、そうした喧噪は遠ざかり、代わりに漂ってきたのは、鉄と油の重たい匂いだった。

 鍛冶場の煙が立ちのぼり、槌音が乾いた空気を震わせる。往来を行き交うのは町人ではなく、ほとんどが武士だった。彼らは皆、質素な木綿の小袖に袴を着け、派手な装飾を施した者は一人もいない。中には肩口に継ぎ当てのある直垂を着ている者すらいた。

 だが、彼らの表情には卑屈さの影は微塵もなかった。

 背筋を伸ばし、歩みは堂々としている。貧しい装いでありながら、その目には誇りの炎が宿り、己が徳川家の武士であることに疑いなく確信している者の顔つきだった。

「……源次殿、これは」

 供の若武者の一人が、気圧されたように小声で漏らす。

 「井伊の侍とは……まるで違いますな。着ているものは我らより粗末なのに、なぜあれほどまでに……」

 源次は静かに頷いた。

「ああ。ここが三河武士団の巣だ」

 彼にとっては二度目の岡崎。だが、大使という重責を背負って見るこの光景は、以前とは全く違う重みをもって迫ってきた。


 やがて、一行はある武家屋敷の前を通りかかった。門口に数人の武士が集まり、槍を立てかけたまま談笑している。源次は歩みを緩め、供たちに目で合図を送った。

「……甲斐の動きはどうだ」

「いや、まだ決定的ではない。だが、いずれ必ず攻めて来るだろう」

「ならば、鍛冶屋に頼んだ鎧が仕上がり次第、すぐに試しておかねばなるまい」

 戦の話題が途切れることなく交わされている。

 だが、若武者たちの心を震わせたのは、その締めくくりの言葉だった。

「まあ、いかなる策も、全ては殿のお考えあってのこと。我らは殿の駒として、ただ命じられれば動くだけよ」

「その通り。殿が前を向いておられる限り、我らが迷うことはない」

 若武者たちは息を呑んだ。井伊家では考えられない、主君への絶対的な帰依。それは恐怖による服従ではなく、心からの信頼、いや、信仰に近い響きだった。

 源次は、彼らの反応を見ながら心中で呟いた。

(……本当だったのか)

 歴史研究家だった頃、何度も読んだ書物の一節が脳裏に蘇る。

 ――三河武士の忠誠は、狂気にも似ていた。主君のためならば、彼らは笑って死地に赴く。

 あの時は、後世の史家による誇張だと半信半疑で読んでいた。だが、今目の前にいる男たちの言葉には、その「狂気」が確かに宿っていた。


 一行の視線に気づいたのか、談笑していた武士の一人がふと振り返った。

 その瞬間、場の空気が変わる。

 笑顔は消え、目に冷たい光が宿る。

 「よそ者だ」――そう言わんばかりに、鋭い視線が突き刺さる。

 若武者たちは、その無言の圧力に思わず腰の刀に手をやった。

「……行こう」

 源次は低く呟き、歩を進めた。


 ――見えざる壁。

 ようやく宿を見つけ、薄暗い部屋で一行が肩の力を抜いた時、若武者の一人が青ざめた顔で言った。

「源次殿……。あの者たちの目、まるで我らを敵と見ているようでした。この岡崎において、我らは完全に孤立しておりますな」

 源次は窓を開け放ち、夕暮れの空にそびえる岡崎城の天守を見上げた。

「そうだ。交渉の相手は、もはや家康公一人ではない。この町全体、この武士団全体――鉄で築かれた共同体そのものだ」

 赤く染まる城。それは美しくもあり、同時に血の色を思わせる不吉さを孕んでいた。

(俺は、この鉄の壁を説得せねばならんのか……)

 その重圧が胸にのしかかる。

 だが逃げるわけにはいかなかった。

 ――推しのために。

 己が選んだ道のために。

 源次は、静かに目を閉じた。明日は、いよいよこの鉄の城門を叩くことになる。

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