第96節『岡崎城下』
第96節『岡崎城下』
三河の国に入ってから数日、一行はついに岡崎の町へと続く最後の坂道に差し掛かった。
坂を登りきった瞬間、眼前に広がった光景に、源次たちは思わず息を呑んだ。
丘の上から一望できる岡崎の城下町――その中心に鎮座する岡崎城は、華美な飾り立てとは無縁であった。瓦は黒々と落ち着き、櫓は高くそびえるものの、無駄な意匠は一切ない。郭の配置は幾重にも折り重なり、どの角度から攻められようとも迎撃できる構造を成している。
(美しさよりも、機能を。虚飾を削ぎ落とし、守ることに徹した造りか…)
城を形容するならば、龍が大地に身を伏せ、いざという時に牙を剥くのを待っているようであった。その背後を流れる矢作川には、数多の舟が往来し、経済と軍備が矛盾することなく融合している。
供の若武者の一人が、低い声で呟いた。
「……これが、岡崎」
源次は頷く。彼らの目に映っているのはただの大城郭と町並みだろう。だが源次には、そこに刻み込まれた徳川家康という男の哲学が透けて見えるようであった。
(やはり…恐ろしい男だ。見栄や権威ではなく、ただ勝つための城を造っている)
坂を下り、城下の門をくぐると、そこにはまるで別世界が広がっていた。
町の大路は人で溢れている。威勢の良い商人が声を張り上げ、鮮魚や干物を並べた露店からは、潮の香りが鼻を刺した。織物屋の店先には鮮やかな布が揺れ、鍛冶屋からは金槌が鉄を打つ甲高い音が響き渡る。子供たちの笑い声が混じり、まるで戦乱など存在しないかのような活気だった。
供の若武者たちは目を丸くし、互いに顔を見合わせた。
「源次殿、ここは本当に戦国の世なのでしょうか……」
「うむ。まるで京の市に劣らぬ賑わいだ」
源次もまた、正直に驚きを隠せなかった。これまで通ってきた宿場町や村落のどれとも違う。ここには、戦の匂いが漂う世においてなお、人々が堂々と日々を営む力強さがあった。
しかし、ただ浮かれるわけにはいかない。歴史研究家としての眼差しで、源次は町の細部に注目した。
道は曲がりくねり、見通しが効かない。辻には物見櫓があり、家々の配置も、いざという時には柵を立てて道を塞げる構造だ。
(町そのものが、一つの要塞……)
さらに、町のあちこちで土を掘り返す音がする。堀を拡張し、土塁を盛り直しているのだろう。木材を担いだ町人や、石を運ぶ農夫が、汗を流しながら働いている。だが誰一人不満の声を上げない。むしろ、冗談を飛ばし合いながら作業を進めているのだ。
「おう、次はこっちだ! 武田が攻めてきたら、真っ先にここが要になるぞ!」
「任せとけ。あのお殿様のためなら、わしらの腕も惜しむもんか!」
源次の胸に寒気が走った。
(城下の住民までもが、戦を己の役割と心得ている……!)
一行は宿を探しつつ町を進んだ。
夕暮れ時、岡崎城の天守が赤く染まった。矢作川を渡る舟の白帆が、その光を受けて輝く。美しい光景であるはずなのに、源次にはそれが血の色を思わせてならなかった。
(この国の活気は、平和ボケから生まれたものではない。常に迫る戦を前にして、国全体が『勝つ』という一つの目的のために機能しているからこその熱気だ)
懐の中で、国書がずしりと重みを増した気がした。
(これほどの国を、あの若さで築き上げた徳川家康とは、一体どれほどの傑物なのか……)
源次の胸に、畏敬と武者震いが同時に湧き上がった。
明日からは、この国の強さの源泉――三河武士団の息遣いが聞こえる裏通りへと、さらに深く足を踏み入れることになる。