第95節『三河の国』
第95節『三河の国』
浜名湖での密約を胸に秘め、一行は再び西を目指した。湖畔の村を後にして数刻、小さな川に架かる木橋を渡った瞬間、源次はふと馬を止めた。
川幅はわずか数間、両岸に広がる田畑も風に揺れる稲穂も、見た目には遠江となんら変わらない。
だが――風の色が違う、と源次は感じた。
同じ秋風でありながら、肌に触れる質感が異なる。遠江の風がどこか奔放で、時に乱れて吹くのに対し、三河の風はまるで見えぬ手に導かれるように一定で、落ち着きがあった。
「……源次殿?」
背後から若武者の一人が声をかける。源次は小さく首を振った。
「いや、なんでもない。行こう」
だが心の奥では、強い確信が根を張っていた。この違いは風景ではない。人々の気風――すなわち、国全体を覆う統治の色の差であると。
最初にそれを裏付けたのは、道の整備だった。
井伊領の道は、雨が降ればぬかるみ、石が転がり、荷車の往来もままならない。誰もがそれを「戦乱の世では致し方なし」と諦めていた。
だが三河に入った途端、道の様子が一変する。
石は丹念に取り除かれ、水はけが良くなるよう側溝が掘られている。土は固く踏み締められ、荷車でも人馬でも、難なく進めるのだ。
(見栄えよりも、実用を優先している……)
源次は無言で頷いた。贅沢ではない。だが、人のために整えられている。民に無理を強いるのではなく、彼らの働きを支えるために――その明確な意図が、道一本から伝わってきた。
ほどなくして、関所が現れた。
井伊谷の関所に比べれば規模は小さい。しかし、そこに立つ兵の姿に源次は目を細めた。
鎧は古びているが油が差され、革紐は新しく取り替えられている。槍の穂先は鋭く光を反射し、その動きには一切の弛緩がなかった。
「止まれ。何者ぞ」
声は張り詰め、眼光は鋭い。
源次が井伊家の使者であることを告げると、兵士は深く礼をとった。
「失礼いたしました。お通りくだされ」
言葉遣いは丁寧だが、態度には一切の馴れ合いがない。礼を尽くしつつも、決して腰を折らない規律の厳しさ。源次は内心で舌を巻いた。
昼時、街道沿いの村に立ち寄った。
家々は貧しい。茅葺きの屋根は傾き、壁も土が剥げ落ちている。だが、驚くべきことに、道にごみ一つ落ちていない。農具は古びていても、きちんと手入れがされ、村人の着物も質素で色あせているが、破れや汚れは見えなかった。
(贅沢を戒め、実を重んじる……それが、この国を覆う気風か)
一行が井戸の水を求めると、村の老人が誇らしげに語り始めた。
「この井戸は、殿がお作りくださったのです。年貢は厳しいが、理不尽はない。殿は、わしらの暮らしをよう見てくださる」
源次は息を呑んだ。老人は続けた。
「だからこそ、いざという時はいつでも槍を取る。わしら三河衆は、あのお方のためなら命を惜しまぬ」
その言葉には、恐怖や強制の影はなかった。ただ、確かな信頼と誇りが滲んでいた。
日が暮れ、野営の準備が始まった。焚き火の炎を見つめながら、源次は今日一日の光景を思い返していた。
道の整備。関所の兵。村の清潔さ。領民の言葉。
「……甘く見ていた」
呟きが漏れた。
歴史知識の上では、この時期の徳川は武田や今川の全盛期に比べればまだ小大名のはずだった。井伊家よりは遥かに大きいが、天下を窺うには程遠いと。だが、今日目にしたものは、石高や兵力といった数字では測れぬ、恐るべき強さを物語っていた。
領主と領民、家臣との間に築かれた、鉄のような信頼関係。質素にして実直、規律を徹底した国づくり。
それらすべてを、この若き領主――徳川家康という男が築き上げたのだ。
源次は拳を握った。
(……あの若さで、ここまでの国を……)
胸の奥に、底知れぬ恐怖と畏敬が同時に湧き上がる。これほどの男と、これから交渉せねばならぬ。並大抵の策では、呑み込まれるだけだ。
源次は懐の国書を握りしめた。その紙の重みは、これまでとは比べものにならなかった。
岡崎城――徳川家康の居城は、もうすぐそこにあった。