第94節『浜名湖の布石』
第94節『浜名湖の布石』
街道をさらに西へ進むと、乾いた土の匂いに、次第に湿った潮の香りが混じり始めた。
やて木々の切れ間から、陽光を浴びてきらきらと輝く広大な水面が姿を現す。
浜名湖――。
供の若武者たちは、その大きさに思わず感嘆の声を上げた。だが、源次にとってはただの湖ではない。かつて彼が井伊谷で自らの出自として語った、虚構の故郷。そして、漁師としての魂が眠る場所だった。
潮騒とともに、漁師たちの掛け声や網を引き上げる音が重なり、胸の奥に懐かしい日々が蘇る。
「ここで待っていてくれ。顔を繋いでおきたい者がいる」
湖畔の村の手前で、源次はそう言って馬を降りた。
「源次殿、お一人で?」
若武者の一人が案じるように問う。源次は微かに笑みを浮かべた。
「ああ。漁村の衆は、鎧武者をあまり好かぬのでな。昔のよしみで、私一人の方が話が早い」
その声音には、井伊家の大使としての威厳と、どこか人を安心させる柔らかさが同居していた。若武者たちは納得し、主の帰りを待つことにした。
供を残し、源次は村の中へと歩みを進める。
歩きながら、彼は自らの装束を少し崩した。腰の太刀を布で覆い、肩衣を脱ぎ、胸元をゆるめる。歩き方も、武士の端然たるものから、漁師のしなやかな身のこなしへと自然に変わっていく。
網を繕う老婆、魚をさばく若い衆、はしゃぐ子供たちの声――すべてが、彼を「漁師・源次」に引き戻していく。
(……懐かしい)
だが、彼の心にはもはや一人の漁師ではない、井伊家を背負い、未来を見据える者としての決意があった。彼は、かつて自分が語った「嘘」を、今から「真実」に変えるための布石を打ちに来たのだ。
(俺の身体は、海を知っている。だが、この湖の漁師どもも、一筋縄ではいくまい。まずは、彼らの長を見極めねば)
桟橋の先に、一際大きな船が停泊していた。そこで網を修繕していたのは、黒々と日に焼けた巨躯の男。肩から腕にかけて隆々とした筋肉が盛り上がり、まるで湖そのものの力を体現しているかのようだった。浜名湖の船頭衆を束ねる実力者、権兵衛。源次は噂で彼の名を知っていた。
源次は、ごく自然に彼に近づき、声をかけた。
「見事な網だな、親方。結び目が堅く、それでいてしなやかだ」
権兵衛は顔を上げ、見知らぬ若者を訝しげに一瞥した。
「……あんた、どこのもんだ」
「旅の者さ。昔、遠州の海で飯を食っていた」
源次はそう言うと、権兵衛が繕っていた網の破れ目を指さした。
「そこはそう結ぶんじゃない。潮の流れがきつい場所で使うなら、こうだ」
源次は手慣れた仕草で麻糸を取り、瞬く間に複雑だが強固な結び目を作って見せた。その手つきは、生涯を海と共に生きてきた者にしかできない、熟練の技だった。
権兵衛は目を見開いた。「……あんた、ただの旅人じゃねえな」
二人は船小屋に入り、酒を酌み交わすことになった。互いの身の上を語り合う中で、源次は徐々に本題へと切り込んだ。
「親方。この湖は、ただの漁場じゃない。駿河や三河、さらには遠い国々と繋がる交易の要になる。そうは思わんか?」
権兵衛は怪訝そうに眉をひそめた。
「交易だと? 馬鹿言え。武田だの徳川だのが睨み合ってるこのご時世に、のんきに商いなんかできるかよ」
「だからこそだ」と源次の目が鋭く光った。「武士どもが陸で争っている今だからこそ、湖を制した者が、この先の流れを掴む。戦に怯えるのではなく、この湖を使って富を生み、漁師衆の暮らしを守るんだ」
権兵衛は息を呑んだ。源次の言葉には熱だけでなく、確固たる理があった。
「お前さん……一体、何者なんだ」
源次は静かに笑った。「今はまだ、井伊家に仕える者さ。だが、いずれあんたの力を借りに来る時が来るかもしれん。その時のために、顔を繋ぎに来た」
しばらくして、源次は懐から布袋を取り出した。中には銀子が詰まっている。
「これは挨拶代わりだ。美味い酒でも飲んでくれ。そして、覚えておいてほしい。この浜名湖には、途方もない未来が眠っていると」
権兵衛は布袋を手に取り、重みを確かめた。その瞳に、源次の顔が映る。ただの夢追い人の顔ではない。未来を確信する者の眼差しだった。
やがて権兵衛は深く息を吐き、笑った。
「……面白い男だ。あんたの名は?」
「源次だ」
「源次……か。覚えておくぜ」
二人は杯を交わした。それは、まだ何者でもない二人の男が交わした、未来へのささやかな約束だった。
夕暮れの湖畔に戻った源次を、供の若武者たちが待っていた。
彼らは、主君の顔に漂う奇妙な充足感を見て、胸の内に疑問を抱いた。
(殿は、旧知の者に会われただけのはず。なのに、なぜこれほどまでに……)
だが、誰一人として問いはしなかった。源次の背は、彼らの知る「井伊の大使」のそれを超え、より大きな何かを背負う者のように見えたからだ。
潮風が吹き、波が小舟を揺らす。
源次の胸の奥では、直虎から託された使命を越えた、さらに大いなる野望が静かに燃え始めていた。
――水軍。その構想の、最初の種が今、この浜名湖に蒔かれたのだ。