第93節『街道の風景』
第93節『街道の風景』
峠で直虎と別れてから、丸一日が過ぎた。
源次たち一行は、井伊の領境を越え、混沌とした東海道を西へと進んでいた。背後にはもう故郷の山並みも見えない。ただ、前に向かって伸びるぬかるんだ道と、左右に広がる見知らぬ森が続くだけだ。
夜。一行は街道から少し外れた小さな森で、野営の準備をしていた。
供を任された若武者の一人が、慣れた手つきで火を起こす。もう一人は、周囲を警戒しながら槍を手に佇んでいた。井伊谷では血気盛んな若者たちだったが、一歩領外へ出た途端、その顔には旅の厳しさと絶え間ない緊張が刻まれている。
源次は、彼らが集めてきた枯れ枝を火にくべながら、静かに声をかけた。
「お二人とも、旅には慣れましたか」
火を起こしていた若武者は、薪をくべる手を止めず、苦笑した。
「いえ……正直なところ、一睡もできませぬ。いつ落ち武者狩りに襲われるかと思うと、気が休まりませぬな」
「情けない。我らの役目は源次殿を守ること。俺たちが怯えてどうする」
もう一人が自らを叱咤するように言うが、その声も硬い。
源次は、そんな二人の様子を穏やかな目で見つめていた。
「無理もない。井伊谷の外は、すべてが戦場のようなものですからな。だが、お二人はよくやってくれている。感謝しています」
その労いの言葉に、二人の若武者ははっとしたように顔を上げた。源次の声には、彼らを導く者としての威厳と、同じ道を歩む仲間としての温かみが同居していた。
火が大きくなり、パチチと音を立てて爆ぜる。闇夜に浮かぶ三つの影。
火を起こしていた若武者が、おずおずと問いかけた。
「源次殿……。昼間、街道で見たあの光景……筵をかけられた母子が、目に焼き付いて離れませぬ」
その言葉に、源次の胸がちくりと痛んだ。
歴史知識として知っていた戦国の悲惨さ。だが、実際に目の当たりにした死の現実は、今も彼の心に重くのしかかっている。
「……怖かったですか」
源次は、静かに問い返した。
「はい……。井伊谷がいかに恵まれていたかを、まざまざと見せつけられました」
「私も、怖い。だが、私たちがここで怖じ気づけば、井伊谷もいずれああなる。そう思えば、足が前に出るのです」
彼は懐に手を当て、直虎から託された匂い袋の感触を確かめた。
「それに……私たちには守るべきものと、帰る場所がある。それさえ忘れなければ、どんな闇の中でも道は見失いません」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
二人の若武者は、黙ってその言葉を聞いていた。源次の瞳が、揺れる炎を映して静かに燃えている。その光は、彼らの不安な心を確かに照らしていた。
やがて、源次は干飯を水で戻しながら、ふと尋ねた。
「お二人は、なぜ徳川との同盟に賛成されたのですか?」
唐突な問いに、二人は顔を見合わせた。
槍を手にしていた若武者が、少し照れたように答える。
「某は……源次殿が佐久間川で見せた、あの知略に惚れ申した。力だけが武士の道ではないと、初めて教えられたからにございます」
もう一人も、力強く頷いた。
「私は、中野様が源次殿に頭を下げられた、あの姿に心を打たれました。誇りを捨ててでも井伊の未来を選んだあの覚悟。それこそが真の武士の姿だと。そして、そのきっかけを作られたのが、源次殿なのです」
彼らの真っ直ぐな言葉に、源次は胸が熱くなるのを感じたが、同時に一つの誤解を解かねばならないと感じた。
「……そうでしたか。ですが、お二人が従うべきは私ではない。すべては、直虎様のご決断があってのことです」
源次の声は、静かだがきっぱりとしていた。
「私が立てる策も、立てるべき道も、すべては直虎様という太陽があってこそ輝く月のようなもの。私の役目は、ただあの方の道を照らし、お支えすることだけです」
二人の若武者は、その言葉に息を呑んだ。源次の瞳には、野心の色など微塵もない。そこにあるのは、主君への絶対的な忠誠心だけだった。
火の粉が舞い上がり、夜空の星に溶けていく。
三人の間には、身分を超えた確かな絆が芽生え始めていた。
この旅は、ただ岡崎へ向かうだけの道程ではない。源次が直虎の比類なき懐刀として、そして若者たちが次代を担う者として、共に成長していくための、最初の試練なのだ。
夜はまだ深い。だが、焚き火の周りだけは、確かな温もりに満ちていた。