第92節『見送り』
第92節『見送り』
源次たち一行の姿が、峠道の向こうへ完全に消えた。
つい先ほどまで領民のざわめきと武士たちの声援が渦巻いていた城門前は、今や秋風の音だけが吹き抜ける、がらんとした空間となっていた。
人々は、まるで夢から覚めたかのように一人、また一人とその場を離れ、それぞれの日常へと戻っていく。だが、その足取りは昨日までのものとは明らかに違った。誰もが胸の内に、小さな、しかし確かな希望の灯を宿している。
その喧騒が遠ざかった後も、井伊直虎、中野直之、そして重吉の三人は、まるでその場に根が生えたかのように立ち尽くしていた。
直虎は、胸の奥にぽっかりと空洞ができたような感覚に襲われていた。懐に手を当て、そこに託したはずの匂い袋がないことを確かめる。あの温もりは今、源次の胸にある。
「……行かせた。私は、井伊の未来を、あの男の双肩に託してしまったのだ」
当主としての安堵と、一個の人間としての不安。その二つが、彼女の心で激しくせめぎ合っていた。
風が吹き抜け、城門に掲げられた井伊家の旗が、ぱたぱたと乾いた音を立てる。
直虎は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「源次……必ず、戻れ」
それは祈りであり、そして何よりも強い命令であった。
「……さて」
その静寂を破ったのは、中野直之だった。
彼の声には、いつものような棘がなく、むしろ深く落ち着いた響きがあった。
「俺たちも、それぞれの務めに戻るとしよう。あの者が帰る場所を、空けておくわけにはいかぬからな」
その言葉に、周囲に残っていた家臣たちが静かに頷く。
彼らの足取りは確かだった。昨日まで対立していたはずの者同士が、ごく自然に言葉を交わし、肩を並べて城へと戻っていく。源次の出立という一つの儀式は、確かにこの家を一つにしたのだ。
重吉は、城壁にもたれて空を仰いでいた。皺の深い顔に、かすかな笑みが浮かんでいる。
「……とんでもねえ若造だ。儂のような老いぼれの足軽まで、まだ一働きしたくなってくるとはな」
その胸に湧き上がるのは、戦への不安ではなく、不思議な昂ぶりだった。
評定の間に戻る途中、中野直之は無意識に重吉の隣を歩いていた。
(なぜだ……)
彼は内心で戸惑っていた。
(なぜ俺は、一介の足軽上がりの、それも戦働きから退いた老兵に、胸の内を明かしたくなっている……?)
これまでの井伊家であれば、侍大将が足軽風情に弱音を吐くなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。それは法度以前の、武士として染み付いた身分の壁。しかし、あの源次という男は、その壁をいとも容易く飛び越えてみせた。漁師上がりの足軽が、当主の懐刀となり、家中を動かしたのだ。その男がもたらした変化の風は、この中野直之という男の凝り固まった常識にまで、静かに、しかし確実に影響を及ぼしていた。
「……重吉殿」
ぽつりと、自分でも驚くほど素直な声が出た。
「俺は、間違っておったのだろうか」
重吉は杖を止め、中野の顔をじっと見上げた。侍大将からの、あまりに率直な問いかけ。彼は一瞬言葉を選んだが、その皺深い目には、侮りも憐れみもない。ただ、長年同じ井伊谷の土を踏んで生きてきた者としての、静かな共感がそこにあった。
「いえ……中野様は、中野様のやり方で、この井伊を守ろうとしておられました。それは家中、誰の目にも明らかでございます。ただ……」
重吉は一度言葉を切り、遠い目をした。
「あの若造は、儂らには見えん潮の流れが、見えていただけのことかと存じますわい」
その言葉は、身分を弁えた丁寧な響きの中に、老兵らしい独特の節があった。中野は黙したまま、城の外に広がる井伊谷を見やった。田畑が陽に照らされ、黄金色の稲穂が風に揺れている。子供たちの笑い声が、遠く村から響いてくる。
「……俺たちは、あやつが帰ってくる場所を、命を懸けて守らねばならんな」
中野の声には、もはや迷いはなかった。
重吉は、その言葉に深く頷いた。
「はい。違いありませぬな」
中野は、初めて重吉をただの足軽としてではなく、同じ井伊谷を愛する一人の男として見ていた。そこにはもはや侍大将も老兵もいなかった。ただ、源次という男が帰る場所を守ろうと誓う、二人の『井伊の者』がいるだけだった。
風がまた吹き、井伊谷の空に稲穂の波が広がった。
その波のように、家中の心はひとつに揺らぎ、確かに結ばれていった。