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第91節『出立』

第91節『出立』

 井伊谷を出て、初めての峠を越えたとき、源次は振り返った。

 谷を包む朝霧が、ゆっくりと薄れていく。遠く、赤く染まった空の下に、故郷の山並みが霞んで見えた。だが、もう城は見えない。

 目に焼き付けたあの門前の群衆、そして峠で交わした直虎との誓いの言葉。それらはすでに背後へと遠ざかり、今、自分が立っているのは見知らぬ街道の入口だった。

 供を任された若武者二人は、緊張した面持ちで周囲に目を配っていた。まだ二十歳そこそこの彼らにとって、これほど長い旅は初めての経験だ。腰の刀に時折手を添えながら、落ち着かない足取りで源次の前後を固めている。


 井伊の領内を進む間は、道も比較的整えられていた。小石は敷かれ、ところどころに側溝が掘られている。田畑はよく手入れされ、黄金色に波打つ稲穂が風に揺れていた。農民たちは鎌を置き、旅人の一行が通るのを見つけると、頭を垂れて道を譲る。

 その姿に、源次は胸が熱くなった。

 (これが……直虎様が必死に守ってきたものか)

 穏やかな領地の景色が、まるで夢の中の光景のように思えた。


 やがて領境の関所を越える。木戸を抜けると、空気は一変した。

 道はぬかるみ、轍の跡が深くえぐれている。湿った泥が馬の脚にまとわりつき、進むたびにぐちゅりと音を立てる。鼻をつく馬糞の匂い。軋む荷車の音。人々の怒鳴り声と笑い声が入り交じる。

 ここは、混沌のるつぼだった。

 鎧を着けた武士の一団が、大きな旗指物を掲げて行進していく。傍らを、背丈ほどもある荷を背負った商人が汗を垂らしながら追い抜いていく。白装束の巡礼者は念仏を唱え、農民の一団は肩を寄せ合い、黙々と歩いていた。

 すれ違う者の衣服の織りや色、口にする言葉の訛り。その一つ一つが、源次には資料のページのように見えた。

 (あれは京からの商人か。絹を扱っているのだろう、身なりに余裕がある。あちらは……敗残兵だな。肩の鎧は失われ、顔に疲労が刻まれている。落ち武者狩りを恐れているのがわかる)

 彼は懐から小さな木札と炭を取り出し、気づいたことを素早く書き留めていった。歴史研究家としての習癖が、いまや情報収集という実務に直結している。しかし、それは学問的な興味だけではなかった。井伊家に持ち帰るべき「生きた情報」だ。


 供の若武者の一人が小声で囁く。

 「源次殿、この街道は……まるで戦場のようですな」

 源次は頷いた。「そうだ。これが外の世界の現実だ」

 やがて一行は、最初の宿場町の手前、森の入り口で足を止めた。道の脇に、不自然な塊が並んでいたのだ。筵がいくつも掛けられている。

 若武者の片方が顔をしかめる。「……行き倒れですな」

 源次は馬を降りた。ぬかるみに膝をつき、筵を一枚だけ静かにめくる。

 そこに横たわっていたのは、痩せこけた若い母親だった。目は大きく見開かれたまま、その腕には、同じように冷たくなった赤子が固く抱きしめられていた。

 「……っ」

 言葉を失い、思わず目を背けそうになる若武者たち。沈黙の中で、源次は筵を静かに戻し、両手を合わせた。


 (これが……戦国の日常か)

 胸の奥に、冷たい鉄の杭が打ち込まれたようだった。

 歴史書で読んだ「飢饉」「戦乱による民の疲弊」という乾いた文字が、今、死の匂いと重みを伴って目の前に突きつけられている。

 井伊谷で人々が笑い、子どもたちが走り回る光景。あれがいかに尊く、奇跡のようなものかを、今は頭ではなく魂で理解していた。

 彼の使命は、この母子のような悲劇を井伊谷で決して起こさせないこと。そのために徳川との交渉を成し遂げねばならない。


 源次は立ち上がると、動揺する若武者たちに向き直った。その声は、悲しみを押し殺した、鋼のような響きを持っていた。

 「……目を逸らすな。これが我らが生きる世の現実だ。そして、我らが井伊谷に帰るまで、この光景は幾度となく目にすることになるだろう」

 若武者たちは、はっとしたように顔を上げる。

 「だが、忘れるな。我らが今から成そうとすることは、この井伊谷を、このような地獄にさせないための戦なのだ。この母子の無念、胸に刻んで進むぞ」

 その言葉は、もはや歴史を客観視する研究者のものではなかった。この非情な世界を生き抜き、未来を切り拓こうとする、一人の戦士の言葉だった。

 若武者たちの胸に、畏敬の念が込み上げた。これまで彼らが尊敬していたのは、佐久間川で見せた神業のような『知謀』だった。だが今、目の前にいるのは、地獄のような現実から目を逸らさず、その悲しみを力に変えて進もうとする、魂の強さを持った男だった。この御方にこそ、井伊の未来を託せる。彼らは心からそう信じた。


 源次は再び馬上に戻る。供の二人も、力強く頷き、その後に続いた。

 泥にまみれた街道の先に、宿場町のざわめきがかすかに響いている。

 源次は胸に手を当て、懐に仕舞った匂い袋の温もりを確かめた。

 その瞬間、彼の心には静かで、しかし燃えさかるような決意が宿っていた。

 「必ず、生きて帰る。そして、この乱世に井伊谷を残す」

 そう誓いながら、彼は前を向いた。岡崎への道は、まだ始まったばかりだった。

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