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第90節『推しの言葉』

第90節『推しの言葉』

 東の空がわずかに白み始めるころ、源次は鎧直垂の紐を締め直し、肩に掛けた荷の重みを確かめた。

 中野から託された脇差、重吉が記した地図、女中たちが夜を徹して仕立てた兵糧丸と干飯、そして家臣たちが差し出した路銀――すべてが一つの包みに収まっているはずなのに、その重さは鉄塊のようにずしりと感じられた。昨夜、部屋を訪れた一人ひとりの顔が脳裏に浮かぶ。井伊家は今、確かに一つになった。その想いのすべてが、この荷には詰まっているのだ。


 城の大手門に向かうと、すでに夥しい人々が集まっていた。家臣だけではない。領民までもが夜明け前から城に集まり、道の両側を埋め尽くしている。

 「源次様、どうかご無事で」「井伊谷を……どうかお頼み申します」

 さざ波のように、人々の声が広がっていく。そのどの声も、祈りと願いに満ちていた。

 列の先頭には、中野直之と重吉が立っていた。直之は、以前の険しさが嘘のように、堂々と胸を張っていた。

 「おぬしの背には、我ら井伊のすべてがおる」

 その一言に、源次は胸を打たれる。

 重吉は、いつものぶっきらぼうな調子で、だが目元は赤く染まっていた。

 「死ぬなよ、若造」


 そして、万の視線を集めながら、直虎が進み出た。領主の装束に身を包み、凛とした姿で人々の前に立つ。

 「行け、源次」

 直虎の声が、朝靄を震わせる。「そなたは、井伊の希望そのものじゃ」

 源次は深く頭を下げ、全ての声と想いを背に受けながら、供の若武者二人を連れて城門を出た。


 峠道に差しかかったとき、源次は二人の供を振り返った。

 「少し先に行け」

 怪訝そうな顔をしつつも、若武者たちは従い、道の先へと歩を進めていく。源次の目に映ったのは、峠の頂に立つ一本松の下、笠で顔を隠した人影だった。

 周囲には誰の気配もない。だが、源次には分かった。この静寂こそが、最高の警護が敷かれている証なのだと。道の両側の木々の奥、岩陰の向こうに、息を殺した井伊の兵たちが潜んでいる。その采配を振るっているのは、間違いなく中野直之。彼がその全権をもって、この場を守っているのだ。


 彼は胸が高鳴るのを感じながら、歩みを速めた。

 「……直虎様」

 近づくと、その人影は静かに笠を上げた。そこにあったのは、領主としての威厳ではなく、一人の女性としての井伊直虎の顔だった。その傍らには、旅の僧に扮した重吉が静かに控えている。彼は直虎の個人的な願いを聞き入れ、護衛としてではなく、ただの付き添いとして影のように寄り添っているのだ。

 「皆の前では言えぬことがあった」

 直虎は、そう呟きながら懐から小さな包みを取り出した。

 「……なぜ、このような危険を」

 源次が問うと、直虎は静かに首を振った。

 「評定でそなたを使者と決めたのは、私じゃ。されど、その命を下した私自身が、井伊谷という安全な場所にいて、ただ祈るだけでは、家臣たちに示しがつかぬ。おぬしが命を賭して井伊の外へ出るのなら、私もまた、命を賭してこの井伊谷の境界に立つ。おぬしが背負うものと、私が背負うものは同じであると、共にあることを示したかった。……これは、私のわがままじゃ」

 それは、領主が家臣とリスクを共有するという、最高の信頼の証だった。


 彼女は薄紅色の布に包まれた匂い袋を差し出した。ほのかに沈香の香が漂い、胸をくすぐる。

 「これは……ただの気休めじゃ。されど、そなたの無事を祈る心を、ここに込めてある」

 源次は、指が震えるのを抑えながらそれを受け取った。懐に納めると、まるで胸の奥に炎が宿ったように熱さを覚えた。

 直虎は、真っ直ぐに源次を見据える。

 「よいか、源次」

 その声は、もはや領主としての命令ではなかった。

 「国書も、同盟も、すべては二の次じゃ」

 そして、はっきりと告げる。「必ず、生きて帰れ。……井伊谷は、お主を待っておる」

 その瞬間、源次の心に奔流のように込み上げるものがあった。脳裏に浮かぶのは、直虎の孤独な背中を見たあの夜。あの時から彼は決めていた。推しを守り、支えると。だが今――推しが自分のために祈っている。

 (推しが……俺のためだけに……こんな場所まで……!)

 目の奥が熱く滲み、喉が震える。源次は感情を全て込めて、深く、力強く頷いた。

 「――御意」

 直虎は、かすかに微笑むと、再び笠を目深にかぶった。裾を翻し、来た道を一人戻っていく。その背は小さく、しかし揺るぎない力を秘めていた。


 源次は、笠の影が木々に溶けて見えなくなるまで立ち尽くしていた。やがて、匂い袋を懐に押し抱き、何よりも大切な宝物として胸に仕舞い込む。

 そして、振り返る。岡崎へと続く道が、眼前に伸びていた。

 もはや孤独ではない。背に、井伊谷の全てを負い、胸に、推しの祈りを抱き――源次は一歩を踏み出した。

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