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第9節『偽りの履歴書』

第9節『偽りの履歴書』

 夜が明けた。

 東の空に、かすかな茜色が滲みはじめる。夜霧を含んだ冷気が、まだ骨に染みるほどに残っていた。

 源次は、焼け跡となった村の外れにひとり立っていた。

 足元には、小さな盛り土。そこに刻まれた墓標は、彼の育ての親の名をただ一文字で記しただけの粗末な木片だった。

 彼は、掌を合わせた。

 胸の奥にこみ上げるものを抑えつつ、低く呟く。

「……行ってくるよ、爺さん」

 声は、まだ冷たい朝の空気に吸われていく。

 そして彼は、村を――いや、自分のこれまでの過去そのものを――振り返らずに歩き出した。

 東へ。

 井伊谷へ。

 彼が選んだ生存と目的の道へ。

 もう背後を顧みることはない。あの灰の中には、彼の未来は一欠片も残されていないのだから。

 歩きながら、源次は考える。

 否、脳内で緻密な構築作業を始めた。

「俺は誰だ?」

 それが、最初の課題である。

 井伊谷に辿り着いたとして、名を名乗るとき、ただ「源次です」と言ったところで済むはずがない。

 必ず、「どこの源次だ?」「親は?」「何を生業にしていた?」と問われる。

 答えられなければ怪しまれ、排斥される。

 答えたとしても、矛盾があれば終わりだ。

 だからこそ、完璧な「履歴書」が必要だった。

「名前は……そのままでいい。爺さんがつけてくれたものだ。むしろ、この名を捨てるのは逆に不自然だ」

 決まった。名は「源次」のまま。

 問題は、その後に続く物語だ。

 経歴の骨子が、脳裏に浮かんでいく。

「……漁師、だな」

 この身体が持っている筋肉の質感、日焼けした皮膚、節くれだった指――それはどう見ても農民の子よりも水に馴染んだ労働の痕跡を示していた。

 ならば、漁師。それが自然だ。

 浜名湖。

 遠江の中央に横たわる巨大な湖。井伊谷にも近く、そこから流れてきた者ならば怪しまれることは少ない。

 さらに、武田や今川、徳川といった勢力が交錯する戦乱の地帯である。そこから流れてきた漂泊の男など、珍しくもない。

「浜名湖の漁師。腕は立つが、村を武田の兵に焼かれ、家族も船もすべて失った……天涯孤独の男」

 言葉にしてみると、ぴたりとはまった。

 あまりにありふれた悲劇だからこそ、逆にリアルなのだ。

 次に、細部を詰めていく。

「家族構成は……親父と母親。母は病弱、妹がひとり。そうだ、妹がいれば話の幅が広がる」

 妹はまだ若く、戦火の中で逃げられず命を落とした。

 それを語ることで、同情を誘える。表情に悲哀を混ぜる練習にもなる。

 親父は荒くれの漁師で、厳しかったが誇り高かった――そういう設定にすれば、自らの気質とも矛盾しない。

「獲っていた魚は……浜名湖なら鰻だな。あとは鮒やスズキ。網漁もいいが、俺の身体は竿の扱いに馴染んでる。一本釣りも混ぜておこう」

 彼の頭の中で、生活の情景が立ち上がる。

 夜明け前に舟を出し、網を打ち、夕暮れに鰻壺を引き上げる。

 妹が火を熾し、母が病に伏しながらも食卓を見守っていた。

 ――存在しないはずの記憶が、鮮やかに積み重なっていく。

 彼は歩きながら、口の中で独り言を繰り返した。

 声色を変え、抑揚を変え、幾度も試す。

「俺は浜名湖の源次だ」

「……親父は、舟の上で死んだ。網に絡まってな」

「妹は……妹は……」

 言葉を吐くたびに胸が締めつけられる。だがそれが演技を支える。

 悲しみを宿した声を磨き上げることで、虚構は真実に近づいていく。

「口調は……ぶっきらぼうでいい。無駄に喋ればボロが出る。短く、荒く、だが芯は真っ直ぐ」

 彼は、声を低くしてみる。

 鼻にかけるか、喉を絞るか、響きはどの程度が自然か。

 試行錯誤しながら、もっとも「戦国の漁師らしい声」を探っていった。

 さらに弱点への備えも忘れない。

「武芸はどうする? 漁師が妙に剣を使えれば疑われる」

 思考の中で、すぐに答えを組み立てた。

「漁師仲間と手合わせをしていた、でいい。刃物は日常。生きるために、喧嘩の延長で学んだとすれば不自然じゃない」

 相手から飛んでくるであろう問いを想定し、答えを即座に返せるように脳内でシミュレーションを繰り返す。

「どこにいた?」――『浜名湖の北岸、細江のあたりだ』

「家族は?」――『もういねぇ。武田に焼かれた』

「なぜ井伊谷へ?」――『働き口を探して流れてきた。食えるなら、何でもする』

 問いと答えを無数に並べ、矛盾を潰していく。

 それはまるで、緻密な碁盤の隙を埋めていく作業のようであった。

 昼頃、川辺に差し掛かった。

 源次はしゃがみこみ、両手で水を掬って喉を潤す。

 その時、ふと水面に映る自分の顔が目に入った。

 そこにあったのは――まだ「現代人の自分」の顔だった。

 思考の鋭さ、観察の癖、知性の影が表情に浮いている。これではいけない。

 戦国の世の漁師に、そんな影は存在しない。

 彼は、眉間に力を込めた。

 口元を固く結び、頬を引き締める。

 哀しみを抱きながら、それを外には決して漏らさぬ男の顔。

 水面を見つめながら、何度も角度を変えて試した。

「……違う。まだ違う」

 彼は呻きながら、表情を作り直す。

 無骨さ、疲労、諦観――それらを混ぜ、やがて水面の中の顔は、別人のものに変わり始めた。

 源次ではなく、「浜名湖で全てを失った漁師」という虚構の男の顔に。

 夕刻。

 人影のない道端で、彼は立ち止まった。

 そして石を拾い上げ、その石に向かって語りかけた。

「……おう、俺だ」

「そうか……まあ、そんなもんだ」

 短い言葉を、低い声で繰り返す。

 まるで相手と会話をしているかのように、石を握り締めながら独り芝居を続ける。

 笑うときは笑わず、泣くときも涙を見せず。

 すべてを胸に押し込める無骨な男の芝居。

 彼は歩き、練習を繰り返す。

 川を渡るたび、水面を鏡にして顔を確認する。

 夕暮れの草原を抜けるとき、独り言で問いと答えを繰り返す。

 そのすべては、ペルソナを身体に馴染ませるためだった。

 やがて山道を越え、谷が見えてくる。

 その先に――井伊谷がある。

 歩みを止めたとき、彼の姿はもう、かつての源次ではなかった。

 背筋の伸ばし方、眼差しの落とし方、声の調子。

 すべてが、浜名湖で家族も船も失った孤独な漁師のものに変わっていた。

 だが、その瞳の奥には、消えることのない光があった。

 ――推しを守るために。

 ――井伊直虎を救うために。

 虚構と真実が重なり合い、彼は歩を進める。

 井伊谷の入り口へ。

 そして、歴史の渦の中心へと。

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